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夢の棺  作者: 柴谷れな
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五十七番目の街

 夏嵐が三日もかかってようやく東の海に消えた朝は、おびただしい数の木の葉や、折れた枝が、其処いらじゅうを緑の絨毯のように覆っている。ティカナが公園に足を踏み入れると、足もとから折れた木々の青い匂いが、無数の小さなとげのように、彼女の鼻の奥を突っつく。生まれたてのような空気がティカナの頬を湿らせ、まるで彼女は解き放たれたばかりの小動物のようだ。軽快な足の運び。


 やがてティカナは教室の扉を開け、黒板の前を通ると、窓際の前から四番目の席に座っているクリオに視線をおくる。それから、いつものようにクリオのひとつ前の席を選び、不機嫌そうに黙って腰を下ろす。

 夏の朝のゆったりとした風が、白いカーテンに包まれては逃げていく。

 校庭のそうの木がときどき揺れて、ティカナは騒の木の向こう側にある筈のタウレン橋と、あの日のジューの透明な腕を思うのかも知れない。彼女はじっと窓の外を見遣る。

 タウレン橋を渡った日。―あのみじめな十歳の夏から、ティカナは誕生日を二度繰り返し、やがて十二才の夏休みが始まろうとしていた。


「おはよう。ティム」

クリオのおずおずとした小さな声。

「また暑くなるね。きっと」

そう云うと、クリオはいつもの、はにかんだような微笑をうかべる。彼は、それからたぶんティカナも、午前中いっぱい開け放される窓から入ってくる、いくらかひんやりとした風に吹かれるのが好きなのだろう。そうでなければ、もしかしたら午後の冷房から少しでも離れて座りたかったのかも知れない。

「プールに行こうよ。つぎのおやすみ曜日の午前中にさ」

クリオが続ける。

「それから、半魚人の店で冷たいチョコレートキック」

 ティカナは後ろの席を振り返り、しばらく黙ってクリオの瞳をじっと見つめる。

 ―水彩画のようなクリオ。まっ白な肌に、残りはすべて薄いバーリッシュピンク桃色。縮れた髪も眉毛も瞳も、爪も。

「・・・いいよ」

まるで「いやだ」とでも云うようなトーン音でティカナが答えると、それでも、クリオはほっとしたように小さく微笑む。

 クリオがティカナを誘うなんて、ひょっとしたら初めてのことかも知れなかった。

 クリオ・マーサとのおしゃべりは、たいてい抵の場合おしゃべりにならない。彼の笑顔とだんまりでとぎれるからだ。あんまり静かなので、クリオはまるでクラスにはいない子のようだ。彼はいつでも、ごく自然に、みんなにほっとかれる。

 ひとりだけ。ティカナにだけは、クリオは不思議なくらいおしゃべりだ。ティカナには、そう云う雰囲気があるのかも知れない。

 クリオとティカナの最初の出会いは、いくぶん風変わりなものではあった。


「これって、染めてないよね?」

転校して来た初日に、クリオはティカナの髪の毛にためらいもなく手をのばし、そう訊いてきた。

「染めてるわけないでしょ、わざわざこんな色に」

クリオの手をはらけながら、ティカナは怒りを込めて云った。

 いつでもショートヘア髪のティカナ。わずかに黄色を流し込んだせた感じの緑色の髪と瞳。ステイのどの街を探しても、こんな髪色のはいない。

「ぼくときみの髪の色が光の色だとしたら、ふたつの色の光が出会うと、白い光に変わるんだ」

ティカナにはらわれた右手をそっとズボンのポケットにしま舞い込みながら、頬を紅く染め上げて、クリオは云った。

 クリオは、ティカナを見てすぐに、ふたりの髪と瞳の色が補色の関係にあることに気がついたわけだ。こんな微妙な色合いの補色に気がつくのは、クリオ以外にどこにもいないに違いない。


 ティカナの歴史のノートには、クリオについてのこんなメモがある。

【「とくに一度見ただけで、どんなものでも風景でも、正確に絵にしてしまう才能は、尊敬してあげてもいい」】

それから、こんなことも。

【「かわいらしいそぶりや、ゆったりとして、ひかえ目な話し方。そんなところには、ときどき我慢がならなくなる」】


 やがてチャイムがなると、扉が開き、クラス担任が入ってくる。

 教師のあだ名は「でっかい胸のレイリ」。その大きなおっぱいで学校中をぎゅうじ耳っている。たとえ校長だって、彼女に面と向かって逆らったりはしない。

 でっかい胸のレイリに理屈なんて通らない。正しくても、正しくなくても、いったん彼女の攻撃にさらされたら、手のうちようなんてありはしない。ぶんぶんとおしよせるはちの大群のようなおしゃべりに囲まれて、脳みそが動かなくなってしまう。しまいには、誰だって、ただうなずくしかなくなるってわけだ。

「では、今日も街の順番から始めましょう」

でっかい胸のレイリが、自身たっぷりの声で話し出す。生徒たちはいつものように、椅子をくるりと回し、彼女に背を向ける。

 教室の後ろの壁のモニターは、縦一.五メートル、横二メートル。スイッチが入ると、青い星が大きく映し出される。

〈私たちのステイは、水の惑星です〉

始まりのナレーションはいつだって同じ。

〈ふたつの大陸といくつもの小さな島々。あとは海しかありません。海には数えきれないほどの生物がいます〉

ここで海の生き物たちがごちゃごちゃと登場。

〈そして、私たちの大陸には、五十七の街があります〉

大陸の全体が映し出され、五十七の街の場所がいっせいに点滅する。中心に広がる砂漠を囲むように森が広がり、全ての街は深い森の中に埋もれるように点在している。

〈それでは、今日の街の順番です。・・・第一位スキルキ。・・・第二位マゾゾン。・・・第三位モノノン。〉

発表のたびに、街の場所と名前が大きく映し出さる。

〈・・・第五十七位、エバダ〉

静かなため息が子供たちの口からもれる。大陸の東の端。海と、三方の森に囲まれたエバダの街並みが映る。

 発表が終わると、でっかい胸のレイリが指示棒で机を三回叩く。生徒たちはあわてて椅子を回すと、教師の方に向き直る。

「私たちのエバダは、いつも五十七番目ですね」

でっかい胸のレイリが云う。それから、彼女は子供たちの顔を見渡す。感想めいたことは何も云わない。でっかい胸のレイリは無駄な話をしない。彼女は事実と結果と正義以外には、まるで興味がないのだ。

 街の順番を決めているのが誰なのか、ティカナは知らない。もちろん、どうやって決めているのかも、何のために決めているのかも。クラスのほかの子供たちはそんなこと気にもとめていないようだし、でっかい胸のレイリも、たぶん一度だって説明したことがない。きっと、あんまり当たり前すぎて、誰も問題にしていないのだ。

 ティカナは、こういう種類のこと、―つまり、当たり前すぎて誰も気にもとめないようなことを問題にしたり、誰かに話してみたりすることがどんなに危険か、良く知っていた。


 二年前。

 ティカナの父親は、彼女が九才の四月に死ぬ。それから五月に十才の誕生日を迎え、六月の夏休みも間近な、とてもありふれた午前中の教室で、彼女の顔色だけが急速に青ざめた。まるで過呼吸症の患者のように、彼女は何度も大きく息を吸い込んでは、吐き出した。

からだ体と心がごちゃまぜになったみたい』

と、彼女の歴史のノートにある。

 昼休みには、とうとうでっかい胸のレイリの部屋を訪ねた。『空気のかわりに、胸の中が不安でいっぱいになった』からだ。

 クラス担任は机に向かって、ぶ厚い本の頁をめくっていた。彼女は顔を上げてティカナを見た。

ティカナは、その時初めて『他人と自分との間にあるものすごいかきね根を見た』らしい。彼女のノートの一節だ。

「みんな空気の吸いすぎ! それでなければ、酸素の生産が間に合ってないんだわ」

ティカナは訴えた。

「空気が足りないの。息が苦しいのは、きっとそのせい」

 でっかい胸のレイリがあわてた素振りを見せたのは、ほんの数秒だけだ。彼女はクラスのことや、授業のことなどを、短くいくつか質問し、最後に自信たっぷりに、

「今日はもうお帰りなさい。お母さんには私から連絡しておきます」

と、きっぱりと云いきった。

 ティカナは後悔で目がくらみそうになりながら、家路を辿たどった。

 先ずは、医者のヤブブが呼ばれた。ヤブブはベッドの横に腰かけて、ティカナの目や口の中をたり、聴診器を使って、胸やお腹の中の音を探ったりしてから、

「いつから、そう思っていたのかね?」

と、やさしい声で訊ねた。

「そう思うって?」

ティカナには、ヤブブが何を訊いているのかわからなかった。

「つまり、その、空気が足りないって云うことなんだがね。いつから、そんな気がしていたのかね? ティム」

ヤブブは、もう一度訊ねた。

「今朝、・・・教室に入った時からかな」

どうでもよさそうに、ティカナは答えた。彼女はもうすっかり落ち着いていた。

「頭の中で、声が聞こえたりしたことはないかい?」

ヤブブが続けて訊ねた。

「そんなこと、しょっちゅうだわ」

 ヤブブは、ティカナの部屋を行ったり来たりしながら、とうとう彼女の口から『白ひげシミじい』の話を聞き出した。

「白ひげシミじいは、私がベッドで目をつぶって待っていると必ず出てくるの。それから、『さてさて、今日はどんな夢がお望みかね』って訊くのよ。だから、どんな夢でも見たい放題なの」


 こうしてティカナは、十歳の夏休みを、週に一回の心理療法教室通いで過ごさなければならなくなった。


 そして気が遠くなるほど長い夏休みもやがて終わった新学期の最初の教室。ティカナのクラスには、特筆すべきふたつの変化が認められた。

ひとつは、転校生だ。バーリッシュピンク桃色のクリオ・マーサが紹介された。

 そしてもうひとつは、心理療法教室の驚くべき成果と云って良いだろう。ティカナ・コハナ・サクッティナは、まるで男の子のようなしゃべり方をすっかり身につけて、新学期の教室に帰って来た。


「ジューにだったら何を話したって大丈夫」

ティカナはそっとつぶやいてみる。二年前にジューに会って以来、彼女は密かに確信しているのだ。「ジューに訊いたら、きっと何もかもはっきりするんだ」と。


「では、『昨日と今日と明日』の授業を始めます」

レイリが云うと、後ろの壁のスクリーンに、今度は子供たちの名前がずらりと出てくる。名前の横には、街と同じように、順番がついている。

 ティカナは夏嵐前の最後の授業が終わった時から、二十三番だけ順番が下がっている。きっと、夏嵐で休んでいる間に、よその街の子供たちに追い抜かれたのだ。

「前回は『戦いのおわり』から『科学の勝利』まででしたね」

でっかい胸のレイリは一段と声を大きくする。

「街連合の会議で、戦争を永遠にやめることが決まったのは、何年のことですか?」

「三二五一年のムココス会議です」

クラスの男の子が答える。モニターのその子の順番が一つ上がる。でも、次の質問の前に、すぐに二つ順番が下がる。いろんな街のいろんな授業で、いろんな質問にたくさんの子供たちが答えているからだ。

 子供たちの順番は落ち着きなく変化している。まるで情報が多すぎて、上がったり下がったりを繰り返す株価のように。だけど、子供たちは、そんなことにはまるで無関心の様子だ。どうやら彼らにとって、めまぐるしく変わる順番は、教室のインテリア以上のものではない。

「では『科学の勝利』について、誰か説明してみてください」

でっかい胸のレイリが子供たちの顔を見る。何人かが手を上げる。ひとりの女の子が答える。

「公害とか環境の破壊のような問題が全部なくなって、科学と自然がきれいに調和したことです。勝利の宣言は三三九六年にウリマスターが出しました」

 ウリマスターの写真。黒板の上の天井近くの壁に飾ってある。白い口髭。芋虫のような眉毛と広いおでこ。ティカナに云わせると、「何だか作り物っぽいおやじ」の顔だ。

「そうですね」

でっかい胸のレイリが云う。

「『戦いのおわり』や『科学の勝利』のおかげで、私たちは、よけいな心配をすることなく、私たちのやりたいことや、やらなければならないことを、一生懸命、自分のためにやることができるようになりました。誰もがみんな、自分のこと以外のことは何も心配する必要がなくなったわけです。さて・・・・」

 でっかい胸のレイリが、指示棒を彼女自身の頬っぺたにくっつける。子供たちが同時に身をこわばらせる。不思議な合図で、いっせいに身をひるがえす回遊魚や、小鳥の群のように。

「科学の勝利宣言の後、美術の分野でも大きな変化がありましたね。誰かわかる人いますか?」

 誰も手を挙げようなんてしない。それは答えてはいけない質問。

 だけど、

「はい」

生真面目で、無防備で、細いけれどよく通る、硬質で精緻な―それは、クリオの声だ。驚いたようにティカナが振り向く。クリオはもう立ち上がっていた。

 クリオが自分から手を挙げて質問に答えるなんて、もしかしたらこれまで一度もなかったかも知れない。誰もが息を呑んで、成り行きを見守っている。

「風景でも何でも、その絵の中に自分の気分を描こうとする『気分派』にかわって、見た目のおもしろさを見せたい『技術主義』が中心になりました」

クリオが答える。

「ぼくの考えでは・・・」

「あなたの考えは必要ありませんよ。クム」

でっかい胸のレイリが、きっぱりとした口調でさえぎる。

「・・・いいえ、先生。もう少し、説明させて下さい」

透明な声。生徒たちは沈黙の中でざわめき、互いに顔を見合せる。

 でっかい胸のレイリが、右の眉毛を動かす。彼女は何も云わずに、大きく息を吸い込む。それから、ゆっくりと椅子を引き寄せると、腰をかけ、足を組み、あごでクリオに先をうながした。

「・・・ぼくの考えでは」

クリオが続ける。

「『技術主義』には、確かにおもしろい作品もあるのですが、つまらない作品も多いように思います。たぶん、見る方も絵の技術を追いかけることにばかりに気をとられて、疲れてしまうのだと思います。『気分派』は逆に押しつけがましくて、好きにはなれません。ぼくとしては『前期個人主義』の、のびのびとした絵が好きです。もちろん・・・」

でっかい胸のレイリが時計を見る。クリオが黙ると、

「もういいですか? クム」

と、教師は静かな口調で訊ねる。

 顔を紅くしてうなずくと、クリオは椅子に座る。彼の順番が、まるであほうどり鳥のダイビングみたいに急降下する。

 ティカナがあきれ顔で振り返り、クリオの顔を見る。クリオがにっこりすると、ついでにティカナの順番も五十番くらい落っこちた。

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