壊れた理由《わけ》―プロローグ―
秋の真夜中の、夜空のちょうどまん中あたり。アンドロメダ座の右足めがけて、どんどん、どんどん飛び続ける。光の速さで十六万年。やっと辿り着いた暗い宇宙のその場所には、いまは冷蔵庫くらいの大きさの、れんが色の岩がぽっかり浮かんでいる。
冷蔵庫岩のまわりの時間を、太古に向かって巻き戻す。500億年も遡ると、光が集まり太陽が生き返る。太陽のあつあつのスープの中から、やがて五つの星が飛び出す。
太陽から数えて二番目の惑星はステイ。この惑星が生命にはうってつけの「もうひとつの地球」だったとても短い時代の、これは物語。
惑星で一番大きな大陸の東の端に、深い森に囲まれた街がある。街の名前はエバダ。星の名づけ親たちが築いた、古い都だ。
公園前のバス停で降りると、少女は夏嵐のにおいのする空気を胸いっぱいに吸い込む。むせかえるような温かい雨。
少女よりも幼い男の子が、ステップでいちいち両足をそろえながら降りてくる。男の子はやっと歩道に降り立つと、雨の空を見上げる。
灰色の瞳の先を、石つぶのような小鳥の群れが、雨に追われて南の森に飛び去っていく。子犬の尻尾のような、短い白い煙を雨に溶かしながら、バスが走り出す。アスファルトの上に広がる水が、ほんのしばらく轍をとどめて、すぐに流れる。
男の子は全身灰色だ。だぶだぶのズボンも、裾を出した半袖シャツも、靴も靴下も。髪の毛や皮膚や瞳の色までもがそうだ。
「やほっ! とてもいいカメだ」
バスが目の前から消えると、せいせいしたように男の子が叫ぶ。
「亀じゃない! 雨だわ」
すかさず、少女がたしなめる。
「いいじゃないか。ティカナ。どっちでもさ。カメでもマメでも」
男の子は明るく云うと、苦労して赤い傘をさす。
少女はため息をついて、男の子の傘に体をもぐり込ませる。それから、かばんの中をごそごそさぐる。やがて彼女は赤いふちどりの丸いめがねと、折りたたんだ紙切れをつまみ出す。
「どう、これ?」
少女はめがねをかけてみせる。
「それ、どーしたの!」
男の子が驚嘆の声をあげる。そしてすぐ、
「でも、駄目。みゃあわないよ」
と、言葉を放り投げる。
「あんたって、猫? みゃあわないじゃなくて、似合わないが正しいわ。だけどもう決めた。ティカナ・コハナ・サクッティナは、めがねの似合う女の子になるのよ。いまはまだ、ただのガラス玉だけどね。でも・・・」
そう云うと、少女は男の子に紙切れを手渡す。
「あんたも平気でいられないんじゃない? きっと、これを読んだら。私のこと、嫌いになってもいいよ」
男の子は灰色の瞳で、受け取った青い小さな紙切れを見つめる。
※ご父兄のみなさまへ
お買上、まことにありがとうございます。
お子さまは、すぐに当社の似非人に、深い愛情をお感じになることでありましょう。
さて、当社の似非人は、ご使用後しばらくすると、目に見えて調子が悪くなることがございます。
もちろん当社の開発した画期的な「教育機能」が働いた結果です。
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ご使用に際しては何の問題もございませんので、どうぞ安心してお使いください。
お子さまとともにあるアポン社
「あんたの取扱説明書にはさまっていたわ。ご使用に際しては何の問題もないアンドゥちゃん。」
少女はそう云うと、アンドゥと呼ばれた男の子の頬を指で二回突っつく。
「あんたがうまく喋れなくなったのは、私が死んだお父さんのオルゴールのピンを全部引っこ抜いたせい。それに体や服や持ち物が灰色になったのは、きっとお母さんの描きかけのデッサン画をぬり絵にしたせいね。あんたったら、いちいちそれに反応しちゃったんだわ」
少女の母親が熱を出したのは、七日ほど前のことだ。
「なあに、ただの風邪ですよ」
医者のヤブブはそう云ったが、またも診たて違いをしでかしたわけだ。
本当の原因は、仕舞い込まれていたデッサン画を、少女がめちゃめちゃにしたせいに違いなかった。
母親が描きあげないままでいた絵は、九才と十一ケ月の彼女と、彼女の父親が並んでいる絵だ。
デッサンに色をのせる前に、少女の父親は死んでしまった。母親は絵を仕舞い込んだまま、それっきりまるで忘れてしまったかのようだった。
だけど、娘が絵の具を塗り付けているのを目撃したとたん、母親は具合が悪くなったのだ。
母親がひとつため息をつくと、アンドゥの体が灰色になった。咳をすると、アンドゥの洋服が灰色に変った。こうして、歯ブラシやハンカチやノート、クレヨンもシールもリュックサックも、アンドゥの附属品はみんな灰色になった。
母親の熱がおさまった時、アンドゥの持ち物で色つきで残ったのは、彼のお気に入りの赤い傘だけだった。
「ぼくのことは、シにしないでいいよ。ティカナ」
アンドゥはそう云うと、自分の取扱説明書を少女に、十歳のティカナ・コハナ・サクッティナに、突き返す。
「死になんかしないわよ」
少女は、乱暴に紙切れをバッグに押し込む。
「ただね、あんたがこれ以上おかしなことになったら、みっともなくて一緒に歩けやしない。今だって・・・」
大型トレーラーが二人の横を水しぶきを上げて走り抜ける。少女のめがねに雨のつぶがくっつく。
「とにかく、たったあれだけのことで、頭から足の先まで灰色になっちゃうのよ。本当に手も足もでないって、このことだわ」
バス停を離れると、二人は広い道路を横切り、やがて騒の木公園の細い砂利路をたどり始める。
少女は靴のかかとで砂利路をぐしぐしと踏みつけて歩く。彼女がかかとで穿った穴ぼこには、すぐに水がたまり、雨のつぶがいくつも落ちては、はじけている。
「でもね。どうやら私も壊れちゃったらしいわよ。少なくとも、ヤブブは絶対そう思っているわね」
少女は独り言のように云う。
「夏休みなのに! 何だってあんなとこに通わなければならないの? 十才だなんて。お父さんは死んじゃうし。誕生日プレゼントのアンドゥは灰色になっちゃうし。それで? 今度は私が壊れちゃったって? 十才なんて、最低だわ。本当に毎週あんなとこに行かなければならないの? すす払いだなんて」
「あんなとこって、どんなとこ?」
少女に遅れまいと足早になりながら、アンドゥが訊ねる。
「ねえ、ヤブブったら私をあそこに入れる時、お母さんに何て言ったと思う? 『なあに、心のすす払いじゃよ』ですって!」
少女はヤブブの口真似をしてみせる。
「ツツ払いって、何?」
「いちいちうるさいわね。でも、・・・何だろう? 知らないわ、そんなこと。・・・厄介払いみたいな意味よ、きっと」
小道はやがて川ぞいを上流へと向かい始める。小さくて丸い葉っぱをびっしりとつけた騒の木の隙間から、川向こうの白い建物が見える。雨に濡れた壁の所々が黒ずんだ、古い大学の校舎だ。
「帰ってよ」
立ち止まり、少女が宣言する。
「ここからは、ひとりでも大丈夫よ」
アンドゥはしばらく黙って、少女の顔を見つめかえす。
「わかったよ、ティカナ。でも、ヒをつけて」
そう云うと、赤い傘をティカナに手渡し、男の子は手ぶらで雨の砂利道を駆け出す。もと来た方へ。
「火なんか、つけっこないわ」
少女は小さく、ちょっと苛立たしげに呟いた。
少女が水たまりを飛び越えると、やがてタウレン橋のたもとに着く。狭くて長い木の橋だ。橋の下は、雨で増水したミール川のうねりが、キャラメル色になって流れている。
少女は橋のまん中あたりでじっと動かない黒い影に、すぐに気がついたようだ。彼女の顔がたちまちくもる。
少女はたぶん、ジューを見るのが初めてだ。黒い頭巾に黒いマントに黒いブーツ。全身黒ずくめの不吉な格好は、噂の通り。
ジューがいったい何者なのか、誰も何も知らない。大人たちは役にたたないことにはまるで無関心を決め込んでいるし、子供たちはといえば、知る方法さえ知らない。
少女は戸惑ったように、しばらく立ちつくす。そして、
「だめ。渡らなくっちゃ・・・」と、そっと呟く。
橋の向こう側。大学の白い建物がもう目の前に見えていた。
心理療法教室では若い女の見習医が、少女の描いてきた絵を首を長くして待っているのだ。興味と期待を、のっぺりした顔の裏に隠して。
決心したように、少女はタウレン橋に足を踏み入れる。
ジューは、たっぷりと水を吸った、ぶよぶよの木の欄干にひじを乗せて、川下の方をじっと見やっている。黒い頭巾に覆われて、少女の位置からジューの横顔を伺うことはできない。黒くて長いコートの下で、革のブーツが濡れて光っている。
とりあえず全ては雨のカーテンの向こう側にある。数え切れない雨のつぶが隠れ蓑になってくれることを祈りながら、少女はゆっくりと橋を渡り続ける。
ようやく橋の中程。マントの広い背中を瞳の右端に捉えながら、少女はジューの背後をすばやくすり抜けようとする。
「待つんだ」
黒い影が呼び止めた。
少女は凍りついたように立ちすくみ、分厚い雨の向こうの黒い背中を見る。
ジューの背中はぴくりとも動かない。
「靴の紐がほどけている」
傘を打つ雨音と、ミール川のうなりの隙間に、ジューの声が紛れ込む。思ったより若い声。
少女はそっと自分の足もとを見る。
「ほんとだ。触覚のくたびれたゴキブリみたい」
彼女は心の中で呟く。
素早くしゃがみ込むと、少女は左頬と肩とで傘の柄を挟み込むようにして、右の靴紐を結ぼうとする。なかなかうまくいかない。雨にうたれて震える濡れた指先で二回やり直し、ため息をついた後に、またもやしくじる。
少女は左右の長さが違うのを、この際、大目にみることにしたようだ。四回目にやっと結び終えてから、何事か決心でもしたように、すくっと立ち上がる。それから、傘の柄を握り直し、彼女はジュウの左側の欄干に、ゆっくりと近づく。
「手袋をひとつ、落としてしまった」
そう云うと、ジューは肩のマントをはらいのけ、左手を高くかかげる。まるで、空よりも高く。黒いマントにはじかれて、雨のしずくが光る砂利のつぶのように、あたり一面に飛び散る。
灰色の空にかざされた左手を見て、少女は息を呑む。ガラスのように透明だからだ。
降り落ちた雨が、指から手首、腕の形にそって、きらきらと輝きながら流れている。それは水晶でできた彫刻の表面を、いくすじもの水が滴り落ちるようだ。
「ぼくのからだは透明なんだ。もう、ずいぶんと昔からね」
黒い頭巾の影からジューの声。
その時、少女の胸の奥で、やわらかな風船が、丸くぽっかりと膨らんだのかもしれない。
「この傘をあげるわ。・・・手袋のかわりに。あなたが風邪をひかないように」
少女が唐突に、だけどためらうことなく提案する。少なくとも彼女の中では、帳尻の合う取引だったに違いない。
「ぼくは風邪なんかひかない。傘は持っていた方がいい。少なくとも、雨がやむまではね。君には当分、傘が要るはずだ。そのかわり・・・」
ジューの顔を見ようと、少女が欄干から身を乗り出した時、彼女の目の前で、黒い体が宙に舞った。
少女が驚く間もなく、ジューは欄干の上に立っている。思わず見上げる彼女の顔をめがけて、たちまち空から雨のつぶが降りそそぐ。雨ははじけて散らばり、彼女のだてめがねを役たたずの、ただの水の底のガラス玉に変えてしまう。
不意に、少女の裸の瞳に雨のつぶが直接ぶつかり始めた。彼女は幾度も目を瞬く。
「めがねはもらう。君の身代わりだ」
ジューはそう云うと、ミール川の水面めがけて飛び込む。大きな水しぶきが上がり、すぐに消え、黒いマントも、やがて濁流の中に見えなくなった。
「雨さえや止んだら・・・」
少女は蛇のようにうねり、てらてらと光って流れる川の面を見つめて呟く。だが、その後に続く言葉は、風にさらわれて、誰にも聞こえはしないだろう。もちろん彼女自身にも。
風が強くなってくる。赤い傘が風をはらんで、少女の腕を引きちぎり、空の彼方に持ち去ろうとする。何度も、繰り返し。まるで巨大な魚が、釣り人を海の底に引きずり込もうとでもするかのように。横殴りの雨も一段と激しさを増す。取り残された少女を、雨のカーテンがすっぽりと包み込む。
少女も、彼女の街も、何もかも灰色に煙って見える。この惑星の雨はまだまだやみそうもない。