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第四部 律令派政権

 長良の引き入れには失敗したが、長良の叱責も失敗した。文徳天皇は相変わらず東雅院に住み続け、律令派の面々もまた東雅院に籠もっている。

 役職の空きが出たら自派への人員引き入れのために大盤振る舞いする姿勢も変わらず、律令派は徐々にではあるがその勢力を増していった。ただし、位の大盤振る舞いはしていない。長良に従三位の位を与えたのが数少ない例外となる。

 しかし、勢力を増すことと現状が改善することとに繋がりはない。文徳天皇は現状の改善を試みるが、具体的な政策のないまま改善を訴えても何も起きない。

 頼りとするところは神仏と祖先であった。

 嘉祥三(八五〇)年一〇月五日、貴族と役人合わせて一五名に、京都近郊各地の陵墓への参詣を命じ、一〇月七日から八日にかけては各地の寺院や神社に奉られている神々に位を与えた。

 ところが、神頼みの効果は全くなかった。それどころか、文徳天皇を落胆させる大災害が起こるのである。

 嘉祥三(八五〇)年一〇月一六日、出羽国から緊急連絡が届いた。大地震が発生し多数の死者が出ているという連絡である。現在の調査によればこのときの地震のマグニチュードは七・〇と、巨大ではあるものの史上類を見ない大災害であったわけではない。しかし、出羽国府の城柵が壊れるなど出羽の中心部の建物が数多く崩壊し、圧死者が多数発生。また、この地震で津波も発生し、津波の海水が最上川を逆流して堤防を破壊。逆流した海水は国府から四キロのところまで迫るなど、出羽国の中心部の都市機能を破壊するのに充分な被害をもたらした。

 この大災害に文徳天皇は無力だった。

 七〇名の僧侶を集めて大般若経を転読させ、七名の僧侶に不眠不休で三日間の祈祷をさせたが、この行為はかえって、災害に対して何もできずにいる無力な天皇というイメージを伝えるのみだった。

 この現実を前に、嘉祥三(八五〇)年一一月一八日、ついに文徳天皇は倒れた。

 

 体調は戻ったが、天皇の重圧、そして政治家として現実に向かい合うことのプレッシャーを感じた文徳天皇は、嘉祥三(八五〇)年一一月二五日、それまで空席であった皇太子の地位を埋めることとした。

 それだけなら何のニュースにもならないが、このとき皇太子に指名されたのは惟仁親王である。生まれてからまだ一年経っていない幼児を皇太子に任命するのは無責任としか言いようがない。

 だが、血統を考えるとこれもやむをえなかった。

 母の身分を考えれば惟仁親王しか選択肢はないのである。普通に考えれば第一皇子である惟喬親王が皇太子に就くべきなのだが、惟喬親王の母である紀静子は今は亡き紀名虎の娘。片や惟仁親王は第四皇子だが、母の藤原明子は右大臣藤原良房の娘。これでは権勢を考えても惟仁親王を皇太子とせざるを得ない。

 皇太子の指名は単に次に天皇になる人を前もって指名しておくことではない。天皇の身に何かあった場合のことを考えておくのが皇太子の指名である。

 良房に逆らい続けていた文徳天皇だが、自分が居なくなった後も良房無しの政権を維持できるという思いはなかった。自分に何かあったら良房の元にまた政権を返さなければ、この国はさらなる混乱につながると確信していたのである。

 ただし、惟仁親王が永遠に皇太子であり続けさせるつもりはなかった。惟喬親王が元服したら直ちに皇太子の地位を惟喬親王に移すことを考えており、つまり、惟仁親王が皇太子であるのは惟喬親王が成人するまでの暫定措置であり、惟喬親王が成人したら律令派の政権は継続するのだということを公言している。

 良房はこの文徳天皇の発表に対し何も回答せずにいた。


 嘉祥四(八五一)年一月一日、文徳天皇としては始めての朝賀であったはずだが、文徳天皇はこれを欠席した。相変わらず東雅院に籠もって内裏に出ないでいる。

 一月一一日、今までは別々の日に発表されることが多かった位の昇格と新たな役職の発表を同時に行なった。とは言え、位については前年の即位時にかなり大盤振る舞いしているので空席は少なく、一〇名の役人を新たに貴族に迎え入れているぐらいしかない。

 一方、役職は文字通りの大盤振る舞いである。その数、三三名。しかもそのうち三一名が地方官である。たまたまこのタイミングで任期満了を迎えたというのもあるがそれだけが理由ではない。

 文徳天皇は前年の震災を利用したのである。

 震災の影響を考慮して、という名目で、震災の影響のなかった地域の国司も交替させている。新しい国司は無論、律令派の貴族に限定される。

 こうした国司の任命権は文徳天皇のみが持つが、その推薦をするのは式部大輔である伴善男の役割である。善男は巧妙な推薦をした。

 全員が全員律令派の者ではあるが、その全員が善男と協力関係にあるわけではない。律令派は、律令の精神こそ正しいとする純粋な律令派から、律令派に属するほうが自分の立身出世に有利だから律令派に身を置く者もいる。

 律令派の面々にとって律令派のリーダーとは文徳天皇であり、善男は有力者の一人であることは認めてもリーダーとは認めていない。そのリーダーとは認めていない小男がしゃしゃり出て律令派を仕切ろうとしている。

 これを不快に思う者も多く、中には善男を公然と非難する者もいたため、律令派が一枚岩であったわけではない。

 そこで、国司に任命する、それも震災からの復旧が急務であるがために京都滞在を許されず、任国に向かわなければならない国の国司に任命することで、自分にとって目障りな貴族を堂々と京都から追放できたのである。

 善男のこの行動の先例については、承和一一(八四四)年の按察使という先例で誰よりも良く知っているだけに、良房は何も言えなかった。


 以前からの天災の収拾を図る文徳天皇は、それまで小出しにしていた神々への位の付与を、これを期に一斉に行なうこととした。嘉祥四(八五一)年一月二七日、位を持たない神については一律で正六位上を付与するとの詔である。

 神々に対して人間が位を与えるのをどうかと考えるのは現代人の感覚。当時の人はそれが当たり前だと考えていた。天皇は神に位を与えることのできる存在であり、神も人間と同要、その地位に応じて位が与えられる存在であると認識していた。

 にしても、超自然の存在に対し役人の最上位ではあるが貴族ですらない位を与えて平然としていられるものなのだろうかとも思うが、これについてはそれがこの時代の感覚なのだと言うしかない。

 文徳天皇の理屈はこれで天災が収まるというものであったが、位をケチったせいか、天災はこの後も続く。

 それだけではまだ足りないと考えた文徳天皇が命令したのか、それとも自ら進んで兄の暴走を食い止めようとしたのか。律令と反律令との政争に嫌気がさしたのかはわからないが、嘉祥四(八五一)年二月二三日、仁明天皇の第七皇子で文徳天皇の異母弟にあたる常康親王が出家した。

 さらに、その翌日には仁明天皇の女御の一人であった藤原貞子も出家。こちらは亡き夫を偲んでと公表されている。

 これだけ天災が続き政争も繰り返されると、さすがに世の中を絶望視したくなる気持ちも湧いてくるのであろう、仏教に救いを求める人の数が日増しに増えていった。本来は寺院勢力を排除して作ったはずの平安京とその周囲に一つまた一つと寺院が登場するようになるのもこの頃である。

 天災はそうした人々をあざ笑うかのようになおも続いた。

 嘉祥四(八五一)年三月一五日、地震。

 嘉祥四(八五一)年三月二一日、月蝕。

 嘉祥四(八五一)年四月四日、地震。


 律令に基づいた政治を構築すると言っておきながら、践祚からこの一年でしたことと言えば、山野の所有禁止、役職の付与、位の付与、神頼み、仏頼み、だけ。山野の所有禁止を除けば真新しい物でもなければ画期的な政策でもない。唯一の例外である山野の所有禁止も結局は空文に終わっていることを考えれば、文徳天皇の政治の中身は何もしていないと同じである。

 東雅院に籠もって具体的な政策を示さぬまま時を過ごす文徳天皇がやっと動き出したのは、嘉祥四(八五一)年四月二八日になってから。

 元号を「嘉祥」から、「仁寿」へ改元した。前回の嘉祥への改元は白い亀が吉兆だからという理由での改元であったが、今回の改元は白い亀二匹、プラス、前年七月に石見国で観測された甘露(天皇や皇帝の徳が高いときに天から降るとされる甘い液体)を吉兆としての改元である。

 だが、誰が見ても今回の改元は厳しい経済情勢や天災を逃れるための改元であった。

 ただし、逃れようとすることと、実際に逃れられることとは別の話である。

 地震、雷雨、豪雨、増水。

 何とか鎮めようとまた神頼みをするが、やはり地震。

 その間、内裏と東雅院との歩み寄りは何度か試みられたが、内裏は文徳天皇の内裏入りを主張するのに対し、東雅院はあくまでも律令に基づく政治を主張する。最低限の政務をするため内裏と東雅院を蔵人が行き来するのが日常の光景となっているが、本当に最低限に留まっている。

 その結果何が起こったか。

 政治そのものが停滞した。

 おかげでこの年の史料は異様に少ない。何月何日に天災が起こったか、何月何日に人事が発表されたか、何月何日に神頼みをしたか、それしか記録が残っていないのである。

 研究者によっては、この時期の政治は事なかれ主義の消極的な物であり、その責任を良房に背負わせている研究者もいる。しかし、この責任は良房にあるとは考えられない。良房は右大臣としてできることはしているし、天皇の採決を必要とせず独断で行動できる事項については独断で動いている。ただ、右大臣ではどうにもならないことについて文徳天皇が動かずにいたのである。

 象徴であり権威は充分に持っているが、権力としては参政権すら持たない現在の天皇と違って、この時代は天皇が絶大な権力を持っている。右大臣をはじめとする貴族がNOと言おうと、天皇がYESと言えばそれはYES。だが、YESにしろNOにしろ、天皇が発言しなければどうにもならない。

 文徳天皇は、現実がうまくいっていないことについては理解していた。だが、現実を目の前にして自分の理想を拒否する考えはなかった。側近と敵対する天皇というのは何人もいた。だが、ここまで徹底的に側近との接触を拒否し、政務を停滞させた天皇はそうはいない。これもまた、理想主義の弊害であろう。


 仁寿元(八五一)年八月一〇日、京都を大水害が襲う。

 これまでは文徳天皇の決済を求め続けていた良房であったが、このときついに文徳天皇の決済を求めずに行動した。

 文徳天皇が動いたのは八月一四日になってから。水害被災者の救済にあたるよう詔を出すが、そのときにはもう、良房は二〇代の頃のように私財をなげうって救済にあたり、大勢の被災者を救出し終わった後だった。

 その上、文徳天皇は詔を出してもすぐに行動に移してはいない。文徳天皇の行動開始は翌一五日になってから。検非違使を派遣して京都市内の災害者の救済にあたらせたが、もう既に救済は良房の手によって完了しており、生活再建の順番になっていた。

 この行動の遅さは、文徳天皇、そして、文徳天皇の属する律令派に対する京都市民の支持が決定的に離れるきっかけとなった。

 文徳天皇はジレンマに陥っていた。市民の支持を得られないだけでなく、不支持の世論が良房らの支持に向かっている。だからといって、それまでの自分の人生を全否定することとなる律令派との訣別はできない。

 良房が右大臣となってからの天災の連発も、自身が天皇となってからの天災の連発を考えればプラスマイナスゼロになる。

 そのように考えていた文徳天皇に対し、文徳天皇が即位した後も良房が右大臣であるから、天がそれを律するために天災を続けているという解釈ができると言った者がいたが、これは文徳天皇の機嫌を悪くした。天皇である自分よりも一大臣に過ぎない藤原良房を天が選んだこととなるのだから。

 ここで律令派の支持率が回復することがあるとすれば、律令派の精神に基づく、あるいは精神から離れるといったことに関わらず、政策を打ち出して市民の生活を良い方向に劇的に改善させるしかない。

 そんな一発逆転の策など無かった。

 律令派にできたのは、神頼みと、空席を埋めることだけだった。

 仁寿元(八五一)年一一月七日、良房が正二位に昇進する。律令派への反発もあって市民の支持を集めている良房を評価することで律令派の支持低下を防ごうとする思惑ではあったが、思惑は外れた。

 良房を評価することと律令派の支持向上とはつながらなかった。

 ならばと、一一月二六日には、源弘や長良ら二四名の貴族を昇格させ、新たに二四名の役人を貴族に加えた。これは律令派の人員を増やすには役に立ったが、律令派の支持向上にはやはりつながらなかった。


 仁寿二(八五二)年一月一日、文徳天皇がついに東雅院を出た。と言っても行き先は内裏ではなく大極殿である。それでも、とりあえず東雅院を出たことは文徳天皇にしては妥協なのである。

 文徳天皇には一つだけ希望があった。良房には後継者がいないという問題である。

 現在、政権は律令派にある。権力は良房派にある。若手は律令派にいる。

 良房一人が反律令派のトップに君臨し、他の良房派は良房に従う一貴族に過ぎない。ということは、良房が居なくなったら反律令派は瓦解し、後に残るのは律令派だけ。時間はかかるが、現状のままならいつかは訪れることであり、良房が居なくなるのを待てば自派のみだけが存在する時代がやってくる。

 そう考えていたからこそ、仁寿二(八五二)年一月一五日の新人事を深く考えることなく一人の若者に職を与えたのであろう。

 この日は年始恒例の新人事の発表。もっとも、位については前年末に大量放出していたので、この日の人事は役職の発表のみとなる。この日に新たな役職を獲得した貴族は二三名。人数的にはごく普通の数である。

 このような新人事の一斉発表のときに天皇の前に進み出ることが許されるのは新しい役職を得た貴族のみで、貴族でないのに呼ばれるのは、天皇の側近を務めることとなる蔵人に選ばれた者のみ。

 蔵人は天皇の側近として秘書役を果たす職務であり、若手貴族や、役人のうちの貴族候補者がこの職を務める。蔵人の職務を勤めあげると自動的に貴族に任官するようにもなっており、役人にとっては蔵人に選ばれることが一つの目標であった。また、有力貴族の子弟が元服すると同時に蔵人に就くことも珍しくはなかった。そのため、蔵人に任命する儀式が元服式を兼ねることはまれに見られ、長良の長男の国経くにつねや、次男の遠経とおつねも蔵人に任命されたときの儀式を以て元服式としている。

 この日新たに蔵人に選ばれたのは、長良の三男、手古。一六歳であり年齢的にも申し分なく、兄二人が蔵人を務めたことを考えれば三男に対する処遇としても何らおかしくはないはずであった。元服に合わせ名を「基経もとつね」に改名するが、兄二人が「~経」という名であることを考えても、ごく普通の三男であるはずであった。

 ところが、元服し蔵人になった直後の基経を、良房は養子にしたと発表したのである。

 一見すれば、男児が複数人いる兄の三男を、男児のいない弟が養子として迎え入れただけのことである。

 だが、これは簡単に済む問題ではない。良房の養子になるということは反律令派のトップの後継者に就くということである。その上基経は、藤原家ではない母から生まれた兄二人と違い、藤原北家の出身である藤原乙春から生まれている。これは、反律令派のトップに就く身であると同時に、藤原氏のトップに就く身、すなわち、長良と良房の双方の権力を継承する身であることを意味する。


 基経のデビューを聞いて良相は激怒した。

 別の派閥になったとは言え、弟である自分が、長良の持つ藤原氏トップの地位と、良房の持つ政治家としてのキャリアの両方の地位を継ぐと確信していたのである。この二つの地位を加え、自身の持つ軍事力を合わせることで、最高権力者となることを良相は確実視していた。

 それが突然の消滅である。これに驚いたのは良相本人だけではない。

 良房が以前から甥たちの教育に熱心になっていたことは知っていたが、それが自身の後継者育成のためとは全く想像していなかった。何と言っても、良相は三九歳で実績も申し分なく、その地位も従三位陸奧出羽按察使兼大納言である。これだけ揃えば良相が後継者筆頭なのは常識と言っても良かった。

 その良相を差し置いて指名された後継者は、海のものとも山のものともつかない一六歳である。何も知らぬ第三者から見れば、これは無責任としか言いようがない。

 だが、少し事情を知れば基経を後継者に任命することはおかしな話ではない。

 まず、良房はこの年で四八歳。人生五〇年と考えられる時代であっても、この年齢になればおそらく六〇歳までは生きていられると計算できるだろうから、あと一二年。現在一六歳の基経もそのときは二八歳になっている。良房が貴族デビューしたのは二二歳であったことを考えれば、二八歳は充分すぎる年齢。

 次に、手古という幼名であった頃の基経に対して施された英才教育がある。藤原家の者は公教育である大学ではなく、藤原家専用の教育機関である勧学院で英才教育を施されるが、手古はその成績が別格であった。簡単に言えば、良相より出来がいい。

 一方、良相は軍を率いることにつけては抜群の才能も示すし、篁の教育のおかげで貴族としての一般常識を身につけたが、知の分野では平均であってそれ以上ではない。

 そして何より肝心な政治家としての能力については疑問符を付けざるを得ないのが良相である。

 律令派に身を置いて東雅院に足繁く通っているが、良相が律令派に身を置くようになったのは良相に誘われたから、厳密に言えば善男に利用されたからである。

 確かに基経の政治家としての力量は未知数である。だが、政治家としての能力が劣ることの判明している良相より、政治家として未知数の基経のほうが政治家としての可能性は高い。それに、基経の政治家としての技量が劣るものであったとしても、基経には血筋という強力な武器がある。権力者としての地位が掴めなかったとしても、最悪、藤原のトップの地位を維持できれば良いのである。


 後継者基経を公表したことの効果はすぐに現れた。

 これまでは、中高年が良房派で、若者が律令派。律令を基本とし日本的な物を良しとすることが若者の証であったのだが、そのさらに下の世代が今度は反律令派に走り出した。

 かつて良房がそうであったように、大学に身を置いて役人になるための日々を過ごす若者が基経の元に集い、良房支持を訴えたのである。

 彼らにしてみれば、律令派とは、自分たちの上に覆い被さって出世の障碍となる目障りな世代である。律令派と反発することでは、良房から基経に権力が継承されたとき、基経とともに出世へと進めることも意味していた。

 もっとも、これだけなら若者が基経を利用したということになる。

 だが、基経はそんなタマではなかった。厳しさを漂わせる良房と違って実の父である長良のような穏和さを持っていたが、リーダーシップという点では良房の後継者であること文句なしと言っても良いものであった。

 その上、蔵人としての基経の能力が文徳天皇の文句の付けようのない中身であった。相変わらず内裏に出てこない文徳天皇であったが、内裏との連絡が皆無なわけではない。内裏に対し命令文を送っているし、内裏からの請願も聞いているし、その返答も出している。その文面を読み上げるのは蔵人の役目の一つであるが、いつしかそれが基経の専門の役割になった。ただ書いている文章を読み上げるだけでなく、文とともに受け継いだ伝言を漏らさず伝え、些細な質問でも確認に回り、確実に応えた。

 一つ一つは何ということのない日常の所作でも、連続すればマンネリズムにも陥るし、自分の勝手な解釈を加えることもあるが、基経にはそれがなかった。相手の都合に合わせて聞こえの良い中身に言い直す蔵人も珍しくもなかったが、それも基経にはなかった。こうなると、聞きたくもないことを聞かなければならない代わりに、基経が伝える中身であれば問題なく真実であるという信頼にもなる。

 基経は一六歳にして、律令派、良房派双方の信頼を獲得したのだ。

 もっとも、良房派にとっては自派の若きホープの誕生であるのに対し、律令派にとっては手強い相手の誕生となるのであるが。


 基経出現は律令派のアピールポイントが一つ失われたことを意味する。若さである。律令派の支持は少ないが、ゼロではない。そのゼロではないうちの少なからぬ部分が、若さをアピールした結果であった。若さを前面に打ち出すことで、何ら具体例を伴っていなくても、新しさを打ち出すことができていたのである。

 基経登場はそれを失わせた。新しさを求める思い、そして、現状打破を求める思いが、ついこの間まで中高年のものと見なされていた良房派へと注がれることとなったのである。

 しかし、律令派にはもう一つのアピールポイントがある。実際に天皇が居るということである。文徳天皇が行動を起こせば、左大臣が何を言おうと、あるいは右大臣が何を言おうと、それは決定であった。

 もしここで文徳天皇が強権を発揮し何らかの行動を起こしていたとしたら、律令派の支持もある程度は向上したであろう。

 だが、文徳天皇にそれはなかった。

 文徳天皇は相変わらず、神頼みと人事の大盤振る舞いしかしなかった。その他にしたことがあるとすれば、宮中の行事のうち、内裏に行かなくても済ませられることぐらい。前年と違いがあるとすれば、東雅院に籠もって一歩もでなかった文徳天皇が、東雅院の外には出るようになったということである。

 冷然院や豊楽院といった大内裏の外の建物にまで足を運ぶようになり、それまでは大内裏の中に入ってきた一般市民の様子しか知らなかった文徳天皇が、京都市中の現実を多少なりとも垣間見ることになった。


 多少なりとも垣間見て感じた結果。それは平安京の路上で日々を過ごす市民たちの貧しさである。

 治安の悪化と不作で農地を捨て都市に流れ込んだが、都市に出ても職はない。それでも多少なりとも働いて現金を稼ぐことはできたが、インフレが現金の価値を台無しにしている。

 この現実を見た文徳天皇は、ただちに市内の失業者を救援するよう指令を出す。だが、その答えは満足のいく内容ではなかった。

 律令派からは、その救援が律令には記されていないばかりか、農地を捨てて都市に出てきたことは律令違反であり、犯罪として取り締まるべきとの回答だった。そして、直ちに班田を実施して失業者を農地に戻さなければならないとした。

 良房派からは、京都市中の救援を以前から行なっており、これ上の救援を出す財政的な余裕はなく、援助できる穀物の蓄えもないとの回答だった。そして、全ては市中に出回る食糧の不足が生活の混迷につながっており、この解決のためには、律令に逆らってでも食料の絶対数を増やさなければならないとした。

 どちらも意見は同じなのである。

 市中の失業者を農地に戻し食料を増やすことがそれである。

 ただ、律令派は班田の実施で、良房派は律令に逆らった上での農地の拡張で、という方法の違いがあった。

 この点では、良房派のほうが具体的で、かつ、実績も伴うものであった。

 律令派は班田を実施し、配布された土地を耕せと命令するのみであった。荒れ果てた土地を復活させ、新しい農地を開墾し、土地を維持する費用は国持ちであったが、そこに土地を守る武力はない。強盗団が襲いかかってきたらそこで全てが終わってしまうのである。

 一方、良房派は土地の私有を前提としていた。良房ら有力者の私有地ではあるが、土地の初期投資費用も維持費用も有力者持ち。ここまでは班田と同じだが、こちらは強盗団から土地を守るだけの武力もあった。天候不順による不作は防ぎようがなかったが、強盗団に収穫を奪われるリスクなら少なかった。

 ただ、そのどちらにも問題があった。農業をする意欲も無い者を無理矢理農地に連れていっても何もならない。都市に流れ、働かずに福祉で生活をできるようになった者にとって、働かなければ生活できない暮らしは苦痛であった。これが、手厚い福祉がもたらした現実である。


 仁寿二(八五二)年三月一三日、文徳天皇は各国の国司や郡司に治水対策を命じた。水害対策もあるが、主目的は農業用水の確保である。

 これは班田ではない。新しく土地を切り開くにせよ、現在の田畑を利用するにせよ、農業生産性を上げるサポートをすることが目的であり、これにより利益が出るのは現在田畑を耕している者と、これから耕そうとする者である。

 これは律令派と良房派の双方の妥協点を探った結果であった。治水を命じること自体は律令違反ではない。だが、律令の精神には反する。

 律令の精神は手厚い福祉と平等。文徳天皇の命じた治水は律令違反ではない。利益は平等でもないし、ただちに手厚い福祉にもつながるわけでもない。だが、増産にはつながる。

 文徳天皇のこの命令は、良房派からは好評に迎え入れられたが、律令派からは不満の声が挙がった。特に、善男の不満の強さは周囲をしらけさせるに充分だった。

 善男の主張は、今回の治水命令で利益を得るのは一部の有力者の持つ大土地のみであり、班田耕作者にはほとんど利益が出ない。その有力者のために国庫を使って工事をすることは、律令の精神に反するというものであった。

 理屈の上ではそうだろう。だが、有力者の利益になるから反対という題目を掲げてはいるが、この人は何であれ反対するのだ。善男にとって重要なのは他人を批判することであって、この国を良くすることではない。

 さらに、善男は反対するだけしておいて、その代わりにどうするのかという意見を全く表明していない。これがもし、律令の精神に則って全ての人に平等に展開される政策であったとしても、善男は反対をしていたはずである。


 この善男の態度は文徳天皇を考えさせるに充分だった。いや、善男だけではない。律令派の面々全体を再考させることにもつながった。

 良房に反対し、律令に理想を求め、過去の日本こそ目指すべき姿であるとする文徳天皇であったが、律令に従った政治をすれば全てが解決するという考えは、完全に捨て去るまでには行かないにせよ、疑問を抱かせることにはつながった。

 そして、良かれと思って出した命令は、敵であるはずの良房派に絶賛され、味方であるはずの律令派から非難された。

 それでも文徳天皇は東雅院に留まり続け、律令派の面々との日々を過ごした。良房派からは内裏に出向いて政務にあたるよう要請を受け続けていたが、文徳天皇の答えは、明確な政策を打ち出すことのない、人事と神頼みの日々である。これならば律令派の反発がなかった。

 これは天皇の採決を必要とする重要案件がなかったことを意味してもいる。つまり、文徳天皇が東雅院に籠もって内裏に出てこなくても、各地から寄せられた請願を左大臣や右大臣が討議し、その結果を文徳天皇に奏上し、文徳天皇が特に律令派の反発を気にすることもなくそのままで良しとした、そういう案件しか無かったということである。もっとも、天皇の日々の政務とは大部分がそういうもので、横からごちゃごちゃ言うぐらいはできても、律令に逆らっているわけでも律令の精神に背いているわけでもない内容だということぐらい律令派の面々もわかっていた。


 ところが、この年の七月に寄せられた連絡は、国論を二分した。地方から労働義務に対する不満が高まり、いつ暴発してもおかしくないという連絡である。

 律令に従えば、二一歳から六〇歳までの男性は年間三〇日、六一歳以上の男性はその半分、一七歳から二〇歳までの男性さらにその半分までの期間、各国の国司は労働力として集めても良いとなっていた。これが労働義務としての雑徭ぞうようである。この義務に対する報酬を払う国司もいたが、中には無償で強制労働をさせる国司もいた。

 この労働義務に対する民衆の不満が朝廷に届いていた。

 良房派は労働義務の中止と、労働義務を課す場合は相応の報酬を支払うことを主張した。この労働義務のせいで肝心の農作物にまで影響が出ている以上、労働義務を廃止し、食糧増産に務めるべきである。各国の国司にはインフラ整備を務める義務もあるが、そのための費用は既に国から出ているのだから、労働をさせるのなら、義務ではなく有償での人員募集とすべきである、という主張である。

 これに対する律令派、特に善男の反発は強かった。労働義務があるからこそインフラが維持できているのであり、無くなったらインフラの維持もできなくなる。各国の予算はインフラを維持させるための報酬を払えるほどではなく、報酬分を増やすとなるとその分の国庫負担も増す。ゆえに、反発があろうと変えるべきではない、との主張である。

 だが、律令派の真意はそこではない。

 律令派政権となって以後、数多くの貴族が新しい役職を獲得したが、その九割以上が国司をはじめとする地方官である。この地方官という役職は、一期六年を勤めあげれば一生暮らせるだけの資産が稼げるウマミのある職務であった。

 無論、それは給与の高さからではない。

 横領と収賄と着服の結果である。

 善男が主張したのは事実ではある。たしかに、各国の予算はインフラ整備を全て有償でこなせるだけの額ではない。

 だが、国司に支払われる給与があれば話は別である。私財を持ち出して担当国のインフラ整備を実施すれば、労働義務に頼る必要はどこにもない。これが良房からの反論である。良房は実際に私財を持ち出して、有償で労働力を募ってインフラを整備した経験がある。その結果、国司を勤めながら終わってみたら私財はマイナスになるという珍しい例を生んだ。

 不可能では無いという前例が持ち出されては律令派の反対の根拠も失われる。

 仁寿二(八五二)年七月一九日、肥前・豊後領両国の貧民一万六〇〇〇名の労働義務を免じると定められた。これは良房派からの妥協であった。一地域の、それも、貧しい者に限定しての義務免除である。

 ところがこれでも善男は激怒した。自分の意見が否定されたことに腹が立ったのか、興奮がおさまらず顔を真っ赤にして怒鳴りちらし、最後のほうは何を言っているのかわからなくなった。

 これで善男の評判が上がったとしたら、そのほうがおかしい。実際、このときの民衆の評判は良房派に集まり、善男個人、そして、善男の所属するという理由で律令派全体に対する非難の声が高まっている。

 それはこの月の末の災害によってさらに増幅した。

 仁寿二(八五二)年七月二八日、台風が京都の近郊を襲う。京都市中の被害は甚大ではなかったが、京都近郊の農地が被害を受け、この年の収穫に影響をもたらすことが確実となった。おそらくその他の地域でも被害を生んでいたことであろう。

 良房はこのとき、文徳天皇に被害状況を伝えるとともに、災害からの復旧を提言した。このときもまた善男は反対し、文徳天皇の認可もなかなか得られなかったため、良房は私財を提供しての復旧にあたった。

 善男はこれもまた批判する。救済は国の管轄事項であり、一個人が乗り出すべきことではないという主張である。

 この主張は民衆の善男への反発が増すのに役立つだけだった。もっとも、善男は自分に向けられた民衆の反発を気にしていない。

 善男という人は、民衆を人間と思っていなかったのではないかとさえ思う。自分を有能な存在と考え、自分以外の存在については、貴族については認識するも自らより劣る存在としか考えず、民衆に至っては人間ではなく風景としか認識していなかった。ゆえに、善男にとって自身へ向けられた反発の声は風景が奏でる騒音でしかなかった。

 善男とは逆に、このタイミングで評判を高めている者が居た。良房の養子となったばかりの藤原基経である。

 台風は閏八月一二日にも京都を襲った。このときは家屋が数多く崩壊し木々も倒れる惨劇となった。

 これに対する朝廷の対応は閏八月一六日になってから。廩院(国の命令で職務に就く人に支給される穀物を保管する蔵)のコメを京都市中で風害にあった者に支給したのだが、これは遅すぎた。そのときにはもう良房の手による救済が始まっていたのである。

 このときの救済の陣頭指揮を執ったのは基経であった。良房が蔵人なったばかりの一六歳の若者を養子にしたことは知っていたが、その姿を見た者は少なかった。

 その一六歳の若者が同年代の若者とともに被災者の救援に出向いたことを知った京都市民は、今でこそ律令派の政権になっているが、良房の次は律令派ではなくこの若者の時代になるのだと考えるようになった。

 基経の外見は、小野篁や在原業平といった絶世の美男子でもなければ、伴善男のように醜い小男でもない、至って平凡である。知性があるとも感じないが無いとも感じない。リーダーシップを強くは感じないが頼りないとも感じない。貴族として生まれなければ、そして、良房の養子となっていなければ、どこにでもいる京都の民衆の一人として埋没してしまいそうな平凡な人間としか感じない。しかし、真面目な若者であり、そして、良房がそうであるように、民衆のことを見捨てない人であるとも印象づけた。

 これは、基経に対する親近感を抱かせ、右大臣の後継者にも関わらず、基経が庶民の代表のような存在であることを印象づけるのに役立った。


 夏から秋にかけて、文徳天皇は再び消極的に戻る。

 積極的に動かなければならない災害が無くなったわけではない。大雨も降ったし地震も起きた。文徳天皇はその都度、神に祈りを捧げ、仏に救いを求めた。

 それでも、特に大きな出来事はない。

 ただ、時代は確実に変化していた。新たな者が登場する一方で消えゆく者もでてきたのである。今まで東雅院に姿を見せていた者が一人、姿を見せなくなったのもこの頃。

 律令派最大の良心と考えられてきた小野篁が、東雅院から姿を消しただけでなく、公衆の面前に現れることもなくなった。記録には病に倒れたとあるが、それが何の病気であったのか、それがどのような症状であったかのかを伝える記録はない。

 一方、比叡山延暦寺からも同様の連絡が届いてきていた。出家して比叡山に籠もっていた源明も篁と同様の病気で倒れたという知らせである。

 これはただ事ではないと考えたとしてもおかしくはない。良房はこの二人の病がただの偶然ではないと考え、伝染病のおそれがあると結論づけた。しかも、これから寒くなる季節を控えている。これから先、多数の死者が出るのではないかと考えたのである。

 文徳天皇の元にもこの知らせは届いていたし、良房からもこの冬の大量死を憂う連絡が来たが、何の手だても打てずにいた。良房からは最低でも東雅院を出ることを要請されたが、それについても何の回答もなかった。

 仁寿二(八五二)年一二月一九日、文徳天皇は小野篁に従三位の位を授けた。参議がいくら位と連動していない職であるとはいえ、参議兼左大弁での貴族が従三位になることは珍しい。もっとも、篁のこのときの従三位就任が先例となり、後には参議正二位という例も現れる。

 仁寿二(八五二)年一二月二〇日、源明が死去したとの連絡が比叡山から来る。三八歳での死であった。

 その二日後の一二月二二日、小野篁が死去したとの連絡が来た。五〇歳での死である。律令派の良心で威圧感のあった篁の存在が消えたことは律令派にとってあまりにも大きなダメージであった。

 一二月二六日、病魔退散を願っての金剛般若経の読経を命じた。


 仁寿三(八五三)年は仁明天皇の頃の通例に戻った。

 一月一日の朝賀は大極殿で行われた。内裏に足を運ばないのは相変わらずだが、それ以外は仁明天皇の頃と同じだった。

 過去三年間の役職や位の大盤振る舞いが消え、位の昇進が一月七日、役職の付与が一月一六日に行われた。このとき、伴善男が正四位下に登る。また、前年の篁の死去に伴い空席となった左大弁には藤原氏宗が昇格した。

 篁が亡くなったが、それ以外は前年と変わらない一年の始まりである。大きなイベントが企画されているわけでも、大きな事件が続いているわけでもなく、この年はこのままいつも通りの日々が続くと誰もが考えていた。

 しかし、前年に良房が危惧していたことが現実となり、例年どおりではない日々が現れてしまった。

 天然痘の流行が観測されたのである。

 前年の篁や源明の死が天然痘であったかどうかは不明であるし、良房の上奏したのも天然痘を念頭に置いたものかもわからない。ただし、良房の上奏した伝染病対策は無視され、何ら動きを見せなかったことが、被害を増幅させることとなった。

 この時代、天然痘の原因がウィルスによるものという考えは無かったが、天然痘が伝染病であり、天然痘患者の側にいる人が天然痘になるという知識は既にあった。そのため、人が多くいるところを避けて天然痘の被害を避けるということも頻繁に行われた。

 仁寿三(八五三)年二月二日、文徳天皇がついに東雅院を出た。東雅院は、政務をする最低限の設備ならばあっても、狭い場所に大勢の者が集中しているため伝染病を食い止める効果は薄い。そこで文徳天皇は平安京を離れ梨本院(現在の京都市左京区大原にある「三千院」)に移った。その後、太皇太后橘嘉智子の死後空きとなっていた冷然院に移動することもあったが、基本的には梨本院を主たる居住地とした。

 文徳天皇のような立場であれば天然痘から逃れる手段を持っている。だが、そのような立場の者は常に例外。天然痘が流行していようと日々の暮らしをしなければならない者にとっては、天然痘だからと言って好きに移動するなどできない。

 結果、天然痘の流行が暗い影を落とした。つい昨日まで健康であった者が、突然の高熱に襲われ、気がつけば全身発疹が現れ、死を迎える。これは恐怖としか言えない。

 天然痘は、老いも若きも、身分の差も貧富の差も関係なく襲いかかる。唯一天然痘の被害を免れることができるのは、かつて天然痘に罹りながらも死を迎えることなく完治した者のみ。普通、天然痘は再感染しない病気であり、天然痘が再感染したという例は医学書に例外的に載っているだけである。

 天然痘に感染した場合、発症から一〇日以内に三人に一人が亡くなる。命を取り留めた者も天然痘の痕跡が全身に残り、以後の人生に支障を与える。この伝染病の絶望感は人々から気力を奪い、社会を停滞させるに充分だった。


 良房は自宅を開放し、天然痘の災厄を逃れようとする者を収容した。もっとも、いくら良房が裕福であると言っても、この時代の医学水準を超えるような医療を提供できるわけではない。つまり、良房の屋敷に足を運んでも天然痘が治るわけではなく、天然痘に罹る可能性を低くできるというだけである。

 この良房の行動は評判となり、仁寿三(八五三)年二月三〇日(当時のカレンダーには二月三〇日があった)には、良房の邸宅に収容された避難民を文徳天皇が見舞いにくるほどであった。

 ただ、文徳天皇が足を運んでも、それで天然痘が収拾するわけではない。

 伝染病の流行を食い止めることは、どのような政治的立場にあろうとも政治家である者ならば必ず全力を尽くさなければならないことである。だが、天然痘の原因のわからぬこの時代に、いかに天皇と言えど何ができるであろう。

 良房のように自邸を開放して避難民を収容するもいい。だが、それよりも先にしなければならないことがある。生活を作ることである。

 天然痘が流行したというのに、いつもの年のような収穫が得られるわけはない。天然痘に罹った者はそのぶん生活が苦しくなるし、本人が罹っていなくてもその家族に影響が出る。

 三月二二日、文徳天皇にとってはのいつものことであるが、一〇〇名の僧侶を大極殿に集め、三日間の大般若経の転読が行われた。天然痘の終息を願ってである。

 文徳天皇のこの神仏に頼る姿はさすがに良房を呆れさせた。そして、神仏に頼るのではなく、罹患者と家族の救済に当たるべきとの叱責が飛んだ。その上で、罹患者救済のために国庫を開けるべきとの上奏文が届いた。

 三月二七日、文徳天皇は穀倉院に保管されている塩を、京都在住で天然痘に罹患した者とその家族に無料で供出した。当時の民間療法で塩が天然痘治療に効果有りと考えられていたことに加え、インフレが歯止めのかからなくなっている経済を考えれば、現金になりうる価値のある塩の配給は、罹患者と家族の生計を成り立たせるのに効果があった。ただし、この配給は一度で終わる。いかに国庫と言えど、塩がそれほど豊潤に保持しているわけではないから。


 天然痘の被害はついに宮中に及んできた。

 仁寿三(八五三)年四月一八日、文徳天皇の弟である成康親王が天然痘で死去。

 同日、嵯峨天皇の子で、左大臣源常の弟の一人である源安も天然痘で死去。

 四月二五日、天然痘流行のため、平安遷都以前から山城国(平安遷都以前は山背国)で行なわれ続け、平安遷都後は国家行事となった賀茂祭(現在は「葵祭」と呼ばれることが多い)の中止が発表される。雄略天皇の即位の年(四五七年)から歴史に登場する賀茂祭が中止になるのは、歴史上これがはじめてのことである。

 翌二六日、天然痘の被害が甚だしいため、未納となっている税のうち承和一〇(八四三)年以前の未納税の免除と、天然痘罹患者への医薬給付を発表。

 同時に、これまで規制対象外であった孫王(天皇の孫)の五畿外への外出を禁止するとの発表もされた。貴族は五畿の内部にしか留まることが許されず、それがたとえ京都とは目と鼻の先である比叡山であろうと五畿の外であるため、許可無く赴くことが許されないのは天然痘の蔓延するこの時でも同じであった。ただ、皇族のうちの一部の者はその適用対象外のため、天然痘を逃れて五畿の外に出て行くことを選ぶ者が多かった。

 京都でその日暮らしをしている庶民は、京都を出て行くことも、出て行った先での生活の術もないのに、一部の皇族だけが五畿の外に出て天然痘から逃れるというのは民衆の怒りを買うことであった。

 もっとも、怒りの矛先は皇族だけだったのではない。貴族にも矛先は向けられていた。特に、天然痘流行の前は国司などの地方官に選ばれながら京都に留まっていたのに、天然痘が流行しだしてから慌てて地方に出て行く者も続出していたので、怒りの矛先は皇族だけとは限られていない。

 ところが、京都を脱出して地方に向かった貴族が目の当たりにしたのは、京都以外の土地でも天然痘が流行しているという事実だった。

 特に、東日本での天然痘の流行が甚だしかった。仁寿三(八五三)年五月四日には、相模、上総、下総、常陸、上野、陸奥の六ヶ国に一切経を写させ、天然痘の沈静化を祈らせたほどである。当然というか、それで被害を少なくできたわけではない。それどころか、田畑を耕す壮年男性が次々と天然痘に倒れ、農業に壊滅的危機をもたらすことにもなる。また、母体は無事であったり、天然痘に罹っても命を取り留めたりしたものの、お腹の子が天然痘に冒されてしまったという事例が続出した。


 一方、京都でも天然痘の猛威が街中を席巻していた。関東地方や東北地方に比べればマシだが、それでも次から次へと天然痘に倒れる者が現れた。

 貴族の中にも天然痘に倒れる者が続出し、命を取り留めても、その顔に天然痘の痕跡を残す者が出てきた。顔に発疹の跡が残り、眉が抜け落ちるのである。彼らの中には、厚化粧をし、眉を墨で描いてその痕跡を隠す者も現れた。平安貴族としてイメージされる白塗りかつ眉描きの顔はこのときより登場する。

 厚化粧も眉描きも律令の服飾規程に違反する行為であり、善男はこれを激しく非難したが、善男の批判よりも自らの顔に表れる天然痘の痕跡を消すことのほうを優先させる者が続出したため、善男の批判も弱いものに留まった。

 これだけであれば天然痘罹患を隠す行為として黙認される一部の風習に留まったであろう。だが、周囲を驚かせる事態が起こったのはその直後、何と、天然痘に罹ったという知らせを全く受けていない良房が、眉を剃り落とし、厚化粧をし、代わりの眉を描いて宮中に姿を見せたことである。さらに、兄の長良まで良房と同じ格好をして姿を見せた。こういった外見的な物とは無縁と思われていた長良と良房の兄弟の姿に宮中はどよめいた。

 しかし、その場で良房は言い放った。天然痘罹患の有無に関係なく誰もが同じように眉を剃り、厚化粧をし、眉を描けば、顔に表れた天然痘の痕跡を誰もが気にすることなくなる、と。

 この良房の言葉は宮中の貴族を黙らせ、決意させるに充分だった。

 天然痘に罹った自分を恥ずかしく思い、何とかごまかそうとしていた者にとってはこれ以上ない援護射撃であり、天然痘に罹っていない者にとっては、たとえ口に出してはいなくても、天然痘罹患者への差別感を抱いていたことを気づかせるに充分だった。

 そして、天然痘に罹っていようといなかろうと関係なく、同じようなメイクをすれば誰もがそれを気にしないようになると考えたのである。

 この結果、天然痘罹患の有無に関係なく、そして、男女の関係もなく厚化粧をして顔を白くするのが宮中で流行し、貴族社会を目指す役人や大学生にとっては貴族の厚化粧が憧れのステータスとなり、貴族世界をかいま見ることのできる庶民の中でも豊かな者は、貴族のするような厚化粧を始める者も出た。

 そして、天然痘に罹った者を差別することがみっともないことであり、天然痘に罹ったことで生じる外見を気にせぬことが正しいことであり、それを気にさせなくする格好が正しい格好であるとの風潮を広めることとなった。

 善男はこの風潮を嘆いたが、これは、民衆の不満を集めるのみならず、善男が天然痘患者を差別する者であるという評判を生んだだけだった。


 天然痘の流行はさらに勢いを増し、家族全員が天然痘に罹り空き家となってしまった家や、住民全員が天然痘に罹ったため全滅した集落が続出した。

 文徳天皇は京都市内だけではなく、日本各地の天然痘対策に追われた。仁寿三(八五三)年五月一一日、一七の寺院に対して大般若経の三日間の転読をするよう詔が出す。一三日には太宰府にも同じ命令を下し、一四日には武蔵と信濃の二ヶ国に対して一切経を写させることで天然痘の沈静化を祈らせ、二二日には、美濃国の二一〇〇斛を天然痘患者に給付させた。

 それからも天然痘で多くの皇族や貴族が倒れた。

 五月二九日、良房の叔父に当たる藤原助たすくが天然痘により死去する。

 六月二日には遣唐使一人として唐に渡ったこともある、この時代最高の医師と言われた菅原梶成も天然痘に罹って亡くなる。

 六月四日、後の平氏の始祖となる平葛原こと葛原親王も天然痘で死去する。

 天然痘対策のための国家予算消費が大きいこと危惧した文徳天皇は、皇族を減らして出費を抑えることを試みる。祖父の嵯峨天皇や父の仁明天皇と同様、文徳天皇も自分の子に「源」の姓を与えて皇族から外した。このときは能有親王をはじめとする男女あわせて九名の皇族が源氏となった。源氏二十一流の一つ、文徳源氏の誕生である。

 文徳源氏の誕生は貴族の数を増やすこととはつながらない。最年長の源能有でさえこのときはまだ八歳である。いかに後に右大臣として権勢をふるうこととなる源能有であろうと、八歳では貴族としてカウントするわけにはいかない。

 それどころか、天然痘の流行により貴族の絶対数が減ってしまったのである。各役職を務める貴族が病に倒れ命を失ったことで、空席が続出しただけではなく、政務に支障を生じることとなったのだ。これを埋めるため、今までであればより下の役職に留まっていた貴族を引き上げることとなった。

 自らの出世を考え、時代は律令派になると見込んで善男の元に足を運んだ若手貴族の中から、このタイミングで望み通りの出世を果たした者が出た。と同時に、律令派と出世とが無関係であることに気づく者も続出した。

 今回の天然痘大流行で文徳天皇が梨本院に移り、未だ東雅院に残る律令派と距離を置くようになっている。その代わり、文徳天皇は内裏との連携をとっており、その政策には律令派ではなく良房の影響が出るようになっている。

 律令派にとって小野篁の存在はやはり大きかった。篁一人が亡くなったことで律令派は無力な政策集団となり、この天然痘の前に何もできなくなっているのである。仮に篁が生きていたところで天然痘の前にどうにかなったとは思えないが、律令派の貴族達は篁が亡くなったことが大きいと感じた。文徳天皇が律令派から距離を置くようになった現在、篁亡き律令派でリーダーとなるべきは良相や善男だが、二人には強力なリーダーシップを感じなかった。

 東雅院は一人また一人と貴族が消えていった。


 天然痘の流行に追い打ちをかけるような災害が仁寿三(八五三)年八月一日に発生した。右京(平安京の西部)で大火災が起こり、およそ一八〇件の建物が焼失、数多くの死者が出た。また、右京に放置されていた天然痘患者の遺体もこのとき焼けた。

 大火が伝染病の病原菌を焼き殺すため、大火のあとは伝染病の流行が収まるといった事例は存在するが、このときはその例に含まれない。右京に残っていた天然痘ウィルスが焼けたことは焼けたが、すぐに外から天然痘ウィルスが入ってきて、右京はまた天然痘の流行地帯に飲み込まれた。

 一方、京都市外では意外なことが起きていた。

 仁寿三(八五三)年という年はたしかに天然痘が日本全国に蔓延した一年であった。だが、天候は安定していたのである。降水量も日照も農業にとって最適であり、天然痘に罹患していなければかなりの可能性で豊作が見込めたのだ。

 無論、天然痘に罹患してしまった農家は収穫に影響を及ぼす。それでも、農村というものは一家庭で全てをこなすわけではない。集落単位での相互扶助が農村の鉄則である。天然痘に罹った者の看病を集落で行ない、耕す者が居なくなった田畑を代わりに耕すのが当たり前であった。

 天然痘により集落が全滅したところはどうにもならなかったが、全滅ではなかった集落からは豊作の知らせが飛び込んだ。この収穫による税収が国家財政を好転させる要素となり、文徳天皇は天然痘の被災者に対する大規模な援助を開始する。

 手始めとして、仁寿三(八五三)年九月一四日、太宰府管内の天然痘罹患者に対し、合計三万八七〇〇石もの穀物支給を決定した。

 一〇月一六日には安芸国(現広島県)に対して天然痘罹患者救済を前提とした免税を決定。二二日には、以前より計画されながら予算不足から実行できずにいた遠江国と駿河国の境となる大井川の渡船の二艘増置を実行するとの決定が出た。これにより、東海道の交通事情で最大の障碍である大井川の渡河の効率が向上した。


 豊作により財政は改善されたが、天然痘の猛威はなおも続いていた。

 せめて年末年始ぐらいは天然痘の猛威が鎮まるようにと、仁寿三(八五三)年一二月八日、諸国郡の国分寺・国分尼寺に陰陽書法を行わせたが、効果はなかった。

 天然痘は年が明けても終息せず、仁寿四(八五四)年一月一日の朝賀も中止となった。

 それでも、天然痘がまるで無かったかのような一年の始まりとしようとする努力は見られた。一月七日、二二名の貴族が昇格し、一八名の役人が新たに貴族に加えられた。人数も日付も仁明天皇の頃と変わらない。一月一六日には三三名の貴族が新たな役職を得る。これも仁明天皇の頃と変わらない。

 ただ、その努力も天然痘の猛威の前には無駄であった。

 人事に続き、年中行事も例年通りの開催しようとした文徳天皇であるが、人が集まることでの天然痘の拡大防止が優先だとの意見の前に、行事の開催は断念せざるを得なくなった。平安京の民衆にとっては数少ない娯楽の中止であるが、天然痘対策であるという説明の前には誰もが納得した。

 その代わりにと言うべきか、文徳天皇は各寺院や各神社に、天然痘鎮圧の祈りを捧げるよう命令している。

 二月一三日、災疫を除くため、大和国に灌頂経法を行わせた。

 二月一六日には五二名の僧侶を集め、三日間の大般若経転読をさせた。

 こうした祈りの様子は公開とされ、娯楽に飢えていた民衆は、争うように寺院や神社に押し寄せた。お参りすることで天然痘から逃れられると考えた者もいたことまでは特に問題ないのだが、そうしたお参りをする民衆相手に、天然痘よけの妖しげな呪符やグッズを売る者が出るとなるとさすがに問題となった。まあ、人間のやることというのは、現在も一二〇〇年前も変わらないということか。


 仁寿四(八五四)年四月一三日、それまで平安京北東の梨下院に避難していた文徳天皇が、平安京内の冷然院に住まいを移した。相変わらず内裏ではないが、平安京の内部に住まいを移したというだけでも進歩であった。

 文徳天皇の戻った平安京であるが、天然痘の蔓延する状態であることに違いはない。四月一九日には、前年に続き賀茂祭の中止が命令されたほどである。これも平安京に住む民衆にとってはやむを得ぬこととして受け入れられていた。

 しかし、日本中が天然痘に苦しんでいる最中の四月二八日、陸奥国から届いた知らせはどうあっても受け入れられないことであった。

 陸奥国から届いた知らせは、凶作により困窮者が続出しており、陸奥国に常駐している兵士が逃亡。その動きに農民も同調し、反乱の恐れがあるという知らせである。

 京都とその周辺では豊作だったが東北地方では不作であったというだけであれば、それは同情できることであるし、援助だってしようという気にもなる。だが、兵士がその職務を放棄し、周囲の農民と連携して反乱を起こそうというのだから、これは同情できることにはなれない。

 天然痘に苦しんでいるのは東北地方だけではない。平安京だって天然痘に苦しんでいるし、地方各国からも天然痘の苦しみの連絡が届いている。家族を亡くした者もいる。友人を亡くした者もいる。恋人を亡くした者もいる。天然痘に罹り一生消えることのない痕跡が顔に刻まれた者もいる。だけど、誰もがその苦痛に耐えている。

 それが、東北地方だけ天然痘に耐えることなく反乱を起こそうとしている。これは民衆の怒りを呼び起こすのに充分であった。

 反乱の恐れありとして二〇〇〇名の兵士を陸奥国へ派遣することが決まったが、うち一〇〇〇名は反乱鎮圧の呼びかけに呼応し名乗りを上げた平安京の民衆であった。

 無論、主目的は反乱の鎮圧ではなく、反乱そのものを起こさせないことである。

 飢饉だというのだから、食料を配布すればいい。そして、このときの京都には配布できるだけの食料の余力があった。

 五月一五日、兵士が陸奥国に派遣されたと同時に、一万斛の穀物の輸送も始まった。派遣された兵士達に課せられた使命は一つ。反乱鎮圧ではなく、反乱そのものを起こさせないこと。


 仁寿四(八五四)年六月。天然痘の猛威が内裏に現れた。

 左大臣源常が天然痘に罹って倒れたのである。

 良房の傀儡と言われようが、二八歳で右大臣に就き、三二歳で左大臣となってからこれまで、人臣の最高地位者は源常であった。

 たしかに源常が左大臣であったこの一〇年間、権力は良房の手にあった。だが、決して凡庸な左大臣ではなく、その権威はときに良房を凌駕することもあった。何と言っても仁明天皇の実の弟という一点は良房には超えることのできないプラス要素であり、同じ言葉でも、良房が口にするより源常が口にするほうが重く感じられた。

 その源常が天然痘に罹り内裏から姿を消して自宅に籠もった。藤原氏の邸宅と路を挟んで建っているため、良房ら藤原家の者にとっては気軽に訪問できる邸宅であったが、源常はその訪問を拒んだ。いや、良房ら藤原家の者だけでなく、一切の訪問を断ったのだ。その上で、邸宅で働く使用人のうち、天然痘に罹患した経験のない者を一人残らず解雇し、そうした者達の処遇を良房に任せた。全ては天然痘の拡大を防ぐために。

 源常は高熱にうなされ、激しい頭痛と関節痛に悩まされて身動きができなくなった。

 手に紅色の斑点が現れ、鏡を見ると同じ斑点が顔にも現れていた。

 斑点は次第に水ぶくれとなり、皮が破れ水が出た。

 熱はいったん引いたものの水をはき出したあとの斑点が化膿し、黄色い膿が溜まった。同時に咳が激しくなり、呼吸困難を伴った。源常はこのとき死を覚悟した。

 再び高熱が源常を襲い、呼吸も苦しくなり、ついに身動きができなくなった。

 そして、六月一三日。

 左大臣源常死去。

 翌一四日、文徳天皇は亡き源常に対し正一位を贈った。


 源常の死によってポストが一つ空いたことで、出世を望む貴族たちは色めき立った。何しろ人臣最高位のポストが空いたのである。一つずつポストが昇格するのは間違いないし、自分の地位も上がること間違い無いと考えたのだ。

 文徳天皇も当初、良房をそのまま左大臣に昇格させようとしたのだが、当の良房がそれを拒んだ。不祥事を起こしての退官ならばともかく、病によって命を失った者の地位を即座に埋めるのは失礼にあたるというのが良房の言い分である。

 その結果、左大臣の地位は空席のままとなった。人臣のトップの地位が名実共に良房のものとなったが、その地位はあくまで右大臣である。

 ポストの移動があったのは源常の死から四ヶ月後になってからであった。その四ヶ月間、史料に出てくるのは天然痘鎮静化を願う神仏頼みと天然痘による死者の記録がほとんどである。

 四ヶ月後の記録、それは左大臣ではないが、なかなかの高い地位であった。仁寿四(八五四)年八月二八日、生前の源常が左大臣とともに兼任していた左近衛大将に良房が就く。そして、それまで良房が兼任していた右近衛大将には、大納言の源信が就任。良相が大納言に登り、長良が権中納言となった。

 同日、源融が伊勢守に、源多が参議に昇る。何れも良房派の若手であり、これを見ると、このときの文徳天皇は律令派と距離を置いていたことが読みとれる。もっとも、良房派だからというよりも、自分の従兄弟である面々の優遇という側面もあるが。

 この天然痘の流行のおかげで、いつ、誰が、命を失ったとしてもおかしいとは思わなくなったし、その誰かというのが自分であったとしてもおかしいとは感じなくなった。

 文徳天皇も左大臣の突然の死という現実を目の当たりにしては、自らの命を考えざるを得なくなる。そのことが現実となったとき、皇位は皇太子である惟仁親王の手に渡る。だが、やっと文字を学びだしたばかりの幼子に天皇が務まるだろうか。それを考えたとき、文徳天皇が頼りに考えたのは、それまで自分の周囲を固めていた律令派ではなく、やはり良房だった。

 それまで中止されることの多かった年中行事の中から、良房は重陽節の定例通りの実施を上奏し、仁寿四(八五四)年九月九日、予定通り重陽節の儀式が執り行われた。重陽節は天皇が臨席するが、その中身は音楽を奏でる中での宴でしかない。それでも、たった一日でも、政治信条に関係なく、身分の差も関係なく、天皇も、貴族も、役人も、一般庶民も、天然痘のことを忘れることができた。


 仁寿四(八五四)年九月二三日、一ヶ月前に就いたばかりにも関わらず、右近衛大将の地位が源信から藤原良相に移される。源信も良相も大納言であることに代わりはないのだから、大納言職にある者が兼任することの多い右近衛大将職に良相が就くのは不合理ではない。

 だが、一ヶ月前に就任した者を罷免して新たな者を就けるのである。これは不合理な話としか言いようがない。

 一見すれば、良房が左、良相が右と、藤原兄弟が左右の近衛大将の職を占めるのだから、藤原家の権勢を示す要素になりうる。しかし、この時代の者がそんなことを考えるはずがなかった。良房と良相は、その政治信条の違いから異なる派閥となっている。この二人の間にあるのは対立であって協力ではない。

 おそらく、良相がこの右近衛大将職を渇望した結果であろう。忘れてはならないのは、良相がこの時代最高の武将だという点である。後の武士は、後と言っても征夷大将軍が権威を持つようになる前であるが、その時代の武士は、近衛大将を武人に対する最高の栄誉と考えた。おそらく良相も似たような考えだたのではなかっただろうか。

 これまでは左大臣が左近衛大将、右大臣が右近衛大将を兼任していた。大納言である自分よりも目上の役職にある者が兼任しているのだから、近衛大将になりたければより出世しなければならない。

 ところが、良房が左に転じたことで右の近衛大将が空席となった。これを知った良相が、大納言である自分にはこの空席に就く資格があると考えたとしてもおかしくない。自分より上には良房ただ一人がいるのみであり、武人としての実績を見ても右近衛大将は当然の結果であろうという理由で。

 そう考えていたところで知った源信の右近衛大将就任。良相は落胆すると同時に怒りに身を任せた。

 その上、源信は良房派の貴族として時代をリードしていた。兄である源常が亡くなった後、兄弟たちをまとめていたのはこの源信である。ただでさえ源氏は律令派と敵対する存在と見られているところに加え、良相が渇望していた右近衛大将を横取りしたと考えられた源信は、この後、律令派と激しく敵対することとなる。

 一方、念願であった右近衛大将の地位を手に入れた良相だが、結果から言うと、良相個人だけではなく国にとって最高の選択であったことが翌年判明する。


 仁寿四(八五四)年一〇月一一日、良房の後継者に指名された藤原基経が従五位下の位を得る。この瞬間、基経は貴族となった。

 貴族となった基経であるが蔵人であることには変わらない。着る服が役人のそれから貴族のそれになったが、あどけなさの残る少年という見られかたは相変わらず続いている。

 ただし、基経は良房派の若手のホープとしての頭角を現しつつあった。

 一一月二日、基経が侍従に出世する。蔵人と同様文徳天皇の補佐をする仕事であるが、蔵人より文徳天皇と接する時間は長い。また、文徳天皇の命令を伝達する仕事はなくなり、その代わりに文徳天皇の身の回りの世話をする時間が増える。これは典型的な貴族の子弟の出世コースであった。

 文徳天皇は基経を信頼するようになっていた。周囲がみな歳上ばかりという環境にあって、自分を兄のように慕い、誠実に職務をこなす少年である。女性を引きつける美貌や可愛らしさはないが、この少年には何とも言えない愛嬌があった。

 だが、文徳天皇は一つ大切なことを忘れていた。この少年は良房から帝王教育を受けているのである。愛嬌のある幼い少年と思っていても、その中身は良房派の一貴族であり、その行動は良房派の行動であった。


 仁寿四(八五四)年一一月三日、文徳天皇は最後の手段を選んだ。

 天然痘対策として改元をするというのである。

 ただし、この改元には賛否両論あった。凶兆での改元は珍しくない。ただ、それを明言することは珍しい。誰が見ても凶兆でしかない理由での改元であろうと、些細なことでも見つけだして吉兆ととするものなのだから、それを打ち出さずに凶兆を理由とすることに反発が起きたのである。

 過去二回の改元は、それがどんなに実状を伴ったものでなくても、名目上は吉兆による改元とされた。それが今回は、はっきりと凶兆による改元と明言している。

 実際に改元が行われたのは一一月三〇日になってから。改元を打ち出してから一七日経ってようやく、元号は「仁寿」から「斉衡」へ変更された。

 斉衡元(八五四)年一二月三日には、改元を告げ、天然痘を鎮めることを祈る使者が、文徳天皇の祖父でもある嵯峨天皇の陵墓に派遣された。

 ただ、改元も、嵯峨天皇への陵墓への参詣も、天然痘を鎮める効果はなかった。

 年の明けた斉衡二(八五五)年一月一日の朝賀も中止となった。もっとも、このときは天然痘流行に加え、京都の都市機能を麻痺させる大雪が降ったためでもある。

 一月七日、位の付与が行われ、良相が正三位に昇る。また、善男が従三位となり、四位に留まっている正躬王を位で追い抜いた。

 正三位となった良相であるが、その八日後の一月一五日、これまで就いていた陸奧出羽按察使の職を降りている。代わりに陸奧出羽按察使に選ばれたのは中納言の安倍安仁。安倍安仁に課せられた使命は、二〇〇〇名の兵を率いて陸奥国に向かい、反乱を未然に防ぐことである。既に二〇〇〇名の兵が陸奥に向かっていたから、安倍安仁の手元には四〇〇〇名の兵がいることとなる。

 この一月一五日は、安倍安仁の他にも数多くの貴族が新たな役職を手に入れている。安倍安仁の他に三九名の地方官が任命され、八名の貴族が武官に組み入れられた。

 彼らに託された共通の役割、それは治安の安定化である。


 天然痘による死が日常の光景となり、人々に絶望感が漂ったことは既に述べた。

 問題は、その結果である。

 明日にも死ぬかも知れないと考えながら生きなければならないとき、それまでの平常の暮らしをできるだろうか。明日がわからない。未来が見えない。頑張っても、頑張っても、その成果が見られる前に自分は死ぬかも知れない。そんな毎日を過ごさなければならないのだ。

 どうせ死ぬならその前に欲望を満たしたいと考えるのは、犯罪ではあるが、本能でもある。もし、それがどう頑張っても手に入れることのできない欲望なら最初から諦めもつく。だが、一杯の白いご飯、新しい服一着、こんな些細な欲望ならどうか。誰でも市に行けば手に入れることだってできるのだ。ただし、資産さえあれば。

 その資産が無いという現実、欲望が目の前にあるという現実、そして、明日にも死ぬかも知れないという現実が合わさったとき、待っていたのは犯罪の増加だった。

 平安時代全体を見渡しても治安の良い時代とは言えない。だが、今回の天然痘発生以後の治安の悪さは異常だった。街には盗賊がうろつき、昼間でも一人で歩くなどもってのほか。その上、犯罪者を捕らえても反省することなく、死刑になるべき犯罪者でも追放刑に留まるため、いつの間にか戻ってきては再犯者となる。

 何しろ、内裏や、文徳天皇の住む冷然院ですら盗賊が忍び込むのである。最大の警備が成されているはずの建物でこの有り様なのだから、他の建物がどうなのかなど容易に推測できる。

 八名の貴族が武官となったのも、安倍安仁を含む四〇名の貴族が地方官となったのも、全ては力ずくで犯罪を取り締まるためだった。

 そして、これらの全てを統べるのが、右近衛大将である藤原良相であった。


 良相の指揮はさすがだった。

 全ての命令は良相から発せられ、全ての情報は良相に届く。部隊の編成も派遣も一手に引き受け、良相の指揮する軍勢は日本国内の各地で犯罪者を捕らえていった。

 その中で、死刑となった者はいないことになっている。だが、戦闘で死んだ犯罪者は数知れなかった。また、犯罪者を動けなくさせた上でその処遇を被害者に任せることもした。

 治安回復をさせつつあることで、良相の評判は目に見えて上がった。

 緒嗣政権下での良相は兄に操られる武人であり、良房政権下での良相は善男に操られる武人であった。何れにしても、誰か別な人間に操られる武人であって、自分で考えて動く武人ではなかった。

 ところが、今の良相は上に誰もいない。治安回復についてならば良房と意見の一致を見ていたし、この重要事についてはさすがに善男の反対もなかったが、あくまでも賛成であって指揮ではない。この治安回復の指揮は良相が握っているのである。

 これは良相にとって大きな自信となった。自分の権力者としての自信である。だが、その成功は武人としての成功であって、政治家としての成功ではないことに気づいていなかった。


 一方、文徳天皇はその頃、現在しかできないと考えた事業に乗り出した。 

 斉衡二(八五五)年二月一七日、藤原良房、伴善男、春澄善繩、安野豊道の四名を呼び出した。

 そこで出た命令に良房は驚愕した。

 仁明天皇の即位から死去までをまとめた勅撰の歴史書を作れというのである。

 この時点で完成していた勅撰史書は三冊ある。天智朝の終了までを記した「日本書紀」、天武朝の終了までを記した「続日本紀」、桓武天皇から淳和天皇までの歴史を記した「日本後紀」の三冊である。現存する歴史書としては他に「古事記」もあるが、こちらは勅撰、すなわち、国の命令により作成する国の公式な歴史書ではない。また、現存しないが、この時代は他に、帝記、旧辞、天皇紀、国紀といった歴史書があったことが判明しているが、これらもやはり勅撰ではない。

 国が主導する勅撰の歴史書を作る理由は二つある。

 一つは国として歴史に対する公式見解を表明すること。

 もう一つは、時代が変わったことを表明すること。

 これまでの勅撰の歴史書は三冊とも、一つの時代が終わったことをアピールするときに編纂され、公開された。

 日本書紀は、天智天皇の権力が終わり、天武天皇のもとへ権力が移ったことをアピールする目的もあった。

 続日本紀は、その天武天皇の系統が途絶え、再び天智天皇の系統に権力が戻ったことをアピールする目的もあった。

 では、日本後紀はどうか。

 日本後紀の編纂を命じたのは嵯峨天皇である。嵯峨天皇が藤原冬嗣らに命じて編纂させたが、その完成は嵯峨天皇が退位し、淳和天皇も退位し、仁明天皇となってから。結果として、嵯峨天皇の治世の終わりどころか、淳和天皇の治世の終わりまで歴史として記すこととなったが、スタートはあくまでも嵯峨天皇だった。

 嵯峨天皇は争いによって権力を掴んだ天皇である。それは、自分の権力が成立したことによって一つ前の権力が終わったことを意味する。奈良の反乱が鎮圧され、藤原仲成が死刑となり、藤原薬子が自殺し、平城上皇が出家し、平城京という都市が終わりを迎えたことは、嵯峨天皇にとって、天智朝の終わり、天武朝の終わりに匹敵する大事件だった。だから歴史書の編纂を命じ、自らの治世が新たな歴史の始まりであると宣言した。編纂に時間が掛かったため、嵯峨天皇の治世のみならず淳和天皇の治世までを記すこととなったが、これも、続日本紀を編纂させた桓武天皇という前例があったことを考えればおかしな話ではない。

 さて、文徳天皇が命じた歴史書の編集であるが、文徳天皇は何を以て時代の始まりと考えたのか。首都が変わったわけでもなく、時代の転換期となる大事件もない。だが、一つだけ大きな転換があった。

 律令派の権力奪取。

 それまで良房が握っていた反律令の権力が終わり、律令に基づく政治が復活したことは、文徳天皇にとって歴史の転換期となった大事件と言えた。

 しかし、何故このタイミングなのか。

 この答えは一つしかない。

 善男である。

 天然痘大流行の頃から善男が姿を見せなくなっていた。無論、善男がこの世から消えたわけではない。政治家として目立つ業績を残さなくなったのである。

 これまで善男は律令派の重要人物として存在感を見せてきたが、篁が亡くなり、天然痘の流行で文徳天皇が離れたことで、律令派の規模が弱まったところに加え、治安悪化対策に良相が実績を見せるようになった結果、律令派の内部における善男の地位も低下した。となると、ここで行動を示さないと善男はこのまま埋没してしまう。

 そこで文徳天皇に入れ知恵をした。

 新しい歴史書を作るということは、新時代の始祖になるということである。これは文徳天皇の自尊心に響いた。

 その上、四名の貴族が史書編集に召集されたが、この人選は善男の手による。

 四名のうち良房だけが明らかに系統が異なる。史書の編集に人臣の最高地位者が呼ばれることは何らおかしくはないが、良房以外の三人は何れも律令派の知識人として名を馳せていた以上、これが善男からの良房派に対する宣言なのだろう。

 歴史の編集は国家事業であるため、命じた者も、関わった者も、ともに歴史に名を残すし、その編纂の過程も歴史に残る。

 いかに良房に権力があろうと歴史編纂においてはその権力を発揮できない。それどころか、権力を発揮したことが歴史に残される。その悪評を受け入れることができないなら、あくまでも一知識人として編纂に関わらなければならない。

 ところが、良房は今やただ一人の大臣である。多忙を極める日々であり、歴史書の編集にそこまで深入りすることができない。多忙なのは善男だって同じだが、善男には春澄善繩と安野豊道という、自分の手足となってくれる手下がいる。

 つまり、善男の望んだ歴史書が記される。それも、敵対する良房が編者に名を連ねた上で。

 淳和天皇の退位までが既に公開されているため、仁明天皇一代のみを扱う歴史書、『続日本後紀』の編纂が始まった。


 善男が歴史書の編集を打ち出したとき、良房は反対することだってできたのである。

 だが、それをしなかった。したくてもできなかったのだ。

 治安悪化と天然痘の流行がもたらした混乱に追われていたのがこのときの良房である。軍を指揮し、目に見える形で犯罪者を取り締まって治安を回復させていた良相が目立っていた裏で、良房は目立たぬ対応をしていた。

 その一つが、平安京に流入し続ける流民対策である。古今東西、田舎で生活できなくなった貧困者が都市に流れ込んでくるのは変わらない。都市の貧困対策を行なって都市の貧しい人を救済することでその人が貧困から脱出できたとしても、都市の貧困問題は終わらないことも変わらない。まるで空席を埋めるかのように次々に新しい貧困者が流れ込むのである。

 これを解決する方法は一つしかない。都市に流れ込ませないことである。都市に流れ込まなくても生活できるなら流れ込まないが、これには時間がかかる。かと言って、都市の貧困対策を行なわなければ治安悪化につながる。

 良房はまず、現行法で平安京に流れ込む者を減らすことができないかと考えた。その結果、斉衡二(八五五)年三月一三日、五畿内に住むことができるのは、五畿で生まれた者か、五畿に住む者と結婚した者に限るとの布告が成された。厳密には再布告である。これが、これまで法により定められていながら守る者が少なく死文化した法を掘り起こした結果だった。

 本来なら律令を無視してでも対策をしたかった。だが、距離を置いたとは言え文徳天皇はまだまだ律令派の人間であるし、勢力が弱まったとは言え律令派は無視できる存在ではない。律令派を納得させるためには律令に従った上で政策を展開するしかなかった。

 ただ、これは布告としては弱かった。


 そもそも、人が平安京に流れ込むのは、地方で生活できなくなったからである。いくら平安京に流れ込むなと命令しても、犯罪に手を染めることなく生きていくにはそれしか方法がないのだから、生きる方法を整えることなく人の流れを止めることなどできなかった。

 その上、この年は天災が再び多発するのである。これでは、生活苦から都市に人が流れるのを抑えるなどできない。

 斉衡二(八五五)年三月一七日、暴風雨が京都を襲ったのがこの年の災害のスタートとなる。

 四月には、春とは思えぬ寒い気候が毎日のように続き、農作物に霜が降りた。また、雨天も続き、脳作物の発育に影響が出ることもこの段階で明白となった。そして、一五日にはゲリラ雷雨が京都を襲う。

 天気の次にやってきたのは地震だった。

 五月一〇日、一一日と連続で地震が起こる。このときの揺れの大きさを伝える記録は一つしかないが、そのたった一つの記録が地震の規模を教えてくれる。

 地震から一二日を経た五月二三日、東大寺から、大仏の頭部が落下したとの連絡が届いた。

 首都でなくなってから七〇年、奈良の反乱からも四五年を経ている。かつての国家最大の都市であった頃の面影はなく、今はただ廃墟の連なるゴーストタウンと化した奈良であったが、東大寺だけは別だった。日本全国に散らばる国分寺は東大寺の元に連なるし、学問にしても東大寺のそれは京都の大学に匹敵する。そして何より、国家最大の建造物である大仏が東大寺にはある。

 国分寺をまとめる寺院が京都にできようと、京都の大学の学問水準が他を圧倒することになろうと、大仏だけは奈良の人々の誇りであり、心の支えであり続けた。

 その大仏が崩れた。

 単に銅像が一つ壊れただけではない。奈良に住む者の最後の誇りが壊れたのだ。


 大仏崩壊。

 東大寺が懸命になってこの情報を隠そうとしたのは、単に観光資源を失いたくないという感情からではない。

 大仏は奈良に住む者の支えであると同時に、この国全体の支えでもあった。どんなに苦しい日々が続いても、どんなに世の中が乱れようと、東大寺の大仏だけは永遠に輝き続けるというのがこの時代の人々の感覚だった。

 その、永遠のシンボルでもあった大仏が、頭部だけとは言え崩れ落ちた。この知らせが日本全国に響きわたったとき、人々の脳裏によぎったのは『天がこの世を見放した』『この世はもうじき滅びる』という感覚だった。

 その上、斉衡二(八五五)年六月一日には日食も起こった。

 永遠のはずの大仏が崩れ、太陽が欠け、地面が揺れる。

 これではどんなに平静を装うとしても装えるわけない。

 文徳天皇も良房も市民の動揺を鎮めるのに懸命になったが、一度堰を切った動揺は収まらない。天然痘にも耐えてきた人々もこれだけ災厄が続けば世が滅びると考えるようになる。結果、真面目に働くより、今を生きることだけを考えるようになった。

 良相が始めた治安の回復が無駄に終わったのだ。少しなりとも蓄えを持つ者は強盗に奪われた。蓄えを持たぬ者は盗人になった。欲望は、耐えるものでも、努力して満たすものでもなく、手っとり早く満たすものなった、牢に人が溢れ、数多くの罪人を追放に処しても、次から次へと犯罪者が生まれる。犯罪者にならなければ犯罪者に財産を奪われ、貞操を奪われ、命を奪われる社会になってしまった。

 その上、天然痘の流行はまだ続いている。それなのに、朝廷がしていることは祈りを捧げることだけ。これまでは神仏の加護を期待していた人も、大仏の現状を見れば、この世には神も仏もないと思うようになるし、朝廷は何の成果も出ないことに懸命になって、病人を救おうとしないと考えるようになる。


 斉衡二(八五五)年六月七日、参議の藤原氏宗を東大寺に派遣するも、朝廷の期待した報告、すなわち、大仏の損壊は大したことなく、すぐに修復できるという知らせは得られなかった。藤原氏宗からの報告は、東大寺の力だけではどうあがいても大仏を修復できそうにないという内容だった。

 大仏の惨状は噂に尾ひれの付いた結果ではなかった。

 この知らせを受けた朝廷では、修復とすべきか、放置とすべきかで論争となった。

 これが純粋に大仏の修復を巡る是非ならばまだ問題はなかったのだが、良房派と律令派の派閥争いの道具となってしまった。良房派が修復を主張し、律令派が放置を主張したのである。そして、このときの意見は律令派のほうが強い論調であった。

 大仏を再建すればこの国の動揺を抑えられるが、再建するとなると莫大な国家予算を投入することとなる。今の朝廷にそんな予算などなく、再建するには増税しなければならない。ところが、今の混乱極まる社会状況では増税による税収アップなど考えるだけ無駄であり、どんなに努力しても前年度の税収が得られれば御の字という有り様だった。

 さらに、対策しなければならないのは大仏だけではなかった。大仏を破壊したほどの大きさではなくても、地震が頻発し、その都度対策に追われる状況となっていた。

 文徳天皇は鎮静化を願い、元正天皇や聖武天皇の埋葬されている佐保山陵に使者を派遣した。

 これまでも歴代の皇族の陵墓に参詣して国家の安寧を祈らせることは多かった。だが、その対象は嵯峨天皇や桓武天皇といった天智天皇系の皇族か、神武天皇や神功皇后といったはるか昔の皇族に限られていた。平安京という都市自体が、奈良時代、すなわち、天武天皇系からの脱却をもくろんで造られた都市であり、桓武天皇からこれまで、天武天皇系の皇族は、歴史上の存在であることは認めても、公式の場ではタブーであった。タブーに挑んだただ一人の存在である平城天皇は身の破滅を招き、最愛の女性を失うという結果を招いている。

 それがここに来て、天武朝系の陵墓への参詣である。天武朝の功績である大仏の崩落という事態があったにせよ、天武朝からの脱却を前提としていたはずの平安京の朝廷が、その前提を捨てなけれなならないところまで追いつめられたのだ。


 その後も歴史書には凶兆の記録が相次ぐ。

 この頃のニュースは地震しかないのかと言いたくなるほど、記録は何月何日に地震が起こったのかという記録しか出てこない。

 また、斉衡二(八五五)年八月二五日には、長門国より、二つの頭を持った牛が生まれたとの報告が届く。数年前は天が祝福している証拠とされた白い亀の報告が届いたのに、今届くのは天の祝福など全く感じられない凶兆の報告である。

 ただでさえ天災の連発で意気消沈しているところで届いた凶兆は、傷口に塩を塗るに等しい。

 それでも、所詮は単なる自然現象と考える合理的な考えの持ち主もいたが、九月七日に起こった事件はそうした考えの者も震え上がらせるに充分だった。

 夕方、皇太子惟仁親王のもとに強盗が押し掛けたのである。これまでにも盗賊が、内裏や、文徳天皇の住む冷然院に忍び込んだことはある。だが、それらは闇夜に乗じての犯行であり、今回のようにまだ日の沈まぬ時間に押し掛けてきたものではない。それが今回は武器を持った上での、日もまだ沈まぬ時刻の、正面からの堂々たる乱入である。

 武装した兵士との戦闘が展開され、犯人は弓矢で射殺された。この時代、死刑はなくなったが、犯人確保の過程で犯罪者が殺されることはあった。だから、犯人が射殺されたことは珍しいことではない。しかし、いまだ幼い皇太子の面前で戦闘が繰り広げられ、目の前で殺されたのである。

 この知らせを耳にした者は誰もが驚いたが、誰もがおかしなこととは考えなかった。

 どこにも安全はない。

 どこにも救いはない。

 どこにも希望はない。

 あるのは、皇族ですら身の危険を感じなければならないという現実だと知っていたから。


 斉衡二(八五五)年九月二八日、文徳天皇はついに決断する。東大寺の大仏の修理を、である。

 それには莫大な国家予算が必要となるが、人々の命に関わる危険極まりない日常を打開することのほうが何よりも必要だとした。

 律令派の反発を抑えて大仏修理を決心させたのは、律令派の重鎮でもある良相が修理賛成に転じたからである。厳密に言えば、転じたと言うより、治安対策の最前線に立っている良相には修理すべきか否かの議論に参加する余裕がなく、大仏修理の可否の議論を聞きつけたときに、自身の現在の経験を踏まえて賛成を表明したと言うことである。良相が修理賛成と即答したのは、良相が他のどの貴族よりも治安問題の原因を理解できていたからである。

 全ては生活である。

 働いても働いても生活が楽にならない。平安京にやってくるのもそれまで住んでいた村では生活ができなくなったからであり、これはいくら平安京移住を禁止してもどうにもならない。仮にその禁止を受け入れて故郷に帰ったとしても、真面目に田畑を耕したところで収穫は少なく、その少ない収穫も強盗団のターゲットになるのでは、田畑を耕す気になどなれない。

 良相が向かい合ったのはその現実に絶望している人々だった。だから、希望が必要だった。大仏を修復することは、ただ単に銅像を直すことを意味するわけではない。永遠のシンボルである大仏を蘇らせることは再び永遠と安寧を手に入れることを意味する。これは充分に希望となることだった。

 この良相の意見に善男は真っ先に反対した。これまで延べてきた予算不足、そして、大仏修理以外にも費やさねばならない政務があるというのが最大の論拠であり、反対するに充分な中身でもある。だが、それは本音ではない。

 最大の理由は良相が自分を差し置いて政策を提言したことにある。善男にとっての良相は、現時点での役職や位が自分より上であることは認めるが、あくまでも自分が利用すべき存在、すなわち、善男の意志によって動く道具であって、良相自身が自立的に行動する存在であってはならなかった。

 その良相がこのところ自立的に行動していることが我慢ならなかった。歴史書の作成を持ち出して善男もポイントを稼いだが、治安対策に注力を注いでいる良相との差は開く一方である。

 この結果、律令派は足並みの乱れを起こした。

 一方、良房は弟の提案に積極的に賛成した。善男の掲げた財源不足についても藤原の私財を持ち出すことを提案することで、反対意見を封じることに成功した。

 良房が賛成したのは何と言っても大仏再建のもたらすメリットの大きさである。

 それは何も良相の掲げた人心の安定とか希望の創造とかの理由だけではない。大規模工事のもたらす雇用、これが大きかった。

 平安京に流れ込む人は暮らしの宛があって平安京にやってくるわけではない。生活ができなくなったから都市に出てくるのであるが、都市に出てきたあとどうやって生活するかまでは考えていない。

 こうした人々に職を与えてきたのがこれまでの良房である。あるときは大農園を築いて農民に戻し、あるときは工事をして賃金を払った。ただ、インフレと治安悪化がその全てを台無しにしてしまっているのである。工事をして給金を払っても、インフレがその給金の価値を下げた。大農園は強盗団の略奪のターゲットになり、終わり無き自衛の戦いを続けるか、農園を放棄するかしなければならなくなった。

 だが、大仏の再建となると話は変わる。

 まず、平安京に流れ込んだ人々を平安京の外に出せる。しかも、その行き先は衰退著しい平城京跡。これは奈良の衰退を食い止める効果も期待できた。

 次に、ある程度の長期間の雇用となる。頭部の破損だけとは言え、一年や二年で済むような工事ではない。

 そして、大仏という仏教関係の国家行事となるため、その賃金も銅銭ではなく穀物の現物支給が許される。穀物の支給であればインフレを気にしなくてもいい。

 大仏修復はたしかに国家財政の負担は大きいが、それを上回るメリットがあった。その上、大仏修復のためという臨時税を課すこともできた。実際、九月二八日の布告では、銭一枚、コメ一合でも構わないから、誰もが大仏修復のために協力するようにとの願いが出ている。あくまでも要望であって命令ではないが、これは事実の納税であった。なお、これに対する反対は特に出ていないどころか、積極的な寄付まで出ている。やはり、今のこの惨状をどうにかしてほしいという願いを持つ者が多かったのだろう。

 ただ、納税する側は純粋な救いを求めての寄付であっても、それを使う側は全てを大仏の修復に使うわけではなかった。不足している国家財政を埋める絶好の財源となったのである。


 大仏修復の動きは正解だった。

 平安京で明日の宛もなく絶望の日々を過ごす失業者に、臨時とはいえ職業を与えたことで平安京の失業問題が劇的に解決し、同時に京都の治安回復が進んだ。

 無論、犯罪の心配が皆無になったわけではない。都を離れて廃墟となった奈良に移り住むことを拒否する者もいたし、働いて得られる食料より犯罪で手に入れる欲望を優先させる者もいた。

 それでも犯罪者の絶対数が減ったことは治安回復の大きな成功であったし、失業者の絶対数が減ったことは社会の安定化に大きく寄与した。

 その影響もあって、斉衡二(八五五)年の残る三ヶ月はニュース自体が激減する。

 もちろん、豊作に恵まれて平穏無事な三ヶ月を過ごしたわけではない。一〇月一八日には山城国乙訓郡山埼津(現在の京都府大山崎町のあたり)大火が発生し三〇〇戸が消失。一〇月一九日には不作のために出羽国の農家のうち一万九千戸を免税とせざるを得なくなったほどである。

 地震は相変わらず続いているし、天然痘だって終息する見込みがまだ立っていない。それでも、この年の前半の混迷に比べればこれでも安寧であった。

 その安寧の状態で翌斉衡三(八五六)年を迎える。

 一月一日の朝賀が中止になったが、その理由は大雨。これで三年連続の中止だが、過去一〇年間で七回中止になっていることを考えると、むしろ朝賀のあるほうが珍しいぐらいで、大雨により中止になったのは例年通りと言える。ただ、相次ぐ中止に対するお詫びとしてか、一月三日、皇太子惟仁親王を朝見させるという名目で貴族を集めている。

 一月七日の昇格も目立ったものはない。二名の皇族と一三名の貴族が昇格し、一八名が貴族入りしているが、何れもが順当な出世であり特に目立った抜擢はなく、その人数も天然痘による死去が相次いでいることの穴埋めを考えれば当然至極と言ったところか。

 新たな役職の付与に関しても目立つものはない。一月一二日には三三名、二月八日には一八名の貴族に新たな役職が付与されているが、天然痘による死去の空席を埋めているのと、良相の進めている治安安定化のための地方官赴任がほとんどで、その他に目立つ要素はない。

 前年から続く地震や一昨年から続く天然痘は年が変わってもなお続いている。

 その対策としての神仏頼みも相変わらずである。文徳天皇の住む冷然院に一〇三名の僧侶を招いての読経を行なったのは例年にはないイベントであったが、行動パターンとしてはいつもと同じ。

 しかし、三月に起こった事件はいつもの年と違った。

 三月九日、三〇人の新羅人が太宰府管内に漂着した。新羅人の不法入国は毎年のようにあったが、太宰府管内に流れ込むのは珍しいことだった。

 彼らからの訴えは、新羅も天然痘の流行が激しく、新羅国内にはもはやどこにも逃げようがないというものであった。治安も、収穫も、日本の比ではない劣悪さであり、貿易商人から日本の惨状として聞き及ぶ内容も新羅からすれば天国と思われる内容だった。

 彼らが太宰府に赴いたのは偶然である。本来であれば太宰府の目をかいくぐっての強行上陸を目論んでいたのだが、発見されてしまったために太宰府に赴いて亡命を申請することとなった。

 太宰府に流れ着いた三〇名に対する朝廷からの回答は、入国を許さず食料を与えての国外追放と決まった。


 大仏修復による失業の救済は軌道に乗ってきたが、天然痘の被害と地震の連発は今なお続いている。これについては良房も良くやっていたとするしかない。

 しかし、良くやっていることと、良房個人がそれに見合った結果が得られることととは別である。

 日本国内の混乱が沈静化しつつあるのと反比例するかのような不幸が立て続けに良房に襲いかかった。

 妻の潔姫が倒れたのである。

 この年で四六歳となる潔姫は良房の妻となってからこれまで夫を支え続けてきた。良房には律令派からの執拗な攻撃もあったし、民衆からの批判が良房の元にダイレクトに届くことも珍しくなかった。弟の良相との関係も悪化していたし、この国の現実は良房を苦しめた。だが、潔姫は何があっても良房の味方であり続けた。

 潔姫は男児には恵まれなかったが娘の明子をもうけ、明子は文徳天皇の妻となり皇太子を生んだ。天皇の義父で皇太子の祖父という血縁は、良房に権威を生み出す源泉にもなった。

 公私ともに良房に協力し続けた最愛の妻に対し、良房は何もできなかった。潔姫が天然痘であったかどうかはわからない。突然倒れたと記録に残るだけである。良房は起きあがれなくなった妻にもできる限りのことをした。医者も呼んだし祈祷もさせた。病に効く薬があると聞きつけたらどんなに高価でもその薬を手に入れた。

 それでも、妻の元に付き添うことは許されなかった。相変わらず冷然院に籠もって内裏に足を運ばない文徳天皇に代わり、ただ一人の大臣として内裏を統べる義務があった。

 五月には京都市中を水害が襲い、六月にはまた地震が起こった。

 文徳天皇は合計二六五人の僧侶を、東寺、西寺、延暦寺、崇福寺、梵釋寺、天王寺、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、藥師寺、西大寺、法隆寺、新藥師寺の一四の寺院に分置し、七日間の祈祷を命じた。この一四の寺院には五位の貴族が一名ずつ派遣され、読経の監視にあたった。これまでは、祈祷を命じられた寺院がそれに伴う費用を請求しておきながら祈祷をせずに済ませたということがあったが、今回はそれが許されなかった。

 この五位の貴族の派遣は誰が命じたのかはわからないが、良房が命じたのだとしたら、ひょっとしたらこれが良房の見せた妻への愛情表現だったのかも知れない。

 しかし、その愛情表現に応えることはなかった。潔姫の体調が戻ることが無いばかりかよりいっそう悪化したのである。

 その上、倒れたのは潔姫だけではなかった。

 超廷内における良房最大の味方である長良も倒れたのだ。天然痘ウィルスが長良の身体を蝕みだし、源常と同じように苦しみ廻るようになった。

 六月二三日、文徳天皇は天然痘に苦しむ長良に従二位の位を与えた。権中納言でしかない者へ与える位としては異例の高位である。


 長良が二位になり、一度は抜かれた良相を位で抜き返したとしても、それは長良の命が長くはないことを意味するものであった。このように病に倒れ生死の境をさまようようになった者に位を与えることは珍しいことではない。

 長良は覚悟していた。影に徹すると決意し、我が子を養子にまで差し出した良房と一度も顔を合わさない日はこれまで一度もなかったと言っても良い。その長良が良房との接触を絶っただけでなく、天然痘の完治経験のある従者だけを引き連れて屋敷を出ていったのである。それが天然痘をこれ以上広めないための手段であった。

 良房は兄と妻との別れを決意し、来るべきときを覚悟した。

 先にそのときが来たのは妻だった。

 斉衡三(八五六)年六月二五日、源潔姫死去。遺体は賀楽岡白川地に埋葬された。

 良房ほどの貴族であれば、複数人の女性を妻としていてもおかしくないし、妻でなくても愛人をもうけていてもおかしくない。そして、数多くの女性との間から自身の後継者となる男児をもうけていてもおかしくない。

 だが、良房にはそれがない。どんなに資料を読み返しても、さらには伝説のたぐいに手を伸ばしても、良房と接する女性が潔姫一人しか見つからないのである。

 嵯峨天皇の娘という生まれは死ぬまでつきまとった。男児を産まなかったという悪評から逃れることもできなかった。それでも、潔姫は夫を支え続け、良房は妻を愛し続けた。スタートが政略結婚であったのは事実だが、それが必ずしも不幸を招くとは限らない。一人の女性として見たとき、愛し続ける人が側にいて自分を愛し続けてくれていたのだ。潔姫の運命は間違いなく幸せであったと言えるだろう。


 妻を失ってから一〇日も経たない斉衡三(八五六)年七月三日、さらなる悲劇が良房を襲う。

 従二位藤原長良死去。

 天然痘に罹るからと自らの死に弟たちを立ち会わせなかった兄は、弟たちに遺言の手紙を記した後、源常と同じ苦しみの過程を経て命の火を消した。

 生涯を弟の影となることを選んだ男は、その遺言もまた弟の影であることを徹する遺言であった。

 良房の実子は文徳天皇に嫁いだ明子ただ一人であり、男児の後継者として基経を養子にしたものの、その他の子どもはいない。

 また、長良の子たちの中には成人を迎えた者もいるがまだ幼い子もいる。

 長良の遺言、それは、自分の幼子を良房に託すことであった。一見すると我が子を心配する父の思いやりに見える。しかし、政略結婚が当たり前のこの時代、子どもを多く抱えることは政略結婚の駒が増えることを意味する。そして、その駒は男より女のほうがありがたかった。嫁として天皇家に差し出す駒が多いほうが皇室につながるのだから。

 このとき良房のもとに預けられることとなったのは基経の実の妹である高子たかいこであった。長良には他にも子がいたが、未だ成人を迎えていないのはこの高子だけであった。また、これも基経と同様であるが、他の子と比べて高子は母の生まれが良かった。

 この高子を皇族の誰に嫁がせるかで、自身と藤原家の運命が決まるというのが良房の考えであるが、高子にとっては悲劇の始まりでもあった。


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