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実によって木を知る

作者: 野狐



  

 人間をここまで発展させた歴史あるもの、人間の誇れるものは何か?それを一つだけ挙げろと言われれば何と答えればよいだろうか?私だったならそれは『好奇心である』と答えたい。

 戦争や恋愛が人々の発展と歴史を築き上げてきた、などという人もいるが、それが誇れるものかどうかは別として、それらも結局は好奇心の賜物だ、と私は思う。


 私は来月の十日で三十七歳を迎えるのだが、それはもう幸福な人生だった。仕事はずっと税理士をしている。五年前に独立した個人事務所はその年から運良く軌道に乗り、仕事は大変だがやり甲斐はある。お金にも困らないし、今年の誕生日には欲しかった自動車、ランボルギーニ・ガヤルドを買うと決めている。少々高い買い物だが、妻はオーケーと言ってくれるだろうか?いや大丈夫。事務所の五周年と私の誕生日、この記念日に買うというのだから。

 私は家族にも恵まれた。子供さえ出来なかったが、十歳年下の妻は器量良しで、家事の全てをこなしてくれるし、料理は抜群だ。彼女の鯖の味噌煮を食べれば、どの男も彼女を欲しがるだろう。彼女は私の為にいつも綺麗でいてくれる。化粧も服装も体型も。そんな美しい妻を私は愛している。両親は共に教育熱心で幼いころから兄ではなく私に英才教育を吹き込んだ。一生懸命な親だった。文字通りに、その人生を私の大学卒業までに捧げてくれた。まるで狂信者か何かのようにさえ見えることもあったほどだ・・・しかしながらそのおかげで今の私がここにあるのだと思えば、私は両親に頭を下げざるをえないのではないだろうか。去年の暮れに父親が心筋梗塞で亡くなったが、父から教えられたことと言えば、レフ・トルストイのこんな言葉だ。

「人間が幸福であるために避けることのできない条件は勤労である」

 なるほど、おかげ様で毎日仕事に終われる日々を私は過ごしているわけだ。そして幸福な人生を。もう一度感謝をしなければいけないな。


 さて、好奇心の話に戻るとしよう。人は歴史に興味を持ち、性に興味を持ち、体の構造に、海に、経営に、建造物に、書物に、絵画に、動植物、魂、睡眠、山、宇宙、果てはより良くくっつく接着剤だとか、どこでも話せる電話だとか、吸水性のある布だとか、それはもうありとあらゆるものに好奇心をもってそれらを見つめ、そして結果を見てきた。今こうしているこの瞬間にも、世界中の何十億という人間がその類稀なる好奇心を持って世界を見つめていることだろう。偉大な人間の好奇心は最早止められない。

 私にも最近になってある好奇心が浮上してきた。それは人間の「死」についてだ。人の誕生から死ぬまで、その両極をなしている二つのものの片極、「死」について私の好奇心は引き付けられて離れようとはしない。

 おっと、皆さん勘違いしないで欲しい。私は「死」に好奇心を抱いているとは言った。けれど別に誰かの死を見たいというわけではないし、殺してやりたいと思っているわけではないのであしからず。ただ単純に「死」って何だろう?と小学生みたいに感じただけだ。ドフトエフスキーは「地下室の手記」という作品の中で、登場人物の姿をして「たんに意識の過剰ばかりでなく、およそ一切の意識は病気なのである」と言っていたが、私が病気だと思うのならばそう思えばいい。ただ私は自殺志願者ではないし、人生に悲観したりしてもいない。社会の中から見れば私は「勝ち組」というやつなのだから。

 こんな風に考え始めたのは父の死がきっかけだった。父が死んだ後、厳格だった生前からは想像出来ないような柔らかい死に顔を見ると、私は、あぁ、父は死んで天国へ行ったのかな?と思った。そして次にこう思った。死んだら天国?本当にそうか?本当に死後の世界なんてものがあるのか?死んだら魂はどこへ行く?もう一度生まれ変わる?それに、それに・・・つまるところ私が好奇心を抱いたのは「死後」ということになる。

 それからというもの、私は「死後」に関心を抱くようになった。専門家の色々な文献は読んだし、そういう怪しい集会に参加したこともある。だがしかし彼らは自分で体験したわけではないではないか。所詮は空想に過ぎないのだから、やはり実際に体験するしかないのだ。でもそれを実行に移せるのはたったの一回こっきりだ。しかも誰にも伝えられない・・・本当に、なんて上手に出来ているんだ。

 まぁいいだろう。それでだ、考えてみたんだが、そう、私が考えた死後はこうだ。まず生物が死ぬとその体から魂が抜ける。そしてその魂はこの世界と平行して存在するもう一つの世界、いわゆる「あの世」と呼ばれているところに運ばれて行く。そこは天国や極楽なんかじゃない。先に辿り着いた魂たちがひしめき合っていて、生前の罪や徳を清算される場所があるのだ。閻魔大王やオシリス神の話は意外と嘘ではないということだ。そして魂は次へと進み、次回生まれ変わるための身体選びが始まるわけだ。それがパンフレットのようになっていて、もちろん徳の高いものは選ぶ人選にも幅があるが、罪の高いものは小数しか選択肢がない。魂たちはそこで身体を選び、次に生まれ変わる順番が来るまでひっそりと待機する。そして自分の順番が回ってくれば晴れてこの世界へ戻ってくることが出来る・・・どうだろうか?単純なシステムだが、実に合理的で平等だとは思わないかな?もちろん裁かれる基準は徳と罪以外にも多々あるだろうが、それらを我々があれこれ議論することではない。あくまでそれは閻魔大王であり、またオシリス神の役目なのだから。このなんとも滑稽で甘美な激しい空想は人に話せば変だと罵られるかもしれないが、私は大抵これで満足している。

 容姿はどうなるかだって?好きな形を選べばいい。所詮その時我々は魂という実体のない塊に過ぎないのだから、美青年に姿を変えて究極の美女に話しかけたところで、その究極の美女はおよそ古い民衆劇に登場しそうな成りのしわがれた老婦なのだろう。


 少しだけ開いたカーテンの隙間から黄色い月明かりが射し込んでいて、絨毯に青白い線が一筋走っているのが見える。その先は暗闇が支配していて潜むものの姿は見えない。なんて静かな夜なのだろう。ついさっきまでは得体の知れないつむじ風が頭の中で渦を起こしていて、耳鳴りがし、吐き出しそうな気分だった。しかし今は心穏やかだ。どこか遠くで自動車が走り去る音がして、救急車が過ぎる音もした。なんという名前の鳥だろうか。可愛らしい声で鳴く鳥だったが、もう聞くこともなくなるだろう。

 つい先ほどまでのことが思い起こされる。私は全てに絶望して数時間泣き続けた。気がつくと日はとっくに落ちていて、床に転がった携帯電話は電源を切られたままで無残な遺体のようにも見えた。私は戸棚にあった妻の睡眠薬を全て飲み干すとベッドの上に転がった。もうこれで目覚めることはないだろう。私の口元には自然と笑みがこぼれ、手足の感覚が少しずつ失われていっても、しばらく頭だけは正常だった。もしかしたら生に執着している?そんなことはない。私は息を吐き出して息をするのもやめた。


 自らを欺くのはもうやめよう。虚しさが増すばかりだ。私が幸福だったか?見方によれば幸福だったに違いない。それは先に話した通りだ。しかしながら私のそれは決して幸福などではなかった。贅沢だとかわがままとは言ってくれるな、私は自分の人生に満足はしていない。偽って何と愚か者の人生だったか!両親にとって私は所詮自分たちの欲望を叶えるための奉仕ロボットに過ぎなかった。私の人権などは気にも留めない。ことあるごとに「これはお前のためなんだ」などと決まり文句を言ってくれたが、私がどれだけの時間を捨てたというのだ!私は兄のようになりたかった。兄のように外でサッカーをしたかったし、兄のように高校卒業と同時にイギリスへ旅立ちたかった。なぜ兄だけが自由を手に入れられたのだ?はっきり言おう。昔から兄の表情は太陽のようで、才能を発揮し、誰からも好かれるアポロンだった。一方の私は両親や回りの要望に応えはしたが、惨めで、情けなく、それは泥人形か、よく言ってもゾンビだったのだ。太陽の兄は私を影へと追いやった。そんな私を救ってくれたのが妻だった。若く美しく、望む全てを持つ最高の妻・・・それは私の太陽であり、太陽の妻は私を陽の光の下へと導いてくれた。しかし・・・しかし全ては数時間前の妻からの電話で崩れ落ちた。

「ねぇ、今夜は会える?旦那は今日は仕事で帰ってこないの。ねぇ、いいでしょ?はぁ、もう、夫はつまらないし、私があの人と結婚したのはお金が目当てなだけ。悪い女でしょ?でもそれはあなたのためなのよ。あの人ったら子供が欲しいからってセックスばっかり求めてくるけれど、私は絶対にごめんだわ。あんな親父の子供なんて・・・あなたの子だったらいいわよ?とにかく上手に離婚裁判起こして、慰謝料ふんだくってやるんだから・・・ちょっと、聞いてるの?どうして何も言わないのよ!もう、サトシ?サト・・・ッ」

 電話は切って、さらに電源を落として床に捨てた。妻は外で男を作っていたようだ。私と違い魅力的な男。妻が私とサトシとかいうやつとを間違って電話したらしいが、私が無言だったために気がつかなかったのだろう。その後で気がついたかどうかも知らない。ただ私の心には裏切られたという気持ちのみが渦巻いていた。

 私は誰からも愛されてはいなかったんだ。

 やっと人生の意味を見出したのに、その意味が虚構だと分かったとき、全ての感情が堰を切って溢れ出し、私の心を濁流が飲み込む。空は稲妻が轟音と共に走り、大地は暗く、騒々しく、子供たちは無言で、老人たちは粗野な笑みを浮かべ、大人たちは馬鹿者ばかり。希望などはなかった。そして私は死の決断を下した。

 遺産も何も妻になど一円もくれてやるものか!遺産の手続きも全て済ました。直筆の遺書も綴った。遺産は全て兄の一人娘にくれてやる。兄はあくまで私の太陽だったのだから。妻にはランボルギーニ・ガヤルドの請求書を残してやったよ。

 復讐は惨め?やり方が汚いだって?何だって言うがいいさ。

 私はもうすぐ死ぬ。

 死人に口なし。


 涙や悔恨の念は全て吐き出した。私にあるのは次の人生への期待だけだ。そこには美しい景色と、信仰と、愛と、未来への希望がある美徳に包まれた世界に違いない。身体から意識が流れ出て行くのを感じる。あぁもうすぐ死ぬのだ。

 

 どんな人生を選ぼうか・・・どんな・・・


 ・・・遠くに光が見える。あの世への入り口だろうか。私の頭にファンファーレが鳴り響いた。暗く長いトンネルの中を身を任せて進んで行く。温かく、優しい川の流れに陶酔しながら、私は幸福に包まれていた。

 しかし、次の瞬間私は恐ろしい声を耳にした。そして曇る視界に恐ろしい姿を目にする。まさか、そんな・・・そこにいたのは記憶に残るまだ若い母親の姿。そして父親の顔。私は息を飲んだ。

 なんと言うことだ・・・私は気づいてしまった。次の人生を選ぶなんてことはできないんだ。人は死んで、そしてまた同じ人生を繰り返す。それだけなんだ。喜びも悲しみも怒りも全て、何度も、何度も・・・私は恐ろしくなって自身の人生を思い起こした。身体が強張り、頭の頂点から足の小指の先にかけてまで鋭い痛みを伴った電撃が走り抜けた。

 私は絶望した。そして恐怖して大声を上げて泣いたのだ。

「誰か!助けてくれ!」

 値踏みするような調子の看護士の声が聞こえる。

「利発そうで、元気な男の子ですよ」

 両親、兄、医者、看護士・・・祝福を伴った温かく善良な笑いが私に注がれた。






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[一言] 主人公の日常と好奇心を織り混ぜて、徐々に確信に迫る感じに読みいってしまいました!! 自殺は重罪とされてます。主人公はまた繰り返しの人生を歩むことになるのでしょうね。 面白かったです!
[一言] 初めまして。 オチの意外さとダークさが、癖になりそうな面白さでした。 ドストエフスキーの作品や(浅学にして、読んでいませんが)オシリス神などを登場させることで、独特な作品世界を構築していらっ…
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