曖昧な回答 :約1500文字
「……ん…………うおっ」
夜、とあるアパートの一室。ふいに目を覚ました彼は、錆を落とすようにまばたきを繰り返した。現実と夢の境目はまだ曖昧で、視界は水の中にあるみたいに霞んでいる。干しっぱなしのシャツに棚。ぼやけた像がゆっくりと輪郭を取り戻していく――そして次の瞬間、思わず声を漏らした。
ベッドのすぐ脇に、見知らぬ男が立っていたのだ。
部屋を照らしているのは、カーテンの隙間から差し込む外灯の白い光だけ。男の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。中年で頭髪は薄く、腹はわずかにせり出している。
男は横向きに立ち、左半身をこちらに向けているため表情はよく見えない――いや、そもそも無表情のようだ。
彼はびくりと肩を跳ねさせ、反射的にタオルケットを掴んでベッドの端へ身を寄せた。
「ゆ、幽霊……?」
彼はかすれた声でぽつりと呟いた。すると男はゆっくりと、ほんのわずかに顔を彼のほうへ向けた。その瞬間、彼は心の底から後悔した。
――しまった。寝たふりをしていればよかった……!
目を閉じ、そのまま寝ていればやり過ごせたかもしれない。だが、もう遅い。問いかけてしまった以上、今さら狸寝入りなどできない。彼は息を呑み、男から目を逸らせずにいた。
男は無表情のまま、ゆっくりと顎を引いた。
――いや……どっちだ?
それは『はい』とも『いいえ』とも取れる、曖昧な反応だった。この状況、もし本当に幽霊ならむしろまだマシかもしれない。
彼はそう思い、そっと体を起こして男の足元に視線を落とした。
足……あるな。脛も、足首も、指先までちゃんとある。もっとも、幽霊に足がないとは限らないが……。
「ご、強盗……?」
彼はまたおそるおそる尋ねた。すると、男は首を斜めに傾けた。またしても微妙な反応だ。『部分的にそう』あるいは『たぶん違う』というような曖昧さだった。
彼はちらりと窓に視線を向けた。秋の夜で風は涼しく、窓を開けたまま寝ていた。そのうえ、ここは一階だ。侵入は難しくない。網戸は閉まったままだが、入ったあとで戻したのかもしれない。
「あ、泥棒……?」
その問いに、男は少し間を置き、今度は小さく首を横に振った。あくまでそう見えただけだが、少なくとも先ほどよりは明確な否定に思えた。
「じゃあ、酔っ払い……?」
彼は次にそう尋ねた。徐々に寝ぼけていた頭が覚めてきた。よく見ると、男はシミの浮いた白いタンクトップに黒いハーフパンツという、生活感丸出しの格好をしている。泥棒の装いには見えない。
――いや、擬態してる可能性もある……か?
男は再び首を傾げた。少し酒を飲んでいるという意味なのかもしれない。
「じゃあ、夢遊病……?」
男はまた小さく首を横に振った。
「認知症……?」
これにも小さく首を横に振った。
「知り合い……じゃないですよね?」
男は首を傾げたあと、考えるように間を置き、やはり小さく首を横に振った。
もしかすると、向こうはこちらを知っているのかもしれない。
「あの……幽霊ではないんですよね?」
彼はさらに体を起こし、ベッドの上で膝を立てた。いつでも飛びかかれるように重心を前へ移す。ここまでのやり取りのおかげで、さっきまでの凍りつくような恐怖はだいぶ薄れていた。
――そうとも。幽霊なんているわけがない。ただの不審者だ。人間ならどうにかなる……。
彼はぐっと足に力を込めた。
男は首を傾げたあと、今度はゆっくりと体ごと彼のほうへ向き直った。
――あっ。
男の右手が一瞬だけ光った。
そこに握られていたのは、包丁だった。そして――男はゆっくりと口を開いた。
「君だろう……? 妻と不倫したのは……妻に聞いた……殺す前に……」
一歩、男がベッドに近づいた。
喉がひゅっと細く鳴り、彼は言葉を詰まらせるように答えた。
「え、えっと、どう、かな……た、たぶん違うような、部分的にそうというか……いや、その……あっ――」




