動く箱
碧の目は、ずっと箱の足元に向いていた。
三人の知略が火花を散らす中、碧の目は箱の影に釘付けになっていた。影の縁が、かすかに揺れている。光源は動いていない。なのに四つの箱の影の輪郭が、ごくわずかに、しかし確実に、滲むように震えていた。
(箱が……動いてる?)
その瞬間、碧の頭の中に、ひどく場違いな記憶が蘇った。
中学生のとき、深夜にひとりでぼんやり見ていたテレビ番組。廃品回収業者を密着取材するドキュメンタリーだった。業者の男性が廃工場から大きな電磁石の装置を引き取りながら、カメラに向かって笑っていた。
「これがあるとね、金属が勝手に動くんですよ。小さいものなんか、見てるだけで床の上をずりずり滑ってくる。おもしろいでしょ」
金属の破片が、見えない力に引き寄せられるように、床の上をゆっくりと移動していた映像。
(これと同じだ)
碧は確信した。
このゲームに、物理的な正解の箱など最初から存在しない。床の下か卓の内部に電磁石の仕掛けがあって、誰がどれを選んでも、マスターが望んだ瞬間に毒針のトラップを作動させられる。
九条の傷の分析も、ミカの接触音の推理も、麗香の観察力も、最初から無効化されている。知略の勝負ではなく、マスターが勝者を決める構造になっている。
(なら、その仕掛けを邪魔できるものを、箱の下に置けばいい)
あの番組でもう一つ、印象的な場面があった。業者の男が金属板を装置の近くに置いたとき、電磁石の動きがぎこちなくなり、「こういう板が邪魔してなかなか動かないんですよ」とぼやいていた。
碧は円卓を見渡した。
目についたのは、麗香のティーカップの下の、分厚い銀製のソーサーだった。
あれを箱の下に敷けば、磁力線の一部を逃がして、トラップの作動を鈍らせられるかもしれない。完全には防げない。でも、完全でなくていい。仕掛けの作動を鈍らせるだけでいい。
確信はなかった。子供の頃に見たテレビ番組の、うろ覚えの記憶だった。でも今、碧の手元には他に何もなかった。
碧は麗香を見た。
麗香は、ずっと碧を見ていた。碧がどこまで辿り着くか、ただ静かに、愉しそうに待っていた。答えを教えようともしないし、遮ろうともしない。碧が自分の力で辿り着くことだけを、待っていた。
「……ソーサーを貸してもらえますか」
碧が言うと、麗香は何も聞かなかった。理由も確認しなかった。ただ銀のソーサーを、するりと碧の方へと滑らせた。
「思った通りの子ですわね」
麗香の声には、隠しきれない喜悦が混じっていた。
碧はソーサーを受け取り、ミカへ向き直った。
「ミカさん、待って。その箱を開ける前に、この銀のソーサーの上に乗せて。床の下に電磁石みたいな仕掛けがあると思う。箱の影がわずかに揺れてる、磁力で微振動してるんだと思う。金属のソーサーを挟めば、仕掛けの作動を鈍らせられるかもしれないから」
ミカの手が、止まった。
碧を見た。麗香を見た。また碧を見た。
その目の中で、何かが激しく動いていた。碧の言葉の意味を理解しているのか、それとも疑っているのか、碧には判断がつかなかった。
「……ありがとね」
静かな声だった。
しかしミカの手は、ソーサーに伸びなかった。
「でも、あたしは自分の勘を信じる」
碧は言葉を重ねようとした。しかしミカはすでに決断していた。さっき九条の言葉を跳ね返して、震えを克服して、自分の力で辿り着いた答えだった。その答えへの信頼は、碧の一言で揺らぐほど薄いものではなかった。
(ミカさん)
碧はもう一度だけ、ミカの名前を呼ぼうとした。
しかしミカは三番目の箱の蓋を、力任せに跳ね上げた。
――カチリ。
箱の底で、小さく硬質な音が響いた。
次の瞬間、ミカの喉元に、銀の針が深々と突き刺さった。
碧は立ち上がりかけた。しかし体が動かなかった。ミカが言葉にならない音を漏らし、首を押さえてのけぞる光景を、碧はただ見ていた。悲鳴を上げることも、床に倒れることすら制御できないまま、ミカは糸が切れた人形のように、ゆっくりと円卓に突っ伏した。
その顔は、最後まで、負けを認めていなかった。
絶対的な静寂が、店内を満たした。
マスターが、白い布を持って音もなく歩み寄った。丁寧で、機械的で、感情のかけらもない所作だった。
「……橘ミカ様、脱落。残り三名」
碧は唇を噛み締めた。
声を出せなかった。涙も出なかった。ただ、ミカが最後に見せた目が、頭の中から消えなかった。あの目は碧を疑っていた。碧の言葉を、罠だと判断していた。そして、その判断のまま死んだ。
伝わらなかったのではなかった。届いていた。それでも信じなかった。
でも、碧には分かった。
ミカはあの瞬間、恐怖に勝っていた。震えを克服して、自分の力で辿り着いた答えを信じた。それは間違いではなかった。麗香に一段届かなかっただけで、ミカの推理は本物だった。その本物の推理が、最後の一歩で足りなかった。
(ミカさんは、本当に強かった)
その思いと、間に合わなかったという後悔が、碧の胸の中で混ざり合った。
「……碧さん」
麗香の声が、静かに降りてきた。
麗香は白い布をかけられたミカの方を、一切見ていなかった。碧だけを、まっすぐに見ていた。
「あの子はね、自分の力を信じて死にましたのよ」
責める声ではなかった。慰める声でもなかった。ただ事実を、過不足なく告げる声だった。今夜初めて、麗香の声に何か違う色が混じっているような気がした。軽蔑ではない。もしかしたら、それは敬意に近いものだったかもしれない。
「……分かってます」
「では、それを次に生かすことが、あなたにできる唯一のことですわ」
碧は顔を上げた。麗香の黒い瞳が、間近にあった。
この女は冷たい、と碧は思った。ミカが死んでも、表情一つ変えない。しかし同時に、この女は正しいとも思った。感傷に沈んでいる時間は、ここにはない。
でも麗香の目が、今夜初めて、同じ地平に立つ人間を見る目に変わっていた。捕食者が獲物を見る目でもなく、観察者が標本を眺める目でもない。もっと対等な、もっと危うい、何か別の色があった。




