第4ゲーム 王の贈り物
神経ガスの余韻が、まだ店内の空気に染みついているような気がした。
マスターが新たな道具を運び込んだ。
それは、四つの銀の小箱だった。
外見は完全に同一だった。鈍い銀色の光沢を放つ、手のひらサイズの金属箱。蓋の部分には装飾的な鍵穴が彫られている。彫刻の深さも、箱の大きさも、重さも、おそらく誤差のないほど揃えられている。どれを選べばいいのか、見た目では判断できない。判断できないように、最初から精密に作られている。それ自体が、すでにメッセージだった。
(このゲームは、見た目では解けない)
碧はそう直感した。
「第四ゲームを開始いたします。ルールは『王の贈り物』」
マスターは四つの箱を円卓の中央へ、等間隔に並べた。
「四つのうち一つには、即死性の神経毒が塗布された針が仕込まれたトラップが入っています」
マスターが白い手袋をはめた両手を、四つの箱の上で動かし始めた。
最初は、ゆっくりだった。
二つの箱が左右に入れ替わる。また入れ替わる。それが徐々に速くなり、気づけば四つの箱が円卓の上を滑るように移動していた。左右の移動。斜めの移動。時には両手で二つずつ。金属が天板を滑る音さえしないのが、かえって異様だった。まるで四つの箱が意志を持って動いているようで、碧はどこかを追う視線の焦点を完全に失った。
一秒。二秒。三秒。
追えない。動体視力の問題ではなかった。人間の認知の限界を、最初から計算した速さだった。
九条でさえ、眉間に深い皺を寄せて凝視していた。その眼鏡のレンズの奥で、眼球が細かく動いている。追えていない、ということが碧には見てとれた。
麗香だけが、相変わらず扇子を静かに揺らし、まるでオペラでも鑑賞するように眺めていた。その目が箱を追っているのか、それともまったく別の何かを見ているのか、碧には判断できなかった。
シャッフルが終わった。
四つの箱が最終位置で静止する。
碧は脳内で座標を再構築しようとしたが、無駄だとすぐに悟った。追えなかった以上、どの箱がどこにあったかを記憶から引き出すことはできない。
沈黙が、四人の間に落ちた。
最初に動いたのは九条だった。
眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、四つの箱を順に眺める。その視線は感情を持たない計算機のように、箱から箱へと移動した。
「シャッフルを追うことは不可能だ。だが、マスターは必ずどこかに痕跡を残している。完璧なシャッフルは存在しない。わずかな傷、指紋の付き方の違い、摩耗の非対称性……」
九条は立ち上がり、箱の表面に顔を近づけた。眼鏡を外し、裸眼で表面を観察する。
「……ある」
九条が短く言った。
「四番目の箱の底面、左側の角に、わずかな擦れがある。シャッフルの過程で、この箱だけが他の箱の底面と接触した痕跡だ。つまりこの箱は、他の箱と重ねて置かれたことがある。もしくは繰り返しのシャッフル練習で最も頻繁に動かされた箱だということ。頻繁に動かすのは、慣れた手順だからだ。つまりこの四番目こそが、マスターが最も意識した箱、すなわち毒が入った箱の可能性が高い」
九条は静かに、しかし確信を持って、一番目の箱へ手を伸ばした。
「消去法で、僕は一番目を選ぶ」
その声に、根拠に裏付けられた冷静な確信があった。碧は九条の推理の筋道を追いながら、ひとつ引っかかるものを感じていた。
(マスターが傷を残すだろうか。これだけ精密に作られたゲームで)
しかしその疑念を口にする前に、ミカが動いた。
ミカはずっと、押し黙っていた。
第三ゲームが終わってから、ミカはほとんど何も言っていなかった。自分のベルを鳴らして生き延びた後、両手で口を塞いで、泣きながら自分のベルを胸に引き寄せていた。あれから時間が経っても、その震えはまだ完全には止まっていないように見えた。
碧は第三ゲームの間ずっと、ミカの顔を時折確認していた。ミカは怖かったのだ。頭の良さや夜の街で培った勘とは別の場所で、ただ怖くて、震えていた。それは碧には、よく分かった。
だから今も、ミカが黙って俯いているのは、怖いからだと思っていた。
しかし。
九条がそれを、見逃さなかった。
「ミカ君」
九条の声は、静かだった。しかし、その静けさには刃があった。
「君は今、何も言わないな。三つ前のゲームまで、あれだけ声が大きかったのに」
ミカが顔を上げた。
「……何が言いたいの」
「怖いのか、と聞いている」
ミカの目に、何かが走った。怒りとも、羞恥とも取れる色だった。
「怖くない人間がいたら、そっちがおかしいでしょ」
「そうだな」九条は眼鏡を押し上げた。「だが怖いまま動けない人間は、ここでは死ぬ。さっきのゲームで、ベルを鳴らす君の手が震えていたのを、僕は見ていた」
「うるさい」
「夜の街で生きてきたと言ったな。それはつまり、追い詰められた経験があるということだ。だが追い詰められた経験は、人によって真逆の結果を生む。強くなる者と、固まる者と」
「やめて」
ミカの声が、低くなった。
「……昔から、そうだった」
その言葉は、九条に向けたものではなかったかもしれない。独り言のような、自分の内側を確認するような呟きだった。
「何かあると、体が動かなくなる。頭は分かってる。分かってるのに、足が竦む。昔から、ずっとそうだった。夜の仕事を始めたのも、それを克服したかったから。場数を踏めば変わると思ってた。でも……」
ミカは自分の手を見た。かすかに、震えていた。
「変わらなかった。結局、変わらなかった」
九条はそれ以上何も言わなかった。言う必要がなかった。言葉は届いた。傷のある場所に、正確に。
碧は九条を見た。あれは残酷だ、と思った。ミカの弱い場所を見つけて、そこを突いた。勝つために。自分が有利な状況を作るために。そしてそれは、おそらく計算だった。ミカを怖がらせて、判断を鈍らせようとしている。
(でも……)
碧はミカを見た。
ミカの目が、変わり始めていた。
俯いていた顔が、少しずつ上がってきた。震えていた手が、膝の上で静かに握り締められていった。何かが、ミカの内側で動いていた。怒りではなかった。もっと静かで、もっと深いものだった。
その時、碧と目が合った。
ミカは碧を見た。第三ゲームを、碧が生き延びた瞬間を、ミカは見ていた。ベルを振り下ろして、扇子で気流を作って、それでも死なずに椅子に崩れ落ちた碧を。あの時のミカの顔を、碧は見ていなかった。でも今、ミカの目の中に、あの瞬間の残像があるような気がした。
「……碧ちゃん」
ミカが、低く言った。
「あんた、怖かったでしょ。さっきのゲーム」
碧は頷いた。
「怖かった。すごく」
「でも動いた」
ミカはしばらく、碧を見ていた。
それから、前を向いた。
九条を見た。麗香を見た。マスターを見た。四つの銀の箱を見た。
「……そうね」
声が、変わっていた。震えが消えていた。夜の街で生きてきた、本来のミカの声だった。
「動かないと、死ぬ。それだけの話だった」
ミカは九条に視線を戻した。
「ありがとね、九条さん。おかげで頭が冷えた」
皮肉ではなかった。本当にそう思っているような声だった。九条がわずかに目を見開いた。
ミカは四つの箱を眺めた。シャッフルは追えなかった。でもミカの耳は、シャッフルが終わる最後の一瞬、マスターの右手の小指が二番目の箱の側面に触れた、衣擦れのような微かな音を拾っていた。
怖かった間は、その記憶が遠かった。でも今は、鮮明だった。
(あの音は何だ)
ミカは考え始めた。今度は、震えのない頭で。
マスターが意図して出した音なら、目的は二番目に注目させることだ。だとすれば二番目は安全牌として誘導されている。しかし、もしあの音がマスターの失態だとしたら。毒の箱に触れた瞬間の、無意識の緊張が生んだ接触だとしたら。
(裏の裏まで読むなら。さらにその裏まで読むなら)
ミカは九条の推理を振り返った。九条は四番目の傷から毒を特定し、一番目を選んだ。論理的で隙がない。だが隙がなさすぎる推理は、マスターの予測に乗っている可能性がある。あの傷が最初から仕込まれたものなら、一番目こそが罠だ。
(マスターが最も排除したいのは、九条のような論理的な人間か、それとも私のような場を読む人間か)
ミカは判断した。
マスターがあの接触音を意図して出したとすれば、目的は二番目から遠ざけることではなく、回避先として三番目を自然に選ばせることだ。つまり三番目が罠で、二番目が本物の安全牌だ。しかしもし、あの音が本当にマスターの無意識の緊張なら、二番目こそが毒だ。
どちらを信じるか。
ミカは自分の耳を信じた。
あの音は、小さすぎた。意図して出すには、精度が高すぎた。マスターが罠として使うなら、もう少し聞こえやすくするはずだ。夜の街で何年も過ごして、ミカが学んだことのひとつは、人間が隠そうとする時ほど、隠し方が上手すぎるということだった。
(二番目が毒。三番目が安全)
ミカは口を開いた。
「九条さんの推理は一段目。私の読みはその裏側。マスターが仕込んだのは、九条さんみたいな人間を罠にかけるための傷と、私みたいな人間を誤誘導するための音。でも音の方は、仕込みにしては上品すぎた。あれは本物の失態だったと、私は読む」
九条が眼鏡越しにミカを見た。
「根拠は感覚か」
「感覚よ。でもただの感覚じゃない。何年もかけて磨いた感覚。あんたの論理と、私の勘と、どっちが正しいか試してみましょうか」
九条は沈黙した。否定できなかった。ミカの推理には、論理を超えた実地の精度があった。
「二番目が毒。私は三番目を選ぶ」
ミカは三番目の箱へ、震えのない手で触れた。
その時、麗香が口を開いた。
「ふふ、お二人とも。小さな箱の上で、随分と可愛らしいステップを踏んでいらっしゃること」
麗香は扇子で口元を隠し、鈴を転がすような声で笑った。
しかしその目は笑っていなかった。
黒い瞳の奥に揺れているのは、純粋な、底知れない愉悦だった。喜びというより、見たかったものをようやく見た時の、静かな充足だった。この女は、誰かが死ぬかもしれない状況を、娯楽として享受している。そしてその享受に、一片の後ろめたさもない。碧はそれが何よりも恐ろしかったが、同時に、今この瞬間その恐ろしさに構っている余裕がなかった。
「九条様の傷の分析も、ミカさんの接触音の推理も、どちらも見事ですわ。見事すぎて、マスターの想定内ですわね」
麗香は優雅に立ち上がった。
その瞬間、碧は体感として、部屋の空気が変わるのを感じた。比喩ではなかった。麗香が立つと、重力の中心が移動するような感覚があった。三つのゲームを経てなお、この少女の存在感は損なわれるどころか、増していた。
「九条様が分析なさった四番目の傷。あれは古い傷ですわ。このゲームがここで何度も行われてきた歴史が刻んだもの。毒とは無関係ですわね」
九条の顔に、動揺が走った。
「ミカさんの接触音の推理は鋭い。でも一段足りませんわ。マスターはあなたが三段目まで読むと分かって、三番目を安全に見せる仕掛けをした。あの接触音は、あなたを二番目から遠ざけるためではなく、三番目へ誘い込むためのものですわ。つまり三番目こそが本物の罠」
ミカの手が、箱の上で静止した。
「……どういう意味よ」
「あなたの読みはね、正しかった。マスターの接触音は本物の失態ではなかった。でもそれは、あなたを二番目へ誘導するためではなく、あなたに『これは失態だ』と確信させることで、三番目を選ばせるための、もう一段深い仕掛けですわ。あなたは見事に、最後の一歩だけ足りなかった」
ミカは黙っていた。
その沈黙の重さが、碧には分かった。ミカはたった今、自分の勘を全力で信じた。震えを克服して、九条の言葉を跳ね返して、自分の力で辿り着いた答えを、麗香の一言で崩された。その痛みが、沈黙の中にあった。
「では、答えは」麗香は扇子の先を二番目の箱へと向けた。「この何の細工も感じられない、地味な箱ですわ。真実はいつも、最も目立たない場所にある」
麗香は二番目の箱を、しかし開けなかった。
ただ指先でその表面を一度なぞり、それからゆっくりと碧へ視線を向けた。
「碧さん」
麗香の声が、いつもより低かった。
「あなた、今、別のことを考えていらっしゃるでしょう? わたくしの解答になんか、まるで興味がないような顔をしていますわ」
碧は息を呑んだ。
見られていた。九条とミカと麗香の三つ巴の攻防が展開する中で、碧が箱ではなく影を見ていたことを、麗香はずっと見ていた。




