死にたくない
「生きるかどうかは、あなたが決めるのよ」
碧には、麗香が何を言っているのかわからなかった。
生きるかどうかは、あなたが決める。そんなこと、できるはずがない。四番目のベルには毒が入っている。それを振れば死ぬ。振らなければゲームが終わらない。選択肢など、最初から存在しなかった。麗香の言葉は綺麗に聞こえたが、意味をなさなかった。詩か、それとも哲学か。どちらにせよ、碧が今必要としているものではなかった。
ただ。
(死にたくない)
それだけが、碧の中にあった。
理屈ではなかった。根拠もなかった。ただ、死にたくなかった。映画の約束がある。名前も知らない好きな人に、話しかけたい。そのどれもが、ひどく些細なことだった。世界を変えるような夢でも、誰かを救うような使命でもなかった。でも、それが碧のすべてだった。その些細なことのために、死んでたまるか、と思った。
(死んでたまるか)
その言葉が、胸の奥から湧いてきた。
感情だった。論理ではなかった。でも、その感情が碧の目を開かせた。
ぼんやりと見上げた天井に、換気扇があった。ゆっくりと回っている。その羽根が生み出す気流が、蝋燭の炎をわずかになびかせていた。カウンターの方向へ。
碧はマスターの言葉を思い出した。
――室内全体の濃度を毒性水準まで引き上げるには不十分。
(……不十分、ってことは)
思考が、少しずつ動き始めた。怖かった。手が震えていた。それでも、死にたくないという一点が、碧の頭を無理やり回転させた。
ガスは出口のそばにしか、高い濃度では存在できない。出口から離れれば、空気に混ざって薄まる。換気があればさらに薄まる。マスターは言っていた、室内全体を汚染するには足りない量だと。つまりガスに濃淡がある。濃い場所と、薄い場所がある。
(スリットから顔を遠ざけたら。出た瞬間に換気の流れへ押し込んだら)
息を止めたまま、スリットを換気扇へ向けてベルを振る。同時に気流を作って、ガスが自分に届く前に換気口へ逃がす。
難しい。失敗すれば死ぬ。でも、何もしなければ確実に死ぬ。
碧は麗香の手元を見た。深紅の扇子が、静かに持ち手を回していた。
麗香の目が細くなった。何かを待っているような顔をしている。
(あれがあれば)
「……それ、借りてもいいですか」
碧が言うと、麗香は無言で扇子を差し出した。
「ええ。どうぞ」
まるで最初から、碧がそう言うのを知っていたかのような素振りだった。
碧は扇子を受け取り、広げた。深紅の絹の面が、指の間で開く。
準備をしながら、碧は自分の体の状態を確認した。手が震えている。指先が冷たい。心臓が速く打っている。これから行うことが、少しの手の狂いで本当に死に繋がることを、碧は完全に理解していた。理解した上で、やらなければならなかった。
失敗したら死ぬ。
その言葉が、頭の中で静かに反響した。感情の色を失った、ただの事実として。
スリットを換気扇の方向へ向ける。自分の顔はその反対側に置く。
碧は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺の中を完全に満たすように。それから、完全に息を止めた。
扇子を左手に持ち、四番目のベルを右手で握った。スリットは換気扇の方向へ向けている。
目を閉じた。二秒だけ閉じた。来月の映画のことを考えた。どんな映画か、まだ中身を知らない。知らないから、観に行かなければならない。
目を開いた。
ベルを、換気扇方向へスリットを向けたまま振り下ろした。同時に扇子を大きく、力の限り換気扇の方向へと煽いだ。
「チリン……!」
透明な音が響いた。
刹那、「プシュッ」という鋭い破裂音が続いた。高圧のガスが噴射される音だった。スリットはすでに換気扇を向いており、噴出したガスは碧の顔の逆方向へ吹き出す。扇子が生み出した急速な気流が、噴射されたガスをさらに換気気流へと押し込んだ。
碧は息を止めたまま、その場から一歩、二歩、後退した。三歩目で椅子の脚に踵がぶつかったが、構わず下がった。
三秒。五秒。七秒。
肺の中の空気が尽きてきた。胸が締まる感覚があった。体が酸素を求めて、息を吸おうとする本能的な衝動が来た。碧はそれを押さえた。もう少し。もう少しだけ。
十秒。
意識して、ゆっくりと息を吐き出す。そして新しい空気を吸った。
換気扇の音だけが聞こえた。
何も起きなかった。
呼吸ができた。横隔膜が動いた。肋間が広がった。普通の空気が、肺の中に入ってきた。
「……これにて第三ゲーム終了です」
マスターの声が、遠く聞こえた。
碧は、その場に崩れ込むように椅子へ倒れた。背もたれに全体重を預け、天井を見上げた。換気扇が、ゆっくりと回っている。さっきと同じ速度で、同じリズムで。世界は何も変わっていなかった。碧の心臓だけが、ひどく速く打っていた。
生きている。
その事実が、じわじわと体の端から染み込んでくるのに、しばらくかかった。
「……理屈は単純だ」九条がぼそりと言った。「濃度を下げて、吸入を避ける。それだけのことだ。僕にも導けた」
「でも、導かなかった」碧は天井を向いたまま答えた。「だから私が生きてます」
九条は何も言わなかった。
碧は麗香に扇子を返した。深紅の絹の面には、激しく煽いだせいで小さな歪みができていた。
「汚してしまいました。ごめんなさい」
麗香は扇子を受け取ると、その歪みを指先でゆっくりとなぞり、気にする様子もなく優雅に閉じた。
「碧さん」
麗香が、碧をまっすぐに見た。その目に、今夜初めて見る色があった。冷酷な観察でも、退屈した捕食者の目でもない。対等な存在を認めるときの目、とでも言うべきか。品定めが終わった後の、静かな承認。
「あなた、面白いわね」
麗香の声には、歪んだ愛情があった。それが歓迎すべきことなのかどうか、碧にはわからなかった。わからなかったが、今は深く考える余力がなかった。
「さあ、次のゲームを楽しみましょう」




