狂気は数値化できない
残り時間、3分。
天秤の皿には、九条の革靴、ミカのアクセサリー、碧の筆箱と問題集が積まれていた。針は「915グラム」を指している。
あと85グラム。針一本分もない、しかし絶対的な距離。
「そうだ!わ、私!英和辞典を持ってます!」碧はカバンから、辞典を取り出す。「これをちぎって調整するのはどうでしょう?」
「素晴らしい」九条は英和辞典を受け取ると、そのまま碧の腕の中に押しつけた。「だが、もっと良い使い方がある」
「え?」
「碧君。それを、天秤の皿の真上で構えていろ。落とすな」
そして九条は、麗香へと向き直った。
「西園寺さん。取引といこう。今、彼女が辞書から手を離せば、合計重量は大幅なオーバーだ。ルール上、その時点で供出量が最も少ない者が脱落する。現状、何も出していない君が、その脱落者だ」
ミカが立ち上がった。顔が青い。
「ちょっと待って! そんなことしたら、私たちだってタダじゃ済まないじゃない!?」
「構わん」
九条は振り返りもしなかった。
九条の中では、完璧な計算だった。追い詰められた人間は生き残ろうとする。合理的に考えれば、麗香に選択肢はない。高価な装飾品の一つでも差し出せば、この場は収まる。誰でもそうするはずだ。
麗香は、カップをゆっくりとソーサーへ戻した。
そして、膝の上で、静かに拍手した。
「パチ……パチ……パチ」
乾いた拍手が、静寂の中に落ちた。
「素晴らしいですわ、九条様。まさかわたくしを脅迫なさるなんて。……その勇気、本当に称賛に値しますわ」
彼女の顔には、焦りの欠片もなかった。むしろ、待ち望んでいた玩具をようやく手にした子供のような、純粋で残酷な喜びが、その黒い瞳に灯っていた。
これは追い詰められた人間の顔ではない。楽しんでいる。本当に、心の底から、この状況を楽しんでいる。
「でも、少しだけ計算が甘くていらっしゃらないかしら、九条様。……わたくしが、その程度の脅しで『退屈』を手放すとお思い?」
麗香は立ち上がり、するりと椅子から離れて碧の目の前まで歩み寄る。その歩き方は美しかった。恐怖も焦りも、一切体に出ていない。まるで庭園の散歩でもしているように。
麗香は、碧が両腕で抱える辞書の上に、そっと自分の手を重ねた。
その手の体温が辞書越しに伝わってきて、碧はぞっとした。暖かい。ちゃんと生きている人間の体温なのに、なぜか、ひどく冷たいものに触れたような気がした。
「マスター。お客様が真っ赤なワインをご所望のようですわ」
刃が、皮膚を引いた。
音もなく、一筋の赤が走る。麗香のもう一方の手には、いつの間にかティーカップが握られていた。自らの腕から流れる血を、彼女は静かに、丁寧に、そのカップへと注いでいった。
「……貴様、正気か!?」
冷静沈着を信条とする九条の口から、聞いたことのない動揺が溢れ出た。
「あら、失礼な」麗香は傷口も見ずに、少し呆れたように答えた。「至って正気ですわよ」
カップを、ゆっくりと持ち上げて見せた。深い赤が内壁をなぞるように小さく波打った。
麗香はそれを、優雅な仕草で天秤の皿へ傾けた。彼女がカップを傾けると、どろりと重い質感を伴った赤が、糸を引くように天秤の皿へと移された。 九条の革靴も、ミカのアクセサリーも、碧のノートも、抗いようのない濁流に飲み込まれるようにして、その紅い深淵へと沈んでいく。
カシャン。
金属が鳴り、天秤の腕が揺れた。左右に、左右に、振り子のように揺れ続けて――
ピタリ、と。
一〇〇〇グラムの位置で、止まった。
「……タイムアップでございます」
マスターの声が、静止した空気の中に降った。
誰も動かなかった。
ミカは椅子から崩れ落ち、テーブルの縁を両手で掴んでいた。碧は英和辞典を胸に抱いたまま、石になっていた。辞書の重さも、腕の震えも、今は感じない。すべての感覚が、目の前の光景に吸い込まれていた。
九条だけが立ったまま、血の入ったカップと天秤の針とを、交互に見つめていた。
信じられないものを見る目だった。この男がそんな目をするのを、碧は初めて見た。
「……馬鹿な」
九条の声は、ほとんど独り言だった。
「血液の比重まで逆算して、この短時間で、正確に85グラムを……?」
「あら」
麗香はハンカチを取り出し、傷口にあてがった。白い布に赤が滲んでいく。彼女はそれを一瞥し、さして気にした様子もなく顔を上げた。
「ただの勘ですわ」
「――勘、だと」
九条の声に、初めて感情の色が混じった。怒りでも驚きでもない。理解できないものに対する、純粋な困惑だった。
「ええ」麗香は九条を見上げた。「わたくし、自分の価値というものは誰よりも理解しておりますの。……ねえ、九条様。あなたの計算機は本当に優秀ですけれど、人の『狂気』だけは、どうやっても数値に変換できないようですわね?」
彼女は、血の気が引いて紙のように白くなった九条の顔を、うっとりとした目で眺めた。
その目には喜びがあった。純粋な、子供が好きなものを前にするときのような喜びが。
「ああ、そのお顔……。先ほどの退屈な能面より、ずっとずっと素敵ですわ。ふふ、ふふふふッ!」
笑い声が、狭い喫茶店に響き渡る。
碧はその時、静かに悟った。
この場所にいる「化物」は、マスターではない。冷徹な論理で人を駒として動かす九条でもない。
自らの血を流すことすら「遊び」に変えてしまうこの少女。自分の痛みを、自分の命を、まるで退屈しのぎの材料として消費できる、この美しく壊れた存在こそが――この夜、最も恐ろしいものだった。
九条は奥歯を噛んだ。
きつく、音が出るほどに。
彼の完璧な論理が、西園寺麗香という異物の前に、跡形もなく敗北した夜だった。
そして碧は思った。
自分はこの先、いったい何を頼りに生き残ればいいのだろうと。
計算でも、勘でも、狂気でもない、何かを。




