プロローグ エデンの喫茶店
カップが、唇に触れた。
コーヒーの熱が、皮膚に伝わってくる。深く、濃い、逃げ場のない香り。碧は息を止めた。
飲めば、生きるか死ぬか、どちらかだ。
テーブルの向かいでは、派手なメイクの女が泣きながらカップを持っていた。隣では眼鏡の男が唇を白くして目を閉じていた。脂汗だらけの男は震える両手でカップを包んでいた。
そして正面の少女だけが、まるで紅茶の時間を楽しむように、静かに碧を見ていた。
(信じていい。この人の言葉を)
根拠はなかった。論理もなかった。ただあの目だけがあった。
碧は飲んだ。
*
十七年間、水無瀬碧には選べる場所がなかった。
父はギャンブルに溺れ、消費者金融から金を借り、最後には姿を消した。残されたのは、未成年だった碧だけ。法律の無慈悲な文字は、彼女を「連帯保証人」として借金の全責任を負わせた。
三千万円。
選んだ覚えのない数字が、碧の人生に貼りついた。
だから昨夜、雨の降る裏路地で黒服の男たちに腕を掴まれたとき、碧は声を上げることもしなかった。抵抗する気力がなかったというより、何かが終わるのであれば、それでもいいと思っていた。
次に目を覚ましたとき、碧は古びた純喫茶にいた。
天井には埃をかぶったシャンデリア。壁には色あせた背表紙の本棚。分厚いベルベットのカーテンが窓を覆い、外の光も音も完全に遮断されている。
カチ、カチ、カチ、カチ――。
壁掛け時計の秒針の音だけが、耳障りなほど正確に、無機質なリズムを刻んでいる。
ふと足元に目を落とすと、見慣れた通学カバンが、まるで最初からそこにあったかのように床に置かれていた。使い込まれた革の質感も、キーホルダーの傷も、まぎれもなく自分のものだ。
視線を巡らせると、円卓を囲む人影が見えた。自分を含めて、五人。
まず碧の右隣に座るのは、派手なメイクを施した金髪ロングヘアの若い女だった。きつめのアイライン。胸元の開いた赤いドレス。夜の街で働いている女性、と碧は直感した。
「……なんなのよ、ここ……冗談じゃないわよ……」
女は唇を震わせ、爪を噛み、落ち着きなく周囲を見回している。その目には剥き出しの恐怖が浮かんでいた。
その隣の20代後半くらいの男は、対照的に冷静さを保とうとしていた。紺色のスーツに銀縁眼鏡。髪は整髪料で撫でつけられ、一見すると銀行員か弁護士のようなエリートだ。ただし、指先が神経質に眉間を揉み続けている。
「落ち着け。冷静に状況を把握するんだ」
低く抑制された声だったが、その奥に隠された焦りが透けて見える。
もう一人の40代くらいの男は、安物のシワだらけのスーツ。額から脂汗が止めどなく滲み出ている。
「クソ……クソッ……俺は何も悪いことしてねぇのに……!」
ハンカチで顔を拭きながら、膝をガクガクと震わせていた。
そして――
正面に座る少女が、碧の目を引いた。
「お目覚めですのね、小娘さん。……ようこそ、救済の場『エデンの喫茶店』へ」
声は、最高級のクリスタルグラスを銀の匙で叩いたときのように美しく、そして心臓を凍りつかせるほど冷たかった。
年齢は碧とほぼ同じ、十代後半に見える。しかしその佇まいは、年齢をはるかに超えた妖艶さをまとっていた。漆黒の長髪は美しく結い上げられ、深紅のドレスは夜会にでも出席するような豪奢なもの。白磁のような肌、薄く微笑む紅い唇。
他の四人が恐怖と混乱を隠しきれないなか、彼女――西園寺麗香だけが、まるで退屈な喜劇を鑑賞しているかのように、優雅に扇子を揺らしていた。
その目には恐怖も焦りもない。ただ冷たい好奇心だけが宿っていた。
麗香が扇子の先で指し示した先に、碧は気づいた。
テーブルの中央。銀のトレイに乗せられた「五つの角砂糖」と、人数分のコーヒーカップが、白い湯気を上げている。
(……これは夢? それとも、本当に……?)
「皆様、お揃いのようで」
カウンターの奥から、老人が口を開いた。白髪を撫でつけ、黒いベストに蝶ネクタイ。古風な装いの「マスター」と呼ばれるその老人は、まるで精巧な自動人形のように微動だにしない。瞬きすら、怪しい。
「皆様には、ある共通点がございます。社会的な信用を失い、法外な借金を背負い、もはや自力では一歩も踏み出せぬ袋小路に立たされているという点です」
空気が重くなる。五人の視線が、無意識にテーブル中央の角砂糖へと引き寄せられた。
「碧様」
碧の心臓が跳ねた。
「あなたも、蒸発した父親の連帯保証人として、三千万円という負債を抱えておいでですね」
息が、止まった。
「九条様。あなたは投資詐欺に引っかかり、顧客の資産を溶かした責任を問われ、五千万円の賠償義務がございますね」
眼鏡の男――九条の顔が青ざめた。
「ミカ様。ホストクラブへの未払いと闇金の借入で、合計二千万円の負債。すでに身体での返済も限界と伺っております」
金髪の女――ミカが小さく悲鳴を漏らした。「や、やめて……」
「佐藤様。会社の横領が発覚し、刑事告訴を取り下げる条件として、四千万円の返済を迫られている」
安物スーツの男――佐藤の顔が引きつる。「……畜生……」
マスターの視線が最後に麗香へと向く。
「西園寺様。あなたは――」
しかし麗香はくすりと笑って扇子を開いた。
「わたくしの事情など、どうでもよろしいでしょう? さあ、早く本題へ。退屈ですわ」
マスターは無表情のまま頷いた。
「この店は、そんな皆様に一度だけチャンスを提供する場所。ルールは至ってシンプル」
マスターの指が、銀のトレイを指し示す。
「目の前の五つの角砂糖のうち、ひとつにだけ、即死性の毒物が仕込まれております」
静寂。
佐藤の膝が、ガタガタと音を立てた。
「皆様には、それぞれひとつずつ選んでいただき、コーヒーに溶かして飲んでいただく。最後までゲームを生き残った方には、すべての借金が帳消しとなり、元の日常にお返しいたします」
ミカが震える声で聞いた。
「……毒を飲んだらどうなるの……?」
「遺体は適切に処理されます。骨も皮も何も残りませんので、ご安心ください」
マスターの声には、人間の死に対する感情のかけらもなかった。
「ふ、ふざけないでよ…!」
「拒否することは許されません。この部屋の扉は施錠されており、外部との連絡手段も一切ございません。あなたたちは、借金を全て無くして生きて帰るか、ここで屍となるか、どちらかです」
碧の全身から血の気が引いた。
選べる場所がない人生だった。
それでもここでは、選ばなければならなかった。
「それでは――ゲームを、開始いたします」




