名前のない世界
レオンが王都へ発ってから数ヶ月。私――ユナは、地図にも載っていない辺境の地を渡り歩いていた。 そこには「帝国市民」という肩書きも、「ノクシア」という忌み名への偏見もない。ただ、今日を生きるために土を耕し、互いの名を呼び合う人々がいるだけの、名前のない世界だった。
「ユナ、今日のスープは出来がいいよ。あんたの〈心詠〉で味を占ってくれよ」
村の人々に笑いかけられ、私は自然と微笑む。学園にいた頃の、常に誰かの視線を恐れていた私はもういない。 〈真理の剣〉は今、戦うためではなく、人々の心のわだかまりを溶かし、調和をもたらすためにその輝きを使っていた。
「私は誰……? 王女でも、罪人でもない。私は、ただ私としてここにいる」
カイルがかつて第19話で少年に語った言葉が、ようやく腑に落ちた気がした。 誰かに定義される「名」ではなく、自分がどう在りたいかという「問い」そのものが自分なのだと。
その夜、村の入り口に一人の旅人が現れた。 豪華なマントも、王家の紋章が入った剣も持っていない。ただ、使い古された革の籠手をはめ、泥にまみれたブーツを履いた、一人の男。
「……遅くなったな、ユナ」
「レオン……!」
駆け寄った私の目に映ったのは、王子の面影を残しながらも、その瞳から「迷い」が完全に消えたレオンの姿だった。 彼は王都に戻り、自身の継承権を放棄するだけでなく、魔導院が隠蔽していた「神獣搾取の事実」を法廷で告発し、文字通りすべてを捨ててここへ来たのだ。
「もう『王子』じゃない。ただのレオンだ。君の隣を歩く一人の人間として、ようやく戻ってこれた」
レオンは私に手を差し出した。 それは王族としての慈悲ではなく、対等なパートナーとしての連帯。 第4話で交わした「拳の誓い」は、今や血筋という境界を超え、一人の人間としての誇りへと昇華されていた。
「おかえりなさい、レオン。……さあ、始めましょう。私たちの、本当の戦いを」
二人が手を取り合った瞬間、カイルがかつて見た「調停者の光」が辺境の夜空を貫いた。 もはや私たちは逃亡者ではない。 古い世界の秩序を、内側と外側から壊し、新しい「問い」を打ち立てる革命者として、再び並んで歩き始めたんだ。




