4.恐れていたこと
「早くしろ! 西の庭から、病魔が結界を破ろうとしているぞ!」
病魔、という単語が二度叫ばれ、最初の呼びかけが聞き間違いでないことが確定する。
それと同時に、館全体がどうん! と大きく揺れた。
つい先ほどまでいたバルコニーを見れば、複数の巨大な目のようなものが、外からこちらを覗いていた。
(あれが――病魔)
蜘蛛のような節足動物を思わせる足の爪が、館の外から結界をガンガン叩いている。
六年前に襲われて以来、長らく病魔を目にしていなかったソフィアだったが、それでも、彼女の本能は恐怖を覚えていた。
和やかな舞踏会の雰囲気は一瞬で打ち壊され、先ほどまで悠々と会話を楽しんでいた招待客たちが、鬼気迫る表情で右往左往しはじめた。
「案ずるな! シュナイダー家の結界は堅牢だ! 落ち着いて避難するんだ!」
とそこへ、若い男の凛々しい声がした。
シュナイダー少尉が、うろたえている招待客たちのもとへ、颯爽と駆けつけたらしい。
なんとも頼もしい声を張り上げ、招待客たちを誘導し始めるシュナイダー少尉。
すると、招待客たちはソフィアたちを押しのけ、我先にと非常口へ殺到した。
「あ、あ、いや! 置いていかないで……きゃあっ!」
人垣の向こう側でリリアーネの悲鳴が聞こえる――どうやら、避難する人の波に押されて転んでしまったらしい。
「お嬢様……!」
いくら意地悪であろうと、リリアーネはヒースコール男爵の娘だ。
奉公人であるソフィアには、彼女を守る義務がある。
ソフィアは人の波を何とかかき分け、豪華なドレスを引きずるリリアーネのもとへ駆けつけた。
「いったあ……!」
「お嬢様、大丈夫で――」
駆けつけて、固まった。
転んだ拍子にどこかにぶつけたのか、リリアーネの手からほんの少量の血が出ていた。
ほんの少量の“血”……されど、ソフィアがずっと抑えていた“衝動”を呼び覚ますには、それだけでも十分だった。
「ひっ……! あ、貴方……っ」
リリアーネが怯えた声をあげ、ソフィアから遠ざかろうとする。
ソフィアの足が、勝手にその後を追いかける。
「あ、あ……違う……! どうして……? いや……! 薬、飲んでたのに……!」
「こ、来ないでよ! この……バケモノ!!」
ソフィアの喉が、激しく渇いている。
砂漠をさまよい続けていた旅人が、やっとの思いでオアシスを見つけたときのように──ソフィアは今、リリアーネの血を渇望していた。
(血が、血が飲みたい……! お嬢様の血、飲みたい……!)
耐えがたい喉の渇きはやがて牙を剥き、ソフィアの肉体を急速に蝕み始める──魔蝕症の発作だ。
喉から腹へ、皮膚から肉へ、電気信号のようなものが伝わっていく。
ぐつぐつ煮立った大鍋の中身をかき混ぜられているかのごとく、ソフィアの内部がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。
「う、動くなっ! 穢らわしい魔物め!」
そこへ、異常を察知したのであろうシュナイダー少尉がやってくる――嫌悪と敵意が色濃く表れた表情だった。
少尉はふらふらと歩くソフィアを突き飛ばし、リリアーネを背後に庇う。
そして、腰に差していた剣の切っ先を――人間に向けるべきものではないその刃を、ソフィアへと向けた。
「いや……魔物になりたくない! 助けて……誰か助けて──!!」
ソフィアの人間としての本能が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
柔肌が瞬く間に固くなり、ひび割れ、剥落していく。
栗色の髪が、瞬く間に色を失い、真っ白になっていく。
「近づくな、穢れたバケモノめ!!」
「違う! 違う! 違う! 私、人間、なのに……っ!」
ずっと恐れていた事態が、とうとう起きてしまった。
絶望の黒い海が、ソフィアの生命と尊厳を飲み込もうとしている。
「嫌、嫌、嫌……! お願い、殺さないで……! 見捨てないで……!」
病魔に染まった人間に、人権などというものは存在しない。
このままでは、魔物として斬り捨てられてしまう。
ソフィアは黒い涙を流して、わああっと泣き叫び、歪んだ声で訴えた。
「ソフィアさん――!!」
多数の悲鳴が行き交う中――青年の叫び声が、ソフィアの鼓膜に響いた。
霞んだソフィアの視界に、漆黒のかの姿が写り込む。
人ならざるモノに成ろうとしているソフィアに、彼は一切の躊躇いもなく駆け寄った。
「飲んで!」
一瞬、ソフィアは何をされたか分からなかった――気づいたときにはカラスマ中佐が目の前にいて、彼の手刀がソフィアの口内に突き込まれていた。
彼の腕を濡らしていた温かな液体が、ソフィアの喉を通り過ぎる。
「む……っ!? んん……!」
「そう、いい子だ。ゆっくり飲んで」
こくこくと喉を動かし、少しずつ流し込まれる液体を飲み込む。
ふんわりと漂う芳香と、心地のいい苦味が、なんとも甘美な味わいだ。
激しい喉の渇きが癒えていくのと同時に、彼女の肌に走っていた亀裂が消えていった。
力が抜け、その場に倒れ込むソフィアを、カラスマ中佐の腕がそっと抱きとめる。
「よく頑張りました。もう大丈夫」
「ぁ、貴方、は……?」
頭に思い描いていた顔が、ぼやけた視界に映り込む。
純白と漆黒で構成された、作り物のように綺麗な顔だ。
「そこのお前!」
ソフィアの発作が鎮まったのを確認すると、カラスマ中佐は近くで呆然としていた兵士に早口で命令した。
「病院に連絡入れて。急患一名、魔蝕症の発作だ。応急処置はしたから、着いたら即検査で」
「へっ? は、はい!」
「一般兵、ぼさっとするな! 手が空いてるなら、あの病魔をさっさと結界に閉じ込めろ。早くしないと侵入されるぞ!」
「は、はっ! ただちに!」
カラスマ中佐がテキパキと指示を出していると、少し離れたところで突っ立っていたシュナイダー少尉が、「中佐っ!」と弾かれたように声を上げる。
「その娘はバケモノです! 私に斬らせ――」
「黙れ、無能が!!」
ズカズカと歩み寄ってくる少尉に、カラスマ中佐は凄まじい迫力で怒鳴りつけた。
「彼女はバケモノじゃない、魔蝕症の患者だ! 国の英雄が! 守るべき市民を斬殺するつもりか!」
「っ!?」
国の英雄、という単語は特に痛かっただろう――上官に激しい剣幕で怒鳴られて、少尉は激しく動揺していた。
「病院に運ばせてもらうよ。また発作が起こらないように、魔力で抑えておくね」
カラスマ中佐は上着を脱ぐと、ソフィアの肩にさっと着せる。
すると、ソフィアは魔力の薄い膜に包まれたのを感じた――温かくて、安心する魔力だ。
しかし、ソフィアが安堵したのもつかの間――今度は館の壁がメキメキと音を立てて割れ始めた。
「中佐、もう駄目です! 病魔のほうが強い……!」
バルコニーの扉を、黒い鉤爪がもぎ取るように破壊していく。
間もなくして、病魔が頭から無理やり這い入ってくる。
「どういうことだ!? シュナイダー家の結界術は堅牢だったはず……!」
狼狽えてばかりの少尉を見限ったのか、カラスマ中佐はチッと舌打ちをしたあと――袖の下から赤い紐飾りと東洋の文字が刻まれた短剣を取り出した。
「ああ、面倒くさい!」
手にした五本の短剣を、病魔に向かって投擲する。
短剣が建物の壁を這っていた手にそれぞれ命中し、瞬く間に魔法陣が展開される。
「【血命】――喰らい尽くせ、ヌイ!」
カラスマ中佐の足元から噴水が噴き出すかのごとく、真っ黒な影が飛び出す。
影は質量を伴った巨大な塊と化し、やがて角が生えた、手足の長い鬼へと姿を変えた。
「けらけらけ! 承知したぜぇ、イオリ!」
なんとも奇怪な笑い声を発して、鬼が魔法陣ごと病魔を殴り抜く。
途端、魔法陣から生じた爆炎が、病魔を壁ごと豪快に吹き飛ばした。
「病魔の丸焼きだぁ、やっふぅぅ~~!! いっただきまぁ――す!!」
眼鏡が外れたソフィアには、何が起きているのかさっぱり見えなかったが、音だけはよく聞こえた。
病魔と共に落ちていった鬼は、外の庭で病魔の巨体をむしゃむしゃと貪っているようだ。
「なんだ、今の不気味な使い魔は……上級霊獣か?」
「俺、中佐の攻撃魔法、初めて見たかも……」
「俺もだよ。軍医なのにあんなに強いなんてアリか……!?」
ソフィアの背後で、王国軍の兵士たちが囁きあう。
ほんの数秒ほどの出来事だった――被害をもたらす時間さえ与えず、カラスマ中佐は病魔を討った。
もはや病魔が苦痛を感じるいとまもなかったのではなかろうか――そう思えるほど、あっという間に倒してしまっていた。
(軍医……まさか、この人が……)
ソフィアは、予測する――薄々思い浮かべていたある可能性に、行き当たる。
「あれが、死神軍医――!」
平兵士の言葉で、彼女の予測は確信に変わった。
彼が、彼こそが“死神軍医”――王国軍の重要人物にして、ケガレのソフィアを要求した張本人だ。