1.臆病者の反逆
教えてもらえなかったことに不満はない。
……ただ、不安なのだ。
ソフィアは物思いに耽りながら、西日の色に染まった魔法学校の廊下を歩いていた。
――大手製薬会社のヒースコール社で、魔蝕症の発作を促す薬が製造されていた疑いがある。
そんな話が新聞やラジオなどで報じられれば、国全体に衝撃と混乱をもたらすことになるだろう。
それくらい重大なことを知ってしまったからこそ、ソフィアは不安なのだ。
――イオリはもしかして、軍医の仕事以上に危ない任務に関わっているのではないか。
(私、きっと守られてたんだ)
イオリに導かれ、今まで使えなかった魔法も使えるようになっていくうちに、少しずつ強くなれた気がしていたが、とんだ思い上がりだった。
自分はぬくぬくとした安全地帯で、何も知らされないまま、保護されていただけだったのだ。
誰かからの悪意や危険に怯えることなく、イオリや周囲の人々に守られていた。
無論、ソフィアが危険を察知できなかったのは、気づかないように仕向けられていたからなので、致し方ない部分もある。
とはいえ――イオリが事件解決のために奔走している中、ずっと能天気に過ごしていた自分に、ソフィアは腹が立った。
(……イオリさんがよく笑っていた理由も、分かった気がする)
イオリは、事件に関わってしまったソフィアを不安にさせないため、本来以上に明るく振る舞い続けていたのかもしれない。
そして自分は、その苦労にもまったく気づかないまま、のほほんと暮らしていた。
(……ちゃんと、聞かなきゃ。何も知らないまま過ごすなんて、そんなの絶対にダメ)
もちろん、すべてを聞かなければ気が済まない、とまで言うつもりはない。
けれど、ソフィア自身に関わることだけは、知っておかなければ。
それは自衛のためでもあり、すべてをイオリに背負わせないためでもある。
(私も、強くならなきゃ)
自分のせいでイオリが傷つくなんて、あってはいけない。
最低限、自分の身は自分で守れるようにしなければ。
臆病な自分から、生まれ変わらなければ。
……そんな考え事に耽っているうちに、ソフィアはいつの間にか、図書室にたどり着いていた。
「……なにか、他にも使える魔法があるかしら」
独り言と共に、ソフィアは図書室の中へ足を踏み入れた。
中には誰もいない。
コツ、コツ、というソフィアの靴の音だけが、空間にそっと響き渡る。
なにかいい参考書を見つけたら、後で本屋さんで買おう――と、黙々と本棚を物色する。
ふと、ソフィアは本棚の一番上の段に気になる本を見つけて、手を伸ばした。
「う~……届か、ないぃ……!」
身長は平均よりも高いソフィアだが、爪先立ちをしても、あと数センチだけ手が届かない。
こんなとき、イオリが一緒にいれば、すぐに気づいて本を取ってくれるんだろうな……なんてちょっと甘い想像をしつつ、ソフィアは諦めて踏み台を探すことにした。
「これかい? ソフィア嬢」
爪先立ちの姿勢から戻った直後、背後から耳元にかかるように話しかけられる。
気色の悪い、猫を撫でるような甘い声。
鼻が痛くなるような、香水のきつい匂い。
なにやら覚えのある嫌悪感が、ソフィアの背筋を稲妻のように駆け抜けた。
「勉強熱心なんだね、君は。令嬢として実に好ましい。傲慢なリリアーネとは雲泥の差だ」
「シュナイダー、少尉……」
錆びたブリキの人形のように後ろを振り返ると、ねっとりとした微笑みを浮かべるシュナイダー少尉が、ソフィアのすぐ後ろに立っていた。
「い、いやっ……っ離れて、ください!」
逃げなければ。
誰もいない図書館の奥では、助けなど期待できない。
自分の力で抵抗しなければ。
ソフィアは少尉の体を押しのけようとするが、まだ恐怖が勝っているせいで、腕に上手く力が入らなかった。
「落ち着いてくれ、ソフィア嬢。何もしないから、私の話を聞くんだ」
「いやですっ、離して! 触らないでっ!」
手首を掴む少尉の手の感触が、どうしようもなく気持ち悪い。
まるで、大きな毛虫が這っているようだ。
そうして必死にもみ合っているうちに、懐にしまっていた花のカプセルがぽろっと転がり落ちる。
「あっ……!」
カプセルがカシャンと音を立てて開いたかと思うと、中に入っていた咲きかけの花が飛び出た。
少尉の注意が、すぐさま床に落ちた花のほうへ向く。
「これは……サクラ?」
中身が八重咲きのサクラだと気づいた瞬間、シュナイダー少尉の目尻がぎゅっと吊り上がった。
少尉は掴んでいたソフィアの手首を放り投げるように離し、落ちた花を拾い上げる。
「そうか、そういえば、祭りの花を渡すとどうの……とかいうジンクスがあったね。しかし、東国の花か……」
いかにも、東国にルーツを持つイオリを彷彿とさせる花だ。
よそ者嫌いの貴族に渡すべき花ではない。
シュナイダー少尉は眉をひそめながら、その花を睨んでいた。
「君は本当に可愛らしい子だね。この花がサクラでなければ、もっとよかったのだけど……」
「っ、返してください! その花は、大切なものなんです! お願いですから、返して……っ!」
それは、イオリに渡すために咲かせた特別な花だ。
たった二週間ではあったけれど、その中でありったけの想いを込めた、大切な贈り物だ。
頼むから何もしないでくれ、そのまま返してくれ、とソフィアは懇願した。
けれど。
「ただの花だろう? 大袈裟な。こんなもの、あの男に渡したところで、なんの意味もない」
少尉はそう吐き捨てて、花を床に叩きつける。
そして、ソフィアが急いで拾い上げる前に、かかとで潰すように踏みつけた。
「ぁっ――」
パキッ、と踏みつけられた花が音を立てたのと同時に、ソフィアの喉の奥から、ほんの小さく声が漏れた。
彼女の目と鼻の先で、少尉のブーツがぐりぐりとしつこく、花をすり潰していく。
「いくら私でも、不快に思うことだってあるんだよ。先日あれほど警告したのに、どうして君はあの男を慕い続けるんだい?」
「あ、あ――」
ソフィアの胸の中から、何かがポトッ……と抜け落ちた。
それは、先ほどまで頭の中を巡っていた、命乞いにも似ている、哀れで悲しい感情だ。
喩えるなら、目の前で生卵が落ちるのを見たときの、あっ! という一瞬の絶望感。
それが何倍にも、何万倍にも、増幅されて、引き延ばされて、ソフィアの中で再生されている。
――あ……これ、前にもあった……
踏み潰された花の残骸を目にしてよぎったのは、リリアーネに父の形見の指輪を取られたときの記憶だった。
思えばあの時、なぜ自分は湧き上がった感情を抑え込んでしまったのだろう。
状況は同じだったはずだ――大切な宝物を穢されて、そこに込められた想いを踏みにじられて。
考えるより先に叫び、リリアーネに掴みかかっていたのは、間違いなく――ソフィアの胸に、怒りが宿っていたからだ。
けれど、ソフィアは最終的に怒る選択をしなかった。
それは果たして、どうしてか。
――ああ、そうか。私、怖かったんだ。
自分を失ってしまうのが、怖かったのだ。
怒りでわけが分からなくなって、そのまま自分でなくなってしまうような、あの感覚が。
病魔に心を蝕まれていくのにも似た、あの錯覚が。
――あれは、きっと大きな間違いだった。
――私はあの時、怒るべきだった。
――そうしなかったから、お嬢様は私を虐めたんだ。
何をしても怒らない、牙を剥かない、軟弱者。
何をされても許してしまう……否、許すことしかできない、臆病者。
どうしようもなく脆く、どうしようもなく怖がりな、弱虫。
それが第三者から見た、ソフィアという少女だ。
――怒らなきゃ。このまま否定させたら、ダメだ。
――そうしなければ、私はまたこの人に殺される。
こんなつまらない男に、イオリへの想いを踏みにじられたままでたまるか。
この心を好きなようにされて、たまるものか――!
「――る、さない……許さ、ない……っ!」
涙がこぼれるのと共に、ソフィアの体の芯から、何かがあふれ出た。
増水した川の水圧が、堤防を内から外へ決壊させるように――ソフィアの怒りが、魔力と共にどうっと爆発した。
「なっ、ソフィア嬢っ……!?」
「許さない……! イオリさんのための、大切なお花だったのに……っ! 絶対、壊されたくなかったのに!! 絶っ対に許さない……!!」
今まで体の奥に封じ込めていた魔力が、一気に解放されたのだろう。
恐ろしい力だと、ソフィア自身も感じていた。
けれど、今更抑えたりはしない――ソフィアはもう、怒ると決めたのだから。
「落ち着くんだ、ソフィア嬢……た、確かに乱暴なやり方だったが、あれは君の目を覚ますためで――」
「黙ってください!! 私は何度も何度も嫌だって言ったのに!! どうしてそんな酷いことをするんですか!!」
どうして、人が傷つくことを平然と行えるのだ。
どうして、何度言ってもやめてくれないのだ。
どうして、私の恋を否定し続けるのだ。
いくつもの『どうして』が浮かび上がる度に、ソフィアの奥から、激しい怒りがこみ上げた。
「貴方なんて、大っ嫌い!! しつこく私につきまとわないで!!」
「っ、いい加減にしろ! 私の言うことを聞くんだ――」
シュナイダー少尉が近づいてくる。
それを拒むように、ありったけの魔力を放つ。
魔法とも呼べない、ただ魔力をぶつけるだけの攻撃が、少尉の体を後ろへ吹き飛ばした。
無様に転がっていく少尉を見て、ソフィアは(やった……!)と気を緩めた。
「――うっ!?」
気を緩めた瞬間――多量の魔力を放った代償が、早くも返ってきた。
――喉が、激しく渇く。
――喉の渇きが、ソフィアに牙を剥く。
――喉から腹へ、皮膚から肉へ、うるさい鐘の音が響くように、信号が伝わっていく。
(だめ……っ! こんなところで、魔物になるわけには……!)
けれど、ソフィアの意志を飲み込むように、病魔は急速に彼女を蝕んでいく。
肌に亀裂が入り、ボロボロと剥落していく。
「は、はは……それ見たことか。無理やり魔力を使ったツケが返ってきた!」
体を起こした少尉が、再び近づいてくる。
何とか抵抗を試みるソフィアだが、体に上手く力が入らない。
「だが、同じ過ちはもう冒さない。君が吸血種の魔蝕症だということは知っている。さあ、私の血を飲むといい。今ならまだ助けてやっても――」
「いりません」
ソフィアはきっぱりと述べ、差し伸べられた少尉の手をぴしゃりと叩く。
この男に命乞いなど、今更するつもりはない。
「貴方の香水臭い血を飲むなんて、一滴でもまっぴらですよ。そうやって生き延びるくらいなら、殺された方がまだいい……!」
「こ、の……っ!」
イオリやヌイを見て覚えた悪態をつきながら、ソフィアは抵抗を続ける。
最期の最後まで、誇り高く散ってやるつもりで言う。
「――まったくもって救いがたい女だ!!」
抜き放たれた剣が、ソフィアの頭上へ振り上げられる。
しかし、それが振り下ろされることはなかった。
舞踏会で銀色の光を放っていた剣は、いまや赤黒く錆びて、無残な有様になっていた。
「な……!? なんで、剣が錆びて……」
――鉄を変質させる魔力だ。
魔蝕症の患者にしか見られない、魔力の変質。
本来、木属性の性質を持ったソフィアの魔力は、今――金属性の性質を帯びていた。
ソフィアが冷静に考えていたところで、突然
バァァン!!
と、大爆発が起きたかのように、図書室のドアが弾け飛んだ。
「気持ち悪いんだよ、クソ野郎!!」
ドスの利いた罵り文句と共に、イオリが遅れて飛び込んでくる。
真っ黒な弾丸のような勢いの跳び蹴りが、シュナイダー少尉の横っ面に炸裂した。
先ほどのソフィアの魔力波とほとんど変わらない威力で、少尉の体は再び吹っ飛び、後方の本棚へ激突する。
「ソフィ、飲んで!」
少尉の上に、本棚から落ちてきた大量の本がばさばさと降り注ぐ。
その隙に、イオリはソフィアの口へ指を押し込んだ。
傷口から流れ出た魅魔血が、彼女の喉の渇きを急速に癒やし、発作を鎮めていく。
「――っのおお! どいつもこいつも私を……」
本の山からシュナイダー少尉が顔を出す。
蹴られたときに口を怪我したのだろう――整っていた輪郭は大きく真っ赤に腫れ上がり、口の端からは血を流し、ついでに歯も一本折れていた。
「こっちだ!」
イオリはソフィアを立ち上がらせると、腕を引いて走り出した。
「待てぇええ!! 逃がさんぞ、死神ぃい!!」
新聞の一面を飾っていた美貌はどこへやら、憤怒に駆られた少尉の顔は、今や魔物も顔負けの迫力だった。
日も沈んだ屋外に出たイオリは、そのまま近くの転移装置を作動させる。
すっと体が溶けていくような感覚の後、二人は祭の会場の入出ゲートまで移動していた。
しかし。
「あ……っ!」
ソフィアは、目の前の光景に、血の気が引いた。
ゲートの周辺を、二人を待ち構えていた王国軍の衛兵たちが囲んでいる。
「ははははっ、馬鹿め! まんまと引っかかったな、死神!!」
後から追いついたシュナイダー少尉が、声を上げて笑う。
二人を囲んだ衛兵たちは、皆揃って、武器を構えていた。




