2.ある軍医の要求
長らく続いた貴族政治に代わり、国王直轄の機関“ファナステラ王国軍”が設立されて幾星霜――いまや公職も世襲されるものではなく、実力で勝ち取る時代となった。
とりわけ、王国軍での階級がものを言うこの時代では、昔ながらの爵位などほぼ飾りのような扱いだ。
しかし、大手製薬会社を営むこのヒースコール男爵家は、いまだにこの土地一帯の権力を握り続けている。
ソフィアはここで魔蝕症の薬の支給を受ける代わりに、メイドとして屋敷内の雑務に従事していた。
しかし、どういうわけか――毎月必ず支給されていた薬が、なぜか今月だけ支給されなかったのだ。
支給を担当していた使用人に理由を聞いても、なにかとはぐらかされて先延ばしにされていたが、これ以上先延ばしにされると薬が切れてしまう。
いつもの使用人では埒があかないから、ソフィアは男爵に直談判しに書斎へ向かっていた。
「旦那様、失礼いたします」
ノックと声かけをしてから書斎に入ると、なにやら優雅なバイオリン音楽が流れていた。
音声伝達を可能にした、魔力を動力源とする最新機器――確か、“ラジオ”というのだったか。
「な、なんだい、ソフィア。今から午後の仕事を始めるのだが」
それまでのんびりと音楽を聞いていたらしい男爵は、何事もなかったかのようにラジオを消すと、慌てた様子で居住まいを正した。
急いで書類と判子を手に取るポーズが、これでもかというほどわざとらしい。
「お忙しいところ申し訳ありません。今月分のお薬をいただきたいのですが……」
「薬? ああ、そうだね、すまない。すっかり忘れていた。……ソフィア。私は仕事をしなければならないのだが、一人にしてはくれんかね……」
男爵はしどろもどろと誤魔化そうとするが、もうこれ以上先延ばしにするわけにはいかない。
「お願いいたします。薬が尽きれば、まともに働けなくなってしまいます」
誇張は一切していない。
ソフィアは薬で症状を抑えなければ、人間として最低限の生活すら送れなくなってしまう。
彼女にとっては、給金以上に重要な命綱が失われる、まさに死活問題なのだ。
「お願いいたします、旦那様。お金は一切いりませんので、どうか……」
ソフィアが丁重に頭を下げたところで、いきなり彼女の背後にあった書斎の扉が、バァンと音を立てて開く。
驚いて振り返れば、そこには興奮気味に息を切らせているリリアーネがいた。
「お父様、ご覧になって! またアレク様が号外に載ってらっしゃるわ! 王都に現れた病魔を倒したそうよ」
学校の帰りに受け取ったのだろう――喜色満面とばかりの輝かしい笑顔で、新聞を掲げるリリアーネ。
すると、丁度いいところにと言わんばかりに、冷や汗まみれだった男爵がぱっと笑顔になった。
「おお、リリー! もちろんラジオで聞いたとも。素晴らしい活躍だね、さすがはお前の許嫁だ」
「本当に立派なお方ですわ。『彼は王国の英雄だ』、ですって!」
二人が話しているのは、ファナステラ王国軍の軍人、アレックス・シュナイダー少尉のことだ。
シュナイダー家は魔物退治の名家と言われており、その領域における功績の数も他を圧倒している。
巷の人々、特に女性たちは、この美貌の軍人をちやほや持て囃しているが、ソフィアはこの男がどうも苦手だった。
記者の質問に対する受け答えといい、一面を飾る自慢げな表情といい、軍人らしい品性がまったく感じられない。
まるで、自分を舞台俳優かなにかと勘違いしているようで、鼻についてしまうのだ。
「あら。いたのね、貴方」
上機嫌だったリリアーネは、ソフィアの存在に気づくと、楽しいおしゃべりに水を差されたわ、と言わんばかりに笑顔を消した。
「なあに? 用がないならさっさと出て行って。いつまでもケガレがいたら、空気が汚れてしまうわ」
「いや、リリーがいるならちょうどいい。実は、お前たち二人に話さなければならないことがあったのだ」
奉公人のソフィアと、令嬢のリリアーネ、異なる立場の二人になにを話すというのだろう。
ソフィアは首を傾げ、リリアーネは眉をひそめた。
「来週、王都で催される舞踏会に、そのシュナイダー少尉が出席するそうだ。リリー、お前ももう十六歳だし、彼と顔を合わせてもいい頃だろう」
「まあっ! ようやくなのね!」
憧れの許嫁と対面できる、とリリアーネは目を輝かせた。
シュナイダー子爵家は、古くからヒースコール男爵家と浅からぬ縁があるらしい……ということは、ソフィアも知っていた。
現在も王国軍にヒースコール社の製品を卸せるよう、密かに便宜を図ってくれているらしい。
それを聞いたとき、ソフィアが(法に抵触するのでは……)と思ったのは、秘密である。
「ソフィア。お前にも出席してもらう」
「え?」
男爵からの思わぬ命令に、ソフィアは目を丸くした。
一応、ソフィアも生まれは貴族だが、今はただの奉公人だ。
決して舞踏会に出られる立場ではないのに、どうして自分が? ……とソフィアが聞くよりも先に、リリアーネが異を唱えた。
「お父様、なにを考えてらっしゃるの? こんなみすぼらしいケガレを舞踏会に出すなんて、お父様の評判に傷がついたら……」
「し、仕方ないだろう。彼女に会わせてほしいと言っている相手が、舞踏会に顔を出すと言っているのだ。直筆の手紙で『連れてこい』と要求されては、こちらも断れまい?」
「まあ、そんなにお偉い方なの?」
「偉いもなにも、あの“死神軍医”だ。逆らえば何をされるか分かったものでは……」
「なんですって?」
仰々しいその二つ名は、ソフィアも何度か耳にしたことがある。
王国軍の死神軍医――王国軍医療部隊副長として軍医たちを率いる魔術師であり、病魔の研究にも第一線で携わっているという、折り紙つきの天才軍医だ。
病魔狩りの異名で知られる東方の魔術師一族にルーツを持つ彼は、二十代という若さで中佐階級まで昇進している一方で――数々の奇妙な噂が囁かれていた。
――使い魔を従えるため、自身の一族を生贄にした悪逆非道の術者。
――魔物と契約して得た悪魔的な美貌で、数多くの女性を誑かす。
――捕らえた病魔を使い魔に食わせたり、生きたまま解剖したりなど、残酷な所業を繰り返している。
あまり外に出ないソフィアでも、これくらいは知っていた。
「へえ? ふうん?」
リリアーネがソフィアを見ながら、にたりと笑う。
意地悪なことを考えているときの、邪悪な笑い方だった。
「ひょっとして、このケガレを解剖するつもりなのかしら。もしくは、使い魔の餌にするとか?」
「そ、そんなことを言うものじゃないぞ、リリー! もう少し慎みを持ちなさい」
「あら、どうして? こんなケガレなんかに気を遣わなくたっていいじゃない。ねえ?」
リリアーネの蔑むような視線を浴びて、ソフィアは悪寒が走った。
情など欠片もない、虫けらを見るような目だった。
「それは、ご容赦ください……! きちんと働きますから、どうか……」
「うるさいわよ、ケガレ。お父様の言いたいことが分からないの?」
そんな残酷な死に方はしたくない、とソフィアは深々と頭を下げるが、リリアーネが男爵の代弁をするようにバッサリと切り捨てた。
「お父様はお前がアッシュフィールド伯爵の娘だから、情けをかけていただけなの。でも、それももう限界ってことよ。お前はいたずらに貴重な薬を消費し続けるだけで、なんの利益も生み出さなかった。それどころか、私やお母様が迷惑を被ったこともあったわね」
「っ、それ、は……」
すべて、リリアーネが仕組んだことだ。
先ほどのお茶の件のように、リリアーネには何度も失態をでっち上げられた。
きちんと整えたはずのベッドをグチャグチャに乱されたり、掃除した後のキッチンの床をわざと汚されたり、彼女にされた邪魔や嫌がらせは数知れない。
けれど、言ったところで信用されないことは分かりきっている――リリアーネが訴えれば、何があろうとソフィアのせいになった。
ソフィアの弁明が聞き入れられたことは、これまで一度もない。
「今までずっと我慢してあげていたけれど、もう限界だわ。ソフィアったら、いつまでも進歩しないんだもの。お父様が捨てる決断をしても仕方ないわよね」
こんなの、あんまりだ――ソフィアの目から、じわりと涙がこぼれそうになった。
至らないなりに、努力してきたつもりだったのだ。
魔蝕症への偏見が残るこの地で、自分を拾って雇ってくれたこの家に、少しでも恩を返さなければならなかったから。
学校にも行けず、周りの使用人にも煙たがられて、時には理不尽な暴力も振るわれて――それでも一日中働き続けて。
そうまでして頑張ったのに、最後はこのざまだ。
(ああ……馬鹿みたい)
ソフィアが彼らのためにしてきたことは、すべて無意味だったのだ。
それを突きつけられたソフィアは、この時――すべての気力を失った。
「ドレスはこちらで用意しよう。……悪く思わないでくれ」
ソフィアに残された選択肢は、ただ頷くことだけだった。
*
(……思えば、ここまで生き残れただけでも、幸運だったのかもしれない)
王都にあるホテルの一室で、申し訳程度の質素なドレスに着替える中――ソフィアは鏡に映った自分の体をぼんやり見つめる。
彼女の体には、生々しい折檻の傷痕が縦横無尽に刻まれていた。
新旧入り交じる傷の中でも特に大きい、背中の裂傷痕――それこそが、彼女を魔蝕症に至らしめた傷だ。
加えて、おぞましいほど妖艶に輝く、彼女のチェリーレッドの瞳――これもまた、彼女が普通の人間ではないことを突きつけてくる。
(おとぎ話にしたって酷い話ね。よく六年も生き延びていたものだわ……)
王都の名家出身ながら、弱い立場にあったソフィアは、ヒースコール家の者たちから散々に虐められた。
そして今──順当に行けば、ソフィアはこのまま“死神”に売られる運命を辿ることになるのだろう。
あまりに悲劇的すぎて、もはや知らない誰かの話を聞いているような、投げやりな気持ちになってくる。
血色の悪い肌に化粧を施しつつ、物思いにふけっていると、部屋の外から誰かが呼びかけてきた。
ドアを開けてみれば、そこには意外な来客が立っていた。
「……お嬢様?」
「失礼するわね」
華やかなドレスに身を包んだリリアーネが、悪戯っぽく微笑みながら部屋に入ってくる。
彼女はソフィアの格好を見るなり、意外そうな顔を見せた。
「あら、ソフィアでも着飾ればそれなりに見栄えがするのね。これなら、私の引き立て役くらいにはなれるかしら?」
「……なにか、ご用でしょうか?」
最後の皮肉でも言いに来たのだろうか、とソフィアは身構えた。
しかし、予想とは裏腹に、リリアーネは「はい、これ」とソフィアに何かを差し出してきた――毎月支給してもらっている、薬が入った瓶だ。
ちょうど一回分だけの分量が入っている。
「今月分の薬が支給されてないって聞いたから。最期の舞踏会くらい万全に出たいでしょうと思って、持ってきてあげたわ」
「え……? あ、はい……」
珍しいこともあるものだ――意地悪ばかりしてくるリリアーネが、わざわざ薬を届けに来るなんて。
一体どういう風の吹き回しか、と警戒するソフィアだが、にっこり微笑んで差し出しているのを断れば、リリアーネはたちまち機嫌を悪くするだろう。
とりあえず、ここは素直に受け取っておこう、とソフィアは手を伸ばした。
「ちょっと? まさか、ただでもらえるとは思ってないわよね?」
ソフィアの指が触れる寸前で、小瓶をさっと引っ込めるリリアーネ。
びくっと怯えるソフィアに、リリアーネは笑顔を崩さないまま言った。
「這いつくばって『お願いします』は?」
「え……?」
「お父様に見つからないよう、持ち出すのに苦労したのよ。それを頭一つでくださいって頼むんだから、相応の誠意はあってもいいでしょう?」
なるほど、そういう意地悪か……頭を下げた相手を見下したかったのか、とソフィアは納得した。
ならば、今更頭一つ下げるくらい、どうということはない。
ソフィアは文字どおり、床に這いつくばって、丁寧にお辞儀をした。
「お願いします、お嬢様。その薬をください」
「もっと下げなきゃだめよ」
リリアーネはそう言って、ソフィアの頭を上から踏みつけた。
鼻が潰れるくらいの勢いで、チクチクした感触のカーペットに顔がぶつかる。
さらに足をグリグリされて、皮がむけそうなほど額が擦れた。
「っ、お願いします、リリアーネお嬢様……どうか、その薬を私にください」
ここで『痛い』『やめて』などと言えば、頭を蹴られたりして、さらに痛めつけられる……ソフィアには予想がついていた。
だから、痛みに耐えて「お願いします」と懇願した。
「いいでしょう」
リリアーネは満足気に鼻を鳴らすと、ソフィアが跪いている床に小瓶を放り投げた。
パリン! と小瓶が割れ、中の錠剤が飛び散る。
「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ。自分で拾ってちょうだいね」
そう言い捨てて、リリアーネは部屋を去っていった。
足音が聞こえなくなったあとで、ソフィアはようやく頭を上げる。
(……シュナイダー少尉は、お嫁さんがこんな女の子で大丈夫かしら)
相手を徹底的に痛めつけて、痛めつけた相手をさらに辱めて、一体何が楽しいのだろう。
こんな酷いことをする女性を、果たしてかの軍人は喜んで迎えるのだろうか。
まあ、もうすぐ死ぬ自分には関係のないことだけど……と、ソフィアは散らばった小瓶の破片と錠剤を拾いながら考える。
(……もう薬の世話になることもないのね)
いよいよ、すべてが終わる。
この生き地獄から、ようやく解放される。
そう考えれば、死神に会いに行くのも怖くない……とまではいかないが、少しばかり心が軽くなっていくような気がした。