5.逃がさない
「この際だし、他にもソフィが気になること、話してみる?」
調子が少し戻ってきたところで、ふとイオリが提案してくる。
「気になること……」
そういえば、確かに何かあった気がする。
ソフィアは少し考えて……吸血の次に気になっていたことを思い出した。
「イオリさんは、どうしてあんなに怖い噂があるのですか?」
「え? 僕のこと?」
シュナイダー少尉の言葉に、真面目に取り合ってはいけないことは分かっている。
しかし、それでも……死神軍医についての根も葉もない噂話が、世間に広く知れ渡っているのもまた、事実なのだ。
「どうして貴方があんな酷い言われ方をしなければいけないのか……そう思うと、すごく悔しくて」
できることなら、ソフィア自ら世間の誤解を解いて回りたいくらいだ。
けれど、イオリ自身はやはり、あっけらかんとしていた。
「あれは尾ひれがついたっていうか。僕のことをよく思わない貴族出身の軍人たちが流したんだと思う。僕の出自ははっきりしない点も多いし、一族はなぜか滅んでるし、変な憶測が出やすいんだろうね」
それでも、よくこんなに創作したものだ――とイオリはもはや他人事のように感心していた。
「つまり……貴族の方々に、足を引っ張られている、ということですか?」
「そういうこと。察しがよくて助かるよ」
貴族の考え方を知るソフィアには、彼が置かれた状況など容易に察せられた。
イオリは優秀すぎたがゆえに、妬まれたのだ。
他国にルーツを持つ『よそ者』が異例の昇進を遂げたのだから、尚更である。
歴史と家柄で立場を築き上げてきた貴族にとっては、目について仕方がないのだろう。
加えて、王国軍は実力主義の世界だ。
今まで世襲で実権を握ってきた貴族にしてみれば、家柄という手札が通じない点で不都合といえる。
「僕をやっかみの対象にするのはいいよ。でも、シュナイダーのアホに関しては、ソフィまで巻き込むから迷惑なんだよね。自分が狙っていた子を、僕に取られたって思ってるみたいだからさ」
狙っていた、という言葉に、ソフィアは怖気がした。
あんな酷い口説き方をされて、ソフィアの心が傾くなどあり得ないのに。
「……でも、そうだね。ソフィが悔しいって言ってくれたのは、ちょっと安心した」
「安心、ですか?」
少し、意外だった。
彼が何に不安を感じていたのか、想像できないソフィアは首を傾げる。
「まあ、なんだ。柄にもなく臆病風に吹かれたというか。君がシュナイダー少尉のもとに行くのは、さすがにはあり得ないとしても……僕は変な噂が尽きないからさ。ソフィが心のどこかで、僕のことを怖がってたらどうしようって、あの時は思ったんだ」
……本当に、らしくもない話だ、とソフィアは思う。
シュナイダー少尉に何を言われても動じなかったイオリが、そんな心配をしていたなんて、思いも寄らなかった。
「一族の話もさ、記憶が吹っ飛んでるせいで、なにがあったのか分からないから、不安なんだよね。――もしかしたら僕は、とんでもないことをやらかしたんじゃないかって」
「イオリさん……」
「なんてね。こんなことで悩んだってしょうがないのに、くよくよして情けないや」
「……情けなくなんてありません!」
気づけば、ソフィアはひときわ大きな声で、叫んでいた。
イオリがきょとんとしているのを見て、ほんの一瞬「しまった」と思うが、口をついて出た言葉は、止まらなかった。
「だって、魔物になりかけた私のところに駆けつけてくれたのは、イオリさんだけでした」
他の人たちはみな、発作を起こしたソフィアから遠ざかった。
あまつさえ、シュナイダー少尉のように剣を向けた者もいた。
当然の反応とはいえ――多くの人から見殺しにされたあの時の絶望は、途方もないものだった。
だからこそ、イオリが差し伸べてくれた手の温かさに、どれだけ救われたことか。
「他の誰かに何を言われようと、私は貴方を死神だなんて思いません。貴方は私が好きな人のままです」
何があったとしても、ソフィアにとって、イオリはイオリのままだ。
病魔に蝕まれたソフィアに救いの手を差し伸べてくれた――大好きな人だ。
「…………あっ」
そこまで言い切った後で――ソフィアは、自分がとんでもないことを口走ったことに気づいて、途端に血の気が引いた。
「…………ソフィ」
「い、いえっ! い、今のは、えっと……そう、尊敬しているという意味で、ですね……!」
急いでなんとか取り繕える言葉を、と頭をフル回転させるソフィア。
けれど、誤魔化すには無理がある、と早々に悟って、
「も、もう夜も更けてきましたから、これでっ……!」
と、無理やり逃亡を図った。
「ソフィ」
しかし、部屋を出ようとして開けたドアが、ソフィアの背後から伸びてきた手によって、すぐさまバンと閉められてしまう。
「だめ。さすがに今のは、聞き流してあげられない」
「あ、あっ……」
すぐ耳元でイオリの声がする。
背中が、ひりつくように熱い。
――逃げ道が、ない。
「あ……っ、ごめ、んなさ」
「どうして謝るの?」
「だ、だって……っ、こんな、の、ダメ、だから……っ、釣り合いません、から」
しがない立場の自分が思い上がって、イオリの隣に居座り続けるわけにはいかない。
彼に相応しい女性が現れたときのためにも、ソフィアは想いを隠し続けているつもりだった。
「わ、私は、母が貴方の尊敬する人だったから、情けをかけてもらえただけで……」
「情け、ねえ……」
はあ、と耳にかかるため息。
その意味がよく量れず、ソフィアはびくりと怯える。
「僕は単なる『恩人の娘』として、君に接してたわけじゃないよ。ソフィアっていう一人の女の子として、ちゃんと見てたよ」
「っ……で、でも」
「でもじゃない」
あくまでも逃げ道を模索するソフィアを、イオリは遮る。
何も言えず、身動きも取れず、ソフィアの中にこみ上げた熱が、ぐるぐる頭を回り出す。
「そりゃ、そう思われていたとしても仕方ないよ。あのアホみたいに君を怖がらせたくなくて、わざと距離を取ってたんだから」
けれど、ソフィアは今、決定的な台詞を言ってしまった。
うっかりではあったものの、はっきりと好意を伝えてしまった。
自分を怖がらせまいと距離を保っていたイオリに対して――異性として接近することを、許してしまった。
「……怖かったなら、ごめん。でも、言い逃げや誤魔化しをさせるつもりはない」
イオリは壁際に追い詰めたことを詫びつつ、ソフィアから離れた。
ぎこちなく振り返れば、少しだけ顔を赤くしたイオリが、これまでになく真剣な面持ちで、ソフィアを見つめていた。
「ただ――もし今言ったことが嘘だったなら、正直に言って。今ならまだ、僕もギリギリなかったことにできる」
最後の逃げ道を与えられているのだと悟った。
ひとたび閉じ込めたら、死ぬまで解放しない――それくらいの重い覚悟を持った、まさに最後の確認だった。
「君の気持ちを教えて、ソフィ」
ああ、これは生半可な返事をするわけにはいかない――臆病なソフィアも、さすがに腹を括った。
覚悟を決めて、一気に顔を近づけて、ハーブティーの香りが漂うその唇に、自分の唇で触れた。
「……これで、勘弁してください……」
眼鏡が軽くぶつかったが、そんなことを気にしている余裕などなかった。
顔が燃えるように熱いし、心臓がバクバクして張り裂けそうで、このまま死んでしまうのではないかと思う。
これ以上差し出せるものがないくらいの、決死の返答をして、あとのことはすべてイオリに委ねた。
イオリはしばらく自身の唇に触れていたが、やがて
「眼鏡、取るよ」
と律儀に断ってから、ソフィアの眼鏡を両手で丁寧に外した。
視界がぼやけたかと思うと、すぐに念押しのようなキスを贈られる。
みたび唇が触れると、ついにあれこれ悩んでいたのがどうでもよくなった。
嫌じゃない。怖くない。温かくて、心地がいい。
……それだけで十分だ。
ソフィアはごく自然な動きで、イオリの背中に腕を回していた。




