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4.まさかの暴露

 すっかり意気消沈して、スピラーの食事を用意するのがやっとだった。

 買ったもので適当に食事を済ませ、風呂に浸かり、ベッドに入って、夜が更けて。

 ……日付が変わりそうになっても、ソフィアは眠れないままだった。


(……また、イオリさんに気を遣わせてしまった)


 男から強引に迫られたソフィアの心情を察してか、イオリからの会話や接触はほとんどないまま、一日が終わろうとしている。

 ソフィアはそばにいたスピラーの毛並みを、ただ呆然と撫でていた。


(これ以上、迷惑なんてかけられないのに……)


 吸血衝動のことと言い、シュナイダー少尉のことと言い、もうたくさんだ。

 ソフィア一人では到底抱えきれない問題ばかりが山積している。

 せめて、吸血衝動をやり過ごす方法さえ見つかれば……。


(あ……駄目だ、喉が渇いて……)


 ソフィアはそばに置いてあった水差しの水をがぶ飲みするが、もう焼け石に水だった。 

 先日からずっとこらえていた衝動が、もはや誤魔化せない次元まで来ていた。


『バケモノ』

『穢らわしい魔物』

『穢れた身の上で』


 リリアーネやシュナイダー少尉の罵声が、ソフィアの頭を殴りつけてくる。

 ソフィアは耳を塞ぎ、それでもまとわりつく声を振り払うように、頭をぶんぶん振った。

 驚いたスピラーがベッドから逃げていくが、構っていられる余裕はない。

 これに耐えなければ、またイオリを傷つけてしまう。


 ――違う、違う、違う! 私は人間……! バケモノでも魔物でもない!

 ソフィアは何度も繰り返し自分に言い聞かせる。

 けれど、必死に否定するソフィアを妨害するように、彼女が最も慕う人物の声が、再び頭を叩いた。


『何が違うの?』

『血を吸わずにはいられない人間なんて、そんなの人間じゃない』

『残念だわ、手塩にかけて大切に貴方を育てたのに……』


 優しい母の声が、ソフィアの胸を抉るように囁いてくる。

 

『貴方はもうじき、人間ではなくなるのね』

『生き長らえるために、誰かの血を欲し続けて』

『可哀想、本当に可哀想な子……』


 ――違う! 違う! 違う!

 母が、そんなことを言うわけがない、と理性ではわかっていても、母の幻聴は止まらない。

 むしろ、否定する度にどんどん声が大きくなっていっている。


『ソフィ、貴方を愛していたのに』

『貴方はもう、誰かを傷つけ続けるバケモ――


 ――もうやめて、お母さん!! もう言わないで!!

 もう嫌だ。もう耐えられない。誰か、この声を消してくれ。

 たまらず泣き叫びそうになった時、


「ソフィ……?」


 と、イオリの声が聞こえた。

 頭の中に響く幻聴ではなく……鼓膜に直接響いた、現実の声だ。

 異変を察知したスピラーが、彼を連れてきたらしい。


「ソフィ、落ち着いて。ほら、早く――」

「ッ!? だめっ!!」


 イオリが首元を晒すのが見えて、ソフィアは近づくなと彼を押し離した。

 目を見開いているイオリに、ソフィアは


「お願い、です……私を、殺してください……」


 と、零していた。

 ……絶えず心のどこかで考えていたことを、ぽろっと口にしていた。


「こんなバケモノ、生きているわけにはいかないんです……! これ以上貴方を犠牲にするなんて、私が耐えられません……っ」


 イオリはさらに驚いた表情を見せる――彼にしてみれば、予想だにしない台詞だったのだろう。

 一度口に出して勢いがついたのか、ソフィアが心の奥底にしまっていた思いが、次々と堰を切ったように溢れ出た。


「分かるんです……あの舞踏会の夜から、私はどんどん魔物に近づいているんです……! きっと、私は遠からず人間ではなくなってしまう……!」


 私は人間だ、と何度も言い聞かせていたのは、ほとんど魔物に近いものになっている自覚があったからだ。

 あの夜の発作はそれほど決定的――否、確定的なものだった。

 彼女の運命を、確定させるものだったのだ。

 

「お願いです……まだ人間でいるうちに、私を殺してください。貴方の刃でしたら、受け入れられますから。どうか、母のもとへ往かせてください……」


 あの時、病魔をいとも容易く(ほふ)ったイオリなら、この息の根も綺麗に止めてくれるだろう。

 もちろん、イオリに手を汚させるのもしのびないとは思うけれど、それでも彼を傷つけ続ける未来よりはマシだ。 

 イオリは口を閉ざして沈黙していたが、やがて近くにあったペーパーナイフを手にすると、「目を閉じて」とソフィアに告げた。

 ああ、殺してくれるんだ……と、ソフィアは安堵して、素直に目を閉じた。


(大丈夫。少し苦しいかもしれないけれど、これでいい。これで、誰も傷つけないで済む)


 けれど……甘かった。()()()()()()

 ソフィアの口の中に、むせ返るように甘い香りが広がる。

 唇に何かが触れていることに気づいたソフィアは、目を開けて、驚愕した。

 ソフィアの視界の全面を埋め尽くさんばかりの、超至近距離に――イオリの漆黒の瞳があった。


「むっ、んん……!?」


 イオリは自分の腕を切りつけ、そこから吸い上げた血を口移しで飲ませようとしていた。

 抵抗しなければ、と考えはするけれど、甘美な香りに酔って、そのまま彼の魅魔血を飲み込んでしまう。

 喉の渇きが少し癒されたところで、イオリはようやく離れた。


「っは……!? な、なにを……っ!?」

「落ち着いた?」


 顔を真っ赤に染め上げて動転するソフィアだったが、イオリの表情を見た途端に、抗議する気は消え失せてしまった。


「いきなりこんなことして、ごめん。……殺してなんて言わせて、本当にごめん」


 それは、言いようのないほど強い、怒りの形相だった。

 ソフィアに対してではなく……イオリ自身に対する、ぶつけどころのない憤怒だった。


「それでも……僕にはこうすることしかできない。たとえ君に殺してとせがまれたとしても、僕の中にそんな選択肢はないんだよ」


 イオリは苛立ちに満ちた息をふうっと吐き出すと、ようやくソフィアから離れた。


「少し、お茶でもいれて話し合おうか。ちゃんと折り合いをつけないといけないから」


 *


 ティーポットから立ち上る湯気に混ざって、カモミールの甘やかな香りが漂っていた。


「昔、エミリアさんが言ってたんだ。特別な魔術を使わなくても、人を癒すすべは溢れてるんだよって。これもその一つだって言って、よく淹れてくれてた」


 同じことを言っていたのを、ソフィアはぼんやりとした頭で思い出す。

 幼い頃のソフィアが怖い夢を見て眠れないでいた時、母はいつもこうしてハーブティーを淹れてくれた。

 子供の舌にもなじむよう、ミルクをたっぷり混ぜたお手製のハーブティーは、その夜だけの特別な飲み物のようだった。


「幻聴が聞こえるって、さっき教えてくれたよね。それは多分、僕の血の抗体が効いているからだと思う。君を蝕んでいる病魔の因子が、君の回復を妨害しているんだと思う」


 イオリ曰く、ソフィアの肉体は今、病魔と奪い合いの状態になっているのだという。


「東洋では、人間は“(コン)”と“(ハク)”――精神と肉体によってできているとされている。人間は死を迎えると、魂は天に昇り、魄は地に還ると言われているんだけど、病魔はその魄を狙うんだ」


 つまり――病魔に狙われている今、ソフィアの心が死を選ぶことは、病魔に肉体を明け渡してしまうことを意味する。

 抗体が効き始めたことで、肉体を蝕んでいた病魔側も抵抗をはじめ、ソフィアの精神を害し始めているのだろう。

 ……というのが、イオリの考察だった。


「検査の結果を見るに、ソフィはお母さんに似て、強い魔力を持っているみたいだからね。病魔にとっても手放したくない、魅力的な肉体なんだと思う」


 ハーブティーをひと口啜りながら、イオリは言う。


「……言いたくないことは無理に言わなくていい。でも、苦しいと感じていることがあるなら、少しでいいから吐き出してみて」


 ソフィアは温かいハーブティーをゆっくりと口に含む。

 香りを感じながら、こくりと喉の奥を潤して……喉の奥からそっと湧き上がったものを、そのまま吐き出した。


「嫌、なのです。……これ以上、貴方の優しさに頼って、無理をさせてしまうのが。貴方が具合を悪くしたらどうしようって、考えてしまって」


 一度は腑に落ちたものの、ソフィアからしてみれば、イオリの優しさは異常だった。

 先日、噛みつかれて痛かったはずなのに、彼はソフィアを払いのけようとしなかった。

 恐怖することもなければ、怒ることもなく、防御する姿勢さえとらなかった。

 さらには、『治療のためだ』などと言って、謝り続けるソフィアを気遣った。

 ――ソフィアから自分を守ろうとしなかったのだ。


「イオリさんはこれからもずっと、吸血を受け入れてくれるつもりなのでしょう。私はそれに甘えるしかないから、これからもずっと、イオリさんを犠牲にし続ける。……それを考えると、苦しくて耐えられないのです」


 ソフィアはこれからも治療を続けていかなければならないし、イオリはそのために、これからも傷つくことを受け入れ続けるのだろう。

 怪我や痛みのことはもちろん、一歩間違えば、貧血どころか命が危険にさらされることだって起こりうる。

 そんな状況に彼を追いやらなければならないことが、ソフィアはなにより苦痛だった。


「……ごめん、ソフィ。僕は少し、勘違いしていた」


 ソフィアが心境を吐露し終えると、イオリは眉根に寄ったしわを指で押し潰しながら、話し始めた。


「君は、僕を傷つけることを怖がっているんだと思ってた。でも、それ以上に君が恐れていたのは、嫌がっていたのは」

「――貴方に我慢させること」


 イオリが静かに言葉を紡ぐのを待ってくれたおかげで、ソフィアもやっと、自分なりの言葉に落とし込めた。

 ソフィアは、イオリに吸血を受け入れさせることそのものを、傷つけること以上に(いと)っていた。


「『君は僕を襲っているんじゃなくて、ただ治療に必要だからやっている』――そう言っておけば、君の罪悪感も軽くできるだろうと考えたんだ。その台詞が、却って君を追い詰めたんだね」


 ソフィアは痛いのも怖いのも大嫌いだから、できるだけ避けようとする。

 けれどイオリは、痛みも恐怖も受け入れてしまう。

 ソフィアのことを優先し、自分を殺す――そんな滅私奉公的な性質だ。

 心のどこかでそれを見抜いていたからこそ、ソフィアは余計につらかったのだ。


「じゃあ、ソフィが必要以上に悲しまないように、あえて言うね」


 イオリは息をひと吸いし、意を決したようにソフィアの目を見据えた。


「正直言うと、僕──ソフィに吸血された時、()()()()()()()()()()

「……。……? ……はい?」


 それを耳にした瞬間、ソフィアの頬を伝っていた涙は、たちどころに乾いた。

 ごく真面目な顔で告げられた、あまりにも予想外な事実。

 それを前に呆けているソフィアに、イオリはもう一度、ダメ押しのように暴露する。


「あの、僕ね、注射とかわりと好きなタイプなんだよ。それに似た感じっていうか……。噛みつかれた時の『アッ』って感じとか、血を吸い出されてる感覚とか……けっこう好きだったり、する」

「…………。ええ、と。つまりそれは」


 吸血の痛みが好き、ということだろうか。

 目の前の彼に、そのような稀有(けう)な性質が、というより性癖が、あるというのか。

 ひとしきり驚いたソフィアは今、困惑していた。


「……うん。そりゃそんな反応にもなるよね、うん」


 目に見えて、イオリの表情から生気という生気が消えていく。

 まずい、何かフォローを入れなければ、とソフィアは急いで言葉を探した。


「あ、えと、苦痛でなかったのなら、よかったです……?」


 悲しいかな、中途半端に疑問形の語尾になってしまったのが悪かったのか、今度はイオリが泣きそうな顔をしていた。

 かろうじて口元だけが笑顔を保っているが、瞳は涙を孕んでいて切なげだ。


「ごめんなさい……そんなことまで言わせてしまって……」

「いや、いいんだ……ソフィの気持ちが少しでも楽になるなら、僕の威厳なんかどうなってもいいよ……っ」


 どうやらイオリは、性癖を自ら暴露したことで心に深手を負ったらしい。

 ソフィアのために身を切る覚悟で言ってくれたのだろう――自己犠牲もここまで来ると立派だ。


「……あの、では、イオリさん。もし、本当にお嫌でないなら……もう少しだけ、血を分けてほしいです」


 彼の心をこれ以上辱めないよう、ソフィアは丁重にお願いをする。

 本当に喉が渇いていたのもあったが、もしならばお詫びに、という意味合いもあった。

 イオリは意外そうにソフィアを凝視したあと、少しばかりシャツの胸元を開け、「……ン」と首筋を見せた。

 恥ずかしそうに口元を隠している彼の姿からは、羞恥と僅かばかりの期待が伺えた。


(……なに、これ)


 なぜこんな奇妙な状況で、自分はドキドキしているのだ。

 変にもほどがある。

 ソフィアは思い切って、首筋にカプッと噛みついた。


「ぐ……っ! ンンン……!」


 傷口から血を吸い上げると、イオリがなんとも悩ましい声を出す。 

 なんだか、先ほどの口移し以上に恥ずかしいことをしている気がしてくるが、もう引き返すことはできない。

 ひと口啜る程度の量を、時間をかけて吸い上げ、ゆっくり味わいながら飲み込む。


「止血、しますね」


 口を離したソフィアはすかさず治癒術を使い、噛み痕から流れ出た血を止めた。

 力が抜けて、くたっと気だるそうなイオリを見ていると、不思議と惹かれるものがあった。


(……私、本当に何を考えてるんだろう)


 自分は清純だと無意識に信じていたが、実はそこそこに不純だったのでは……と思い始めるソフィア。

 いやしかし、イオリの仕草や声が妙に妖艶で、心を揺さぶってくるから、というのも間違いなくある。

 この奇妙な胸の鼓動は、イオリがそうさせたのだ。

 ……そう思いたい。


「あの、ソフィ」

「! は、はい! どうかしましたか?」


 気だるげな表情のイオリを見て、具合を悪くしたのだろうかと不安になるソフィア。

 しかし、イオリは心配するソフィアから目を背けて、


「ごめん、今、本当にキモい顔してるから、そんなに見ないで……っ」


 と、口元を覆い隠す。

 どうやら、考え事をしているうちに、イオリを凝視してしまっていたらしい。

 恥じらっている様子の彼を見ていると、ふっ、となにかがソフィアの脳裏をかすめた。


(あれ、前にもこんなことがあったような……)


 よくよく記憶をまさぐって、ソフィアはあっ、と思い出した。

 そうだ――最初に彼に噛みついたとき。

 あの時も、彼はソフィアに見つめられて、慌てて顔を隠していた。

 体調不良を誤魔化そうとしている、とその時のソフィアは思ったのだが、実はそうではなく――


「まさか、イオリさん……あの時、()()()()()()()()()……!?」

「ぐっふ……! ……はい、そうです……ドン引きされるのが嫌で黙ってました……」


 痛いところを突かれたとばかりに呻くイオリ。

 間違いない――イオリはあの時、実は歓喜していて、それをソフィアに悟られないよう、必死に隠していたのだ。

 それに気づいた途端、ソフィアの中で、言いようのない感情がきゅうんと込み上げてきた。


「ひ、引いてません! 大丈夫ですよ!」

「ううう、本当にごめん……まさか、こんな形で裏目に出るとは……」

「いえっ、あの、むしろ謝らなきゃいけないのは私で……!」


 本当に、彼に申し訳ないことをさせてしまった。

 予想外の事実があったとはいえ、深刻に考えすぎていた。

 ソフィアが過敏になって落ちこみまくったせいで、イオリは言いたくなかったであろう性癖を暴露するはめになったのだ。


「ほ、本当にごめんなさい……! 今度からは、ちゃんと我慢しないで『欲しい』って言いますっ!」

「ぶっ!? ちょ、その言い方もどうなの……!? というか、ちょっと一旦離れよう!?」

「えっ? ……あああっ、すみません、すみません!」


 イオリに促されて、ソフィアは慌てて彼から離れる。

 吸血のときの体勢のまま、体がぴったりとくっついていたのを忘れていた。


「でも、私がうっかり飲みすぎたりして、イオリさんが貧血にならないか、やっぱり心配です……」

「んー、確かにそれは一理あるな……対策はいくつあってもいいし、追々考えようか」


 膨らんだ風船を上からぐっと抑えつけるように、しばし落ち着け、と二人は無言の時間を過ごした。

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