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裏2.彼の異変

「今……なんと言った?」

「ソフィアなら、死神軍医に買われていきましたわ。お父様ったら、多額の手切れ金を押しつけられて、みっともないほどビクビクしていましたのよ」


 ある日の午前、ヒースコール邸の客間にて。

 リリアーネは自身の婚約者に状況を説明しつつ、昨日の出来事を振り返った。

 屋敷のメイドたちがなにやら騒がしいから、様子を見に行ってみれば──なんと病院に運ばれていたはずのソフィアが、荷物を抱えて挙動不審に屋敷を動き回っているではないか。

 それを目にしたリリアーネは、滑稽ついでに少しだけ虐めてやるつもりだった。

 だというのに、まさか死神軍医に嘘を見抜かれて激怒されるなんて……まったく、とんだ災難だった。


「けれど、死神と称されるだけあると言いましょうか。魔物に穢された女を庇う変わり者も、世の中にはいらっしゃるそうで」


 あんなものを虐めて、なんの問題があるというのだ。

 あのケガレに、庇ってやるほどの価値があるというのか。

 リリアーネにしてみれば、甚だ不思議でならない。


「取り柄も何もないあのソフィアが、いつまで死神軍医の心を射止めていられるのかしらね。どんなふうにして媚びを売っているのやら……」


 リリアーネは忌々しい気持ちを紛らわすように、手をさすっていた。

 本当に、理解できない――どうしてカラスマ中佐という男は、ソフィアなどに惹かれているのだろう。

 リリアーネが泣いて訴えた時も、カラスマ中佐は欠片も同情してくれなかった。

 最初から、リリアーネの主張など聞き入れるつもりもなかったのだろう。

 そう考えると、リリアーネは無性に腹が立ってきた。

 目の前で顔を引きつらせている婚約者――アレックス・シュナイダー少尉に、彼女はしおらしく縋りつく。


「アレク様。私、死神軍医に脅されましたの。とても恐ろしい人でしたわ……噂に違わぬ冷酷さで、生きた心地がしませんでした」


 カラスマ中佐は、凜々しいアレックスとは系統の異なる、悪魔的美貌を持ち合わせていた。

 それだけに、睨まれたときはまさしく悪魔を前にしているような薄ら寒さだった。


「なんということだ……! 退院したと聞いたから、わざわざ謝罪に出向いたというのに、既にやつの魔手にかかっていたなんて」


 おのれ死神め……と奥歯をギリギリ噛みしめる少尉。

 ……期待したものとは少し違うアレックスの反応に、リリアーネは眉をひそめた。

 もう少し、自分の婚約者を慰めてくれてもいいのではないだろうか。

 軍人としては、悪辣な死神の手に落ちたソフィアの身も気になるのかもしれないが、リリアーネからしてみれば面白くない発言だ。


「こうしてはいられない、今すぐ彼女を探さなければ」


 シュナイダー少尉は続けてそう言うと――こともあろうに、死神に怯えている自分の婚約者を素っ気なく引き剥がした。

 まさか、婚約者を置き去りにして、ソフィアの捜索に向かうつもりなのだろうか。


「お待ちください、アレク様! せっかく我が家にいらしたのですから、お茶でも飲んでいってくださいませ」


 ようやく、長年憧れ続けた国の英雄にお目通りが叶ったのだ。

 婚約者であるリリアーネには、彼を独占する権利もあるはず。

 なのに、ここにいないソフィアごときに彼との時間を奪われるなんて、考えたくもないほど酷い屈辱だ。


「そうですわ、アレク様! 午後から我が家でお茶会を開きますの。ぜひともご学友に、許嫁として紹介させてくださいませ」


 なんとかアレックスの心を繋ぎ止めておきたいリリアーネだったが、しかし。


「冗談じゃない! お前のような粗末な女が許嫁だなんて、反吐が出る」


 精神的にも、そして物理的にも、彼はリリアーネの想いを突き放した。

 大切にすべき婚約者のリリアーネを、まるで寄ってきた虫を払うかのごとく。


「私は今日、彼女に会いにきたんだ。あの赤い目の麗しいご令嬢は、お前の親族か?」

「親族? とんでもありません。あれはとうに没落した、アッシュフィールド伯爵家の娘です。お父様のお情けで雇用されていた、単なる使用人ですわ」


 伯爵令嬢のはの字もないようなソフィアを麗しいだなんて、何を言い出すのだ。

 リリアーネは自分の耳を疑いつつも言い返したが、残念ながら彼女の耳は正常だった。


「伯爵令嬢……道理で。没落しても、やはり高貴な身分の令嬢は違うものだ。実に美しい」

「は!? あれが美しいですって!?」


 思いもよらない発言に、今度は彼の正気を疑うリリアーネ。


「冗談でしょう、アレク様。あの地味でまともに喋れもしない弱虫のどこがいいと仰るの?」

「少なくとも、お前のようなうるさい子供よりはずっとマシだ」

「な……」


 子供、とバッサリ切り捨てられ、リリアーネは呆然とする。

 今まで周囲をして『社交的で愛嬌がある』『陽気で愛らしい』と評されてきた自分が、ここに来て『お子様』との酷評を受けたのだ。

 リリアーネは衝撃を受けると同時に、婚約者の見る目のなさに呆れた。


「……っアレク様だって、常識外れですわ! 婚約者との顔合わせに来ておきながら、真っ先にソフィアのほうへ声をかけに行くんだもの!」

「それはしかたがないだろう。私だって、こんな小娘が婚約者だとは思わなかったのだ。ヒースコール男爵の後ろにいた彼女こそが、リリアーネ・ヒースコールだと思っていただけだ」


 ありえない。ありえない。ありえない。

 自分よりもソフィアのほうが高く評価されていたなんて。

 しかも、その評価を下したのが、よりにもよって憧れの婚約者なのだ。

 度を超えた屈辱に震えるリリアーネに、さらなる追い打ちがかかる。


「お前のような女の血を入れたら、シュナイダー家の栄華に影を落とす。此度(こたび)の婚約は解消だ」

「はああ!?」


 あまりに話が飛躍したものだから、リリアーネは思わず声を裏返して叫んだ。


「貴方一人のわがままで、勝手に婚約を解消できると思っていまして!?」

「ああ、父上もソフィア嬢を見れば納得するだろう。あの美貌と気品ある立ち振る舞い――お前のような女を傍に置くよりも十倍はマシと考えるはずだ」

「貴方、自分がどれだけめちゃくちゃなことを仰っているか、おわかりですか!? そもそも、あの臆病なソフィアが貴方に振り向くと、本気でお思いなの?」


 たとえどれだけ周囲が納得したところで、ソフィア本人の承諾を得られるはずがない。

 発作を止め、救助してくれたカラスマ中佐ならばともかく、斬りつけようとしたアレックスに心を開くなど、天地がひっくり返ってもあり得ない話だ。

 しかし、アレックスはなぜか自信満々だった。


「確かに私は先日、魔物と間違えて彼女に斬りかかってしまった。だからこそ、誠心誠意の謝罪をしに出向いたのだ。聡明な彼女ならば、許して受け入れてくれるだろう。お前のような子供と違ってな」


 至極真面目な顔で言い切る彼に、リリアーネは開いた口が塞がらなかった。

 二の句を継げないリリアーネを見て何かを勘違いしたのか、アレックスはさらに得意満面に話を続ける。


「彼女はあの男がどれだけ悪逆か知らない。上っ面だけの甘い言葉に惑わされているだけだ。英雄たる私を見下し、楽しげに侮辱してくるような男だぞ。彼女もきっと自身の快楽の生贄にするつもりだ。必ず私が助け出さなければならない」


 リリアーネにとっては、死神軍医の悪逆ぶりなど、この際どうでもいい。

 ただ、この男のおかしさだけが、信じられなかった。

 もはや屈辱の域を通り越してしまった、と言ってもいい。


(そんな……私のアレク様は、どうしてしまったの? 国の英雄が、婚約者たる私を除け者にするなんて……まるで)


 ――まるで、悪しき魔女の呪いにかかってしまったかのようだ。


(……そうだ。あの女のせいだ。あの女、死神だけでは飽き足らずに、私のアレク様も奪うつもりなのね!)


 家を抜け出せると分かった途端に意趣返しなんて、生意気なことを、とリリアーネは憤る。

 こともあろうに、ソフィアはあの魔物のごとき妖しい目で、死神軍医どころか国の英雄まで惑わしてしまったのだ。


「時間の無駄だ、私はソフィア嬢を助けに行く! シュナイダー家の名誉に賭けてでもな!」


 言うが早いか、アレックスはリリアーネを置き去りにして、客間を後にする。

 うかうかしてはいられない、とリリアーネは声を張り上げた。


「スピラー、いらっしゃい! あの女を懲らしめに行きますわよ。……? スピラー?」


 おかしい、いつもなら必ずやってくるはずのスピラーが、どんなに待っても来ない。

 不審に思っているうちに、そういえば、とリリアーネは気づく。

 昨日、死神軍医が去ってから、スピラーの鳴き声を一度も聞いていないことに――ようやく気づく。


「……嘘、嘘でしょ!? スピラー! どこへいったの? スピラーったら! 隠れていないで出てきなさいっ!」


 リリアーネは屋敷のメイドも巻き込みながら捜索したが、スピラーが姿を現すことは、ついぞなかった。

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