5.求愛の吸血
ソフィアがイオリの家に身を寄せることになったのは、彼の上官の提案だったらしい。
イオリは当初、軍が管理する女性宿舎を手配しようとしていたそうだが、折の悪いことに空きがなかったのだそうだ。
「本当に申し訳ない……三十路手前の男と共同生活なんて嫌かもしれないけど、女性宿舎が空くまで辛抱してね」
と、彼には丁重に謝られたが、屋根裏部屋に追いやられていたソフィアにとっては、きちんとした寝室に住まわせてもらえるだけでもありがたい話だ。
……とはいえ、男と女がひとつ屋根の下で暮らしていて、なにも起きないわけがなく。
「きゃああぁぁ~っ!? ああああ、ごっごごめんなさいぃぃぃ……!」
「ごめん、ソフィ! 一人暮らしの癖でつい……!」
同居初日の夜、さっそくトラブルが起きた――ソフィアは、風呂上がりで上裸になっていたイオリの背中と、見事にご対面となってしまった。
男性の裸体など見慣れていないソフィアは、悲鳴をあげながら、そばにいたスピラーで顔を覆い隠した。
「おーおー、全裸じゃなくてよかったなあ。けらけらけ!」
「本当にごめん! 服着たからもう大丈夫だよ~」
おそるおそるスピラーの毛並みから顔を上げると、ソフィアの視界に薄いシャツをまとったイオリの姿が映る。
風呂上がりで暑いのか、いつもより大きく胸元をくつろげている姿は、それだけでとんでもない破壊力があった。
「イオリさん……その背中のタトゥーは、魔術式ですか?」
変なところに行ってしまう意識をどうにか紛らわせようと、シャツから透けて見えるタトゥーの模様を注視する。
彼の肩から腕、そして背中には、王国ではあまり見かけない、独特な文様と文字が隙間なく刻まれていた。
「ああ、これ? そうそう、いちいち詠唱するのも面倒だから、基本的な術式は体に直接刻んでるんだ。僕の一族の風習でもあるけど」
そういえば、イオリは東洋の国にルーツがあったのだった。
魔術師が詠唱を簡略化、省略化するために、術式を記しておいた杖や魔術書を使うことは多い。
術式を直接体に刻んでおくのは、特に呪術師の一族によく見られる手法だ。
「こんなにびっしり入れ墨がある人間と鉢合わせたら、そりゃ吃驚するよね……」
「いえ……」
タトゥーもそうだが、ソフィアが何より驚いたのは、彼の体つきである。
軍医と言えど、時には戦いにも赴く立場だからか――イオリの体つきは思った以上に引き締まっていた。
雄牛のような逞しさとはまた違う、必要な筋肉が過不足なくついた体は、それだけで魅力的だ。
(って、何を考えているの、私は! イオリさんが目の前にいるのに……)
なんてはしたない、とソフィアは自身の煩悩を戒めるが、それでもイオリから完全に目をそらすことはできなかった。
昼間は魔石の簪でまとめられていた黒髪が、今はしっとり濡れた状態で下ろされていて。
白い肌は少しばかり赤っぽく、汗ばんでいて。
なにより――皮膚から香るあの甘美な匂いが、ソフィアの鼻をくすぐった。
(あ……喉が、渇いて……)
――吸血衝動だ、と頭では分かった。
けれど、いけない、という警鐘のような焦りと不安は、なぜか起きなかった。
酩酊状態とでもいうべきか――甘美な香りに引き寄せられ、頭の芯までぽやっとさせられるこの感覚が、とてもとても気持ちいいのだ。
(血が、飲みたい)
あの甘くてほろ苦い、美味な血が欲しい。
ああ、でも、彼に怪我はさせたくない。
血を分けてと言えば、きっと彼は快く与えてくれるだろうけど。
……いや、やっぱりだめだ、彼の良心に甘えるような真似はしたくない。
けれど、喉が渇く。
喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く。喉が渇く――。
「……ソフィ? どうしたの?」
シャツの間から露出した、ちらりとタトゥーが覗く首筋。
そこに噛みつけば、血が飲める。
この世のものとは思えないほど美味しいあの血が、また味わえる。
ソフィアはふらふらと覚束ない足取りで、イオリに引き寄せられていった。
「ソフィ、だいじょ……ンッ……!?」
グラグラする体をイオリに抱きとめられたのと同時に、ソフィアは彼の首筋にガプリと噛みついていた。
尖った犬歯で、筋肉を覆う薄い皮膚を突き破り、こぼれ出た血を啜る。
すると、あの甘美な香りが口いっぱいに広がって、ソフィアは天にも昇るような幸せな気分になった。
「ソ、フィ……ンン……ッ!」
幸福感に浸ったのもつかの間、呻くイオリに背中を軽く叩かれたところで、ソフィアは我に返った。
「!? わ、私、今、何を……」
「おー、なんだかえらいモンを見ちまったなぁ」
ソフィアはヌイの言葉にハッと青ざめ、口を覆い隠す。
そして、イオリの首筋と顔を、何度も見比べる。
首筋に残った、ソフィアの歯列とぴったり一致する噛み跡――そして、彼のくたっと力が抜けた表情。
それまで有頂天だった気分は、ひゅうっと地獄の底まで急落した。
「ご、ごめんなさいっ! 私、貴方に噛みついて、血を……!」
「落ち着いて、ソフィ。驚いただけで、怒ってないから」
「すぐに止血します!」
ソフィアは母に少しだけ教わった魔術を必死に思い出しながら、痛々しい噛み跡に魔力をそっと当てる。
魔術を使っているソフィアの姿を、イオリは少し意外な様子で見ていた。
「君、治癒術も使えたの?」
「そんなに立派なものではありません。本当に、ただ血を止める程度です」
ソフィアの魔力は、植物などの生体反応を促進させる性質を持つ――いわゆる『木属性』に分類される。
この魔力を利用し、破れた血管を再生させ、元通りに繋ぎ合わせる――専門家のイオリのように、完全に傷を治すことはできないが、止血くらいならソフィアでも可能だ。
「本当に、ごめんなさい……自分でも、何が起こったか、分から、なくて……っ」
「大丈夫だよ。もし本当に僕が危なければ、ヌイが止めに入ったはずだから」
「ヌイくん、が……?」
ソフィアはヌイが立っている後方へ振り返る。
ヌイは足元をうろちょろしているスピラーを抱えながら言った。
「オレはイオリから魅魔血をもらう代わりに、イオリを守る義務があるんでな。でも、今のお前の吸血衝動は、そいつの生命活動を脅かすものじゃなかった」
「そうそう。多分、僕の血を飲めば落ち着くって分かってたから、無意識に求めたんじゃないかな」
「んにゃ、そいつは違うと思うぜ」
ヌイはここで、とんでもない爆弾を投下した。
「どっちかっつーとアレだ、吸血種の求愛行動に近いもんだと思う」
「……え?」
「ちょっと待って、ヌイ。それはどういう――」
「さぁな、お察しくださいってやつだ」
ヌイは「じゃあな」とだけ言い残して、スピラーごとイオリの影の中に潜ってしまった。
呆けた様子のイオリと、居たたまれない心持ちのソフィアが、そっと顔を見合わせる。
「…………えっと」
「あ、あああ、ああの、あの……!」
どうしよう、何をどう説明すればいいのだろう。
平時とは違うイオリの姿を見て、なんとなくドキドキしていたことは分かる――その先が、よく分からない。
魅魔血の香りを感じた途端に喉が渇いて、引きずり込まれるように酔わされて、いつの間にか噛みついていた。
本当に、ただそれだけとしか言いようがなかった。
「いや、本当に気にしないで。あいつ、人を引っ掻き回すのが大好きだからさ。わざとソフィの動揺を誘うようなことを言ってるだけだと思うよ」
「……っ、そう、ですよね。ヌイくんのことですから、私もそうだと思ってました」
ソフィアは笑って誤魔化すが、内心では恐怖すらしていた――あえて自覚しないようにしてきた気持ちを、一気に暴かれたような気がして。
「とにかく、気に病まないでね。抗体を持っている僕に噛みついたのは正解だよ。治療のために必要な行為だったと思えばいい」
「でも……血を吸われたんですよ。イオリさん、本当に大丈夫ですか?」
具合を悪くしていないかとソフィアが確認しようとすると、イオリは慌てて顔を背けながら「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。
……それを見て、ソフィアが大丈夫だと思えるわけがない。
イオリは、ソフィアを悲しませないために、具合が悪いのを隠そうとしている。
ソフィアの目には、そう見えた。
(……いけない――また、欲しくなってくる)
顔を少し近付けるだけで、また魅魔血の甘い香りが漂ってくる。
危機を感じたソフィアは、イオリからさっと離れた。
「それにしても、術式なしの治癒術まで会得済みとは恐ろしいな……いっそ、ソフィも医療部隊で働いてみない?」
「え!?」
これはもしや、スカウトというやつだろうか。
しかも、相手はまさかの医療部隊副長――王国軍の軍医たちも認める、正真正銘の天才だ。
ソフィアの中で、まさしく青天の霹靂に打たれたような衝撃が走った。
「で、でも、あれって魔法学校を卒業していないと、入隊試験すら受けられないんでしょう?」
「いや、最近は制度が変わって、職員の推薦でも試験を受けられるようになったんだよ。こんな才能、眠らせておくには勿体なさすぎる!」
「えええっ?」
「医療部隊は特殊だから、人材が見つからなくて本当に困ってるんだよ! 副長の僕の推薦なら確実に通るし、必要な知識も僕が教えてあげるから!」
イオリは必死の形相で、身を乗り出しながら拝み倒してくる。
切実なのだろう――まして、現場を仕切る立場ともなれば、人手不足はもろに直面する問題に違いない。
(……でも、医療部隊って、お母さんが昔働いていた場所なのよね……)
もしかして、これは渡りに舟な話かもしれない。
強みを生かせるうえに、憧れの母が働いていた職場だというのなら、ぜひ詳しく話を聞くべきではないか。
ソフィアは怖気づきそうになる気持ちを押しのけて、えいっと頷いた。
「わっ、わかりました。……イオリさんがそう言ってくださるのであれば、やってみます……」
「……! ありがとう! じゃあ、まずは職場見学できるように手筈を整えておくね!」
落ちこぼれだと思っていた自分が、王国軍の見学のお誘いを受けることになろうとは。
人生、何があるか本当に分からないものだ、とソフィアはしみじみしていた。
【茶柱のつぶやき】
男兄弟いる方なら共感していただけると思うんですけど、家族がいようとお構いなく半裸で出てくるよね、男の人って。
身内含め、今まで男性にまともに接してこなかったソフィアは、半裸なんて見たらひっくり返るんだろなと思って書きました。




