1.ある少女の身の上
ソフィアは真っ赤なジューンベリーをひと粒噛んで、きゅっと口をすぼめた。
「……ダメだわ。これも渋いまま……」
窮屈な屋根裏部屋を照らす、たった一本の蝋燭の火が、彼女の嘆息に合わせて揺らめいた。
机代わりの古い木箱の上に広げているのは、数粒の未熟なジューンベリーと、魔法陣を記した紙切れ、ページのふちがうっすら黄ばんだ古い手帳。
ソフィアは手帳を手に取り、『未熟な果実を甘くする魔法』と手書きで綴られたページを何度も読み返す。
(手順も魔術式も合っているはずなのに……どうしてなにも変化しないんだろう?)
未熟なジューンベリーは、昼間に『おこぼれ』という名目で押しつけられたものだ。
赤黒く実った美味しいものは、屋敷の主人や他の使用人たちにすべて取られてしまった。
ならばいっそ、これを使って魔法の練習をしてみよう、とソフィアは前向きに挑戦してみたのだが、結果は悲惨だった。
何度やっても、何をどうしても、ベリーは一向に熟さない。
くたっと脱力したソフィアは、眼鏡を外して一旦休憩に入った。
(やっぱり……私にはもう、魔法の素養がないのね……)
果実の成熟を促す魔法は、五歳の子供でも成功させられる、木属性の初歩的な魔法だ。
しかし、ソフィアはこの春に十八歳になったというのに、何度やっても成功させられなかった。
(小さい頃は、この魔法も使えていたはずなのだけど……)
やはり、この身に巣食った病魔のせいなのだろうか。
最愛の母を亡くし、病を抱えることになったあの日から――ソフィアの人生は、なにもかもおかしくなってしまった。
東西南北から様々な民族と魔法技術が集まる、ファナステラ王国。
ソフィアは王国の公的機関“ファナステラ王国軍”に代々仕える名家・アッシュフィールド伯爵家の一人娘として生まれた。
されど、彼女が貴族の令嬢でいられたのは僅かな期間だった。
父が政争に巻き込まれて落命したのを受け、王国軍の軍医だった母は、当時五歳だったソフィアを連れて、この地に移り住んだ。
よって、ソフィアは人生の大半を貧しい平民として歩んでいたが、不満を感じたことは一切なかった。
愛情深い母と暮らす毎日は幸せに満ちていたし、畑仕事も家事も苦痛に感じたことはない。
けれど、今から六年前――母は村に現れた魔物に襲われ、亡くなった。
ソフィアはかろうじて一命を取り留めたものの、病を抱えながら生きることになったのだ。
――“魔蝕症”。
魔物の中でも最上級に危険とされる“病魔”がもたらす、不治の病。
病魔の持つ“因子”と呼ばれる病原体が体内に入り、人間を魔物へと変えていく、恐ろしくおぞましい病気。
症状は、月明かりで魔獣に変身する、全身に鱗が生える、目で見たものを石に変えてしまう等々、人によって様々だ。
(……喉が渇いた)
ソフィアはそばに置いておいた水差しの水をがぶがぶと飲み、喉の渇きを癒そうとする――必死に、渇きを抑え込もうとする。
それでも喉の渇きがなかなか癒えないのが分かると、ソフィアはベッド代わりの木箱にしまっていた小瓶を手に取った。
――魔蝕症の症状を抑える錠剤だ。
無駄遣いはしたくないけれど、仕方がないので一錠だけ服用し、ようやく渇きが治まった。
(……いけない。夜が明けてしまった)
長いこと集中しすぎて、外が明るくなってきた。
栗色の髪の毛の隙間から差し込む朝日が目に痛くて、ソフィアはきゅっと目を細めた。
光を和らげる魔術を施した眼鏡をもう一度かけ直しつつ、身支度を始める。
薄汚れたお仕着せに着替え、髪を三つ編みにまとめ、手袋をはめる。
(……薬はあと七回分。さすがに、今日はちゃんと旦那様に聞かないとね)
*
ソフィアが奉公するこのヒースコール男爵家の一日は、優雅な朝食と共に始まる。
……されど、今日は穏やかな一日の始まりとはいかなかった。
「フシャアアッ!」
「い……っ!」
突然、テーブルの下から飛び出した使い魔の白猫が、トレーを持っていたソフィアに飛びかかった。
不意にぶつかられた弾みで、トレーに乗っていたティーカップは落下し、ガシャン! とけたたましい音を立てて割れた。
「まあ、スピラーったら。“ケガレ”に近づかれてびっくりしたのね。よしよし」
着地した猫のスピラーを抱きあげたのは、この家の令嬢であるリリアーネだ。
魔法学校の制服をまとった彼女は、自身の使い魔・スピラーを膝に乗せて撫でている。
「落ち着きなさい。ほら、貴方の好きなカボチャのケーキよ。……で? お前は何をしようとしたの?」
「頼まれていたお茶を、お持ちしようとして……」
「頼まれていた? 馬鹿なことを言わないで、ケガレが淹れたお茶なんか飲めるわけないでしょう?」
不快そうに睨んでくるリリアーネに対し、ソフィアは一切反論せず、
「……申し訳ありません」
と頭を下げた。
実際はリリアーネ自身が事前に「食後のお茶はソフィアの淹れたハーブティがいいわ」と言ってきたのだが、命令どおりに淹れたらこの結果だった。
「まったく軽はずみなことを……お前の病がリリーにうつってしまったらどうするのよ!」
「申し訳ございません、奥様」
ヒースコール男爵夫人も、愛娘を庇うようにソフィアを罵った。
もはや型どおりの挨拶をするように謝りつつ、
(うつるなんて迷信なのに……)
とソフィアは嘆いた。
『魔蝕症が人から人へ伝染することはない』――これは、王国軍の権威ある軍医たちによって証明された、紛れもない事実だ。
けれど、古くから続いた差別意識は、そう簡単には覆らない。
この地域を含む王都郊外では、
『魔蝕症患者が使ったものに触れると、病気がうつる』
『魔蝕症患者が作った料理を食べると、病気がうつる』
といった偏見が根強く残っていた。
(……仕方ない。普通の人たちにとって、私たちは“予備軍”なのだ。予備軍だろうと、魔物は怖いもの)
ソフィアは泣きそうになるのをグッとこらえて、自分に言い聞かせる。
「あーあ、これから学校に行かなきゃいけないのに。お前のせいで朝から気分が台無しよ」
「申し訳ありません」
「謝罪はもういいわ。お前はさっさと片付けて去りなさい」
ソフィアはティーカップの残骸を手早く拾い集め、雑巾でお茶を綺麗に拭き取ると、夫人の命令どおりにその場を立ち去った。
去り際にリリアーネが意地悪そうに微笑んでいるのが見えたが、知らん顔をする。
本当はソフィアにも予想はついていた――リリアーネにお茶を出したところで、結局こうなるだろうと分かっていたのだ。
けれど、ソフィアにはいかなる抵抗も許されない。
彼女は魔蝕症でありながら、このヒースコール男爵家に匿われていて、さらに薬も支給してもらっている――非常に幸運な身なのだから。
【茶柱のつぶやき】
『小説家になろう』では初めての投稿になります。
ついでに、普段は和風ファンタジーばかりの人間なので、西洋ファンタジーを書くのもこれが初めてになります。
多くの読者様が慣れ親しんできた「西洋モノ」「異世界ファンタジー」とは雰囲気やテイストがやや異なるかもしれませんが、それも含めて楽しんでいただければ幸いです(*´꒳`*)