(65)
真に迫る絶望に圧倒され一座が静まる。
嫌な空気が座敷を包む。そこに百々目が咳払いを挟んだ。
「……西宮司の件は、私からお話しましょう。彼は正真正銘の投身自殺です。その原因となったのが、田中友吉氏と川上とし子氏の葬儀に闖入した、大曽根博士による見立てです」
そう言って、彼は苦い顔をした。
「彼の見立ての犯人像を聞いた犯人本人の形相を見て、西宮司は事件の真相を察したのでしょう。真面目な彼はその原因を、自分が土御門氏に十三塚の秘密を洩らてしまった事にあると考えたのかと思います……村の外へ秘密を洩らしたために、十三塚の祟りが起こったと」
「余計な事を」
聡が吐き捨てる。
「確かに、あなたがたにとっては余計でした。東馬雄二氏の事件と重ねて起こったこの一件により、村人たちは十三塚の祟りは終わっていないと、再び恐慌に陥ったのですから。ここからは、あなたがたの思惑を離れ、事件が一人歩きする形となりました」
百々目はそこで深く一息吐き、
「そして、太輔君の事件へと繋がります」
と続ける。すると、馨子が頭を掻きむしった。
「もうやめて! お願いだからああ!」
そう叫んで畳に突っ伏す。あらゆる呪詛を込めた嘆きを漏らした後、
「もう嫌……もう嫌……」
と、慟哭しながら畳に爪を立てる。
その様子に憐れむような視線を向けてから、百々目が言った。
「その後の事は、川上惣八氏と田中勝太郎君の証言により、明らかになっています。……これで、事件の詳細の説明を終わります。皆様には、これから前橋の県警本部に移動していただき、そこで詳しい事情聴取を……」
そこで突如、百々目の言葉を切るように、馨子が苦しみだしたのである。低く呻きながら、胸の辺りを押さえて悶絶する。
「薬……薬を……」
と、息も絶え絶えに絞り出す声に反応したのは、気丈にも最後まで臨席していた千代だった。
「若奥様! ただ今持ってまいります」
と、座敷を飛び出し廊下に消える。
百々目が介抱に駆け寄るが、彼女はそれを断り畳に身を横たえた。ハアハアと苦しげな息遣いをする彼女を、だが聡は見向きもしない。不快な音を立てて貧乏ゆすりをするだけだ。
間もなく足音が戻ってきた。座敷に飛び込んだ千代が馨子に駆け寄る。
「このお薬で宜しいですね?」
青い薬瓶に入ったそれの蓋を外し口元に当てると、馨子は身を起こし、一息に飲み干す。
――そして、血を噴き出した。
「嫌ああああ!!」
吐血を真正面から浴びた千代が絶叫する。すると、馨子は彼女の手を掴み、いかにも楽しげに、声を上げて笑ったのである。
「綺麗な手のまま、この家を継がせねえよ!」
◇
――半馨子。
生家は、群馬県内の貧しい農家と聞く。きょうだいが多く、女児が口減らしに奉公に出されるのは、この当時はよくある事だった。
彼女の奉公先は、製糸工場。女工として住み込みで働く事となる。
それでも彼女は満足だった。実家でも蚕を飼っており、繭の扱いには慣れていたし、何よりも三度の飯を食べられるのが幸せだった。
こうして彼女は、女工として平穏に生きる――はずだった。
ある時声を掛けられた相手が、この製糸会社の社長の次男坊と知ってから、彼女の運命の糸車は狂い始めた。
五歳年上の彼は、学のない彼女から見たらとても聡明な人物に見えた。時折こっそりと、工場敷地内にある屋敷の彼に宛てがわれた部屋に招かれ、そこでレコードを聴くのだ。
ショパンにバッハにベートーヴェン……。聴いた事のない華麗な音楽は、若い彼女を魅了した。
そして、彼女は恋に落ちた。
――そんなある日。
「俺と結婚してくれ」
そっと左手を取られ、薬指に煌びやかな宝石に彩られた指輪を通される。
夢見心地だった。彼女の人生で、最も幸せな瞬間だった。
……ところが、それから間もなくの事。
彼に呼び出された彼女は、信じられない言葉を聞かされる。
「別の女と結婚しろと、父に言われた」
「えっ……」
「父は、東京へ支社を出そうと考えている。そこを俺に任せたいらしいが、それには社交界に繋がりを持つ家柄の女を娶らねばならないんだ」
「そんな……!」
彼女は彼にしがみ付く。
「あなたと別れなくない! 愛人でもいい、だから――」
すると、彼はこう答えた。
「兄貴の嫁にならないか? それなら、俺と離れ離れにならないで済む」
時は、明治三十九年。
彼――半聡が、大熊清悦を葬ってから間もなくである。
◇
半馨子は、血塗れの顔で狂ったように笑い続ける。
「医者を! いや、それでは間に合わない。老仏温泉に運ぶ。車を用意しろ!」
異変に集まった警官たちに百々目が指示を出す。慌ただしく立ち去る警官たちを見送り、百々目は馨子の傍に駆け寄った。
「この薬をどこで?」
すると傍らに座り込む千代が、乾涸びた声を漏らした。
「わ、若奥様が……近頃、動悸がするから……何かあったら持ってくるようにと……」
畳に転がる青い薬瓶をハンカチで挟んで拾い上げる。軽く匂いを嗅いだだけで、それが何であるか判別できるほどの濃度のものだった。
「――この結末を演じるために、ヒ素を用意していたというのか……!」
百々目は唇を噛む。到底助からないと察したのだ。
馨子の笑い声が徐々に弱々しくなり、畳にぐったりと身を預けた。そして、頭を転がすように視線を移す。
――半聡は、そんな彼女を無表情に見ていた。
「覚えてる……この着物……」
血に汚れた手で、馨子は袖を引っ張って見せる。
「付き合いだしてすぐに……買ってくれた……私の……宝物……」
聡は答えない。馨子は微笑んだ。
「一足先に……地獄で……待ってるよ……。――今度こそ、幸せにしてちょう……だい」
袖を引く手がバタリと畳に落ちる。目が焦点を失い、瞼が静かに閉ざされた。