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その会談の後。
一旦帰宅した川上琢敬は、家人が寝静まるのを待ってから屋敷を抜け出した。人目に付かぬよう川沿いを進み、片口川を渡った下沼家を訪れる。
この際、最も危惧すべきは熊造の存在であった。もし彼が在宅であれば、そのまま帰るつもりだった。だが不運にも、熊造は夜狩りに出ており不在だった。琢敬は意を決するしかなくなった。
「相談がある」と、おぬいを呼び出すのは簡単だった。つい先程の通夜の出来事があったためだ。
おぬいにしても、本当に六ツ塚を建てるべきなどと思ってはいなかった。きよめとして生まれ、村じゅうに蔑まれて暮らしてきた上、理不尽に娘を奪われた。その結果、非常に天邪鬼な性質が、彼女の中に育まれてしまった。憎むべきこの村に一矢報いてやりたいという気持ちと共に、彼女を黙らせるために金銭を包みはしないかと、そんな風に考えていたのだろう。でなければ、無防備にもついて来る事はなかったに違いない。
竹藪の奥。決して誰も近寄らないその場所へおぬいを誘い出した琢敬は、彼女の顔に巻き付けてある包帯代わりの赤い布で、彼女を絞め殺した。長い間病に臥せり、家から滅多に出ない生活を続けてきたおぬいを絶命させるのは、赤子の手を捻るに等しかった。
そして、無残な亡骸を片口川に投げ捨てた。
――翌日、遺体が発見されると、田中常勝は非常なプレッシャーを負う事となった。「本当にやりやがった……!」と。
聡との会談を、冗談で流せるのならそうしたいと彼は考えていた。だが、これで引くに引けなくなったのだ。
清嗣の葬儀中も、聡の視線を常に感じていた――モタモタしていては、家族にその狂気が及びかねない。
とはいえ、簡単に決断のできるものではなかった。
彼は現役時代、軍曹の立場にあった。後方から兵卒たちに指示を出す役である。そのため、威勢だけはいいのだが、直接手を下した事は数えるほどしかなかったのだ。
訓練は受けている。剣道の心得もある。やるとなればその任務をこなせるだけの自信はあったが、行動に移すまでの覚悟ができないでいた。
……そのうち、二日が過ぎた。
そこで、熊造が騒動を起こす。おぬいの葬儀である。
その日の午後。
田中家を川上琢敬が訪ねたのである。
「ひとつ、相談なのだが……」
と、彼は常勝に耳打ちする。
「滋さんを亡き者にするのだけは、どうしても納得できないのだ」
滋の乳母である信乃は川上家の縁者である。そのため滋は、川上家が半家と関わる上で非常に大きな存在なのだ。
「田中家が聡さん寄りであるのは重々承知している。だが、川上家の立場も考えてもらえないだろうか。この通りだ」
と、気位の高い琢敬が頭を下げるから、常勝は受け入れるしかなかった。
「なら、六人目はどうする?」
「熊造でいいだろう」
昼間の騒動で、村人たちの彼への忌避感は強まっていた。疑惑の矛先を彼へと向けるのは容易であった。
「川上家からは、奴を下手人と思わせられる者を選ぶ」
……それは、川上とし子だった。
気の優しい彼女が、きよめである下沼家を気に掛け食べ物を恵んでいたのは、村人たちの知るところであった。そのため、気性の荒い熊造も、とし子にだけは決して逆らわない。それを女工たちに「横恋慕」と勘違いされているのも、川上琢敬は知っていた。
――その日の夜。
家人が寝静まるのを待ち、琢敬は再び動いた。
警官が詰める役場を避ける必要があるため、昼間申し合わせておいたように、田中家の敷地を通って川上とし子の住まいに向かう。
そして「大事な話がある」と、彼女を桑畑へと呼び出した。一族の長である彼の言う事に、彼女は逆らえない。
そこで彼女は身を穢された上、手拭いで首を絞められて殺害された。
一方その頃、田中常勝も動いていた。
昼間の琢敬との会談で、田中友吉は深酒をした深夜、吊り橋の下で寝ている事がよくあると聞いていたのだ。川上家は片口川のほとりにある。吊り橋の辺りが敷地から見渡せるため、それを知っていたのだ。
常勝もまた川上家の敷地を通って片口川に向かう。そして、草むらに身を潜め、吊り橋の下に友吉が現れるのを待った。
――果たしてその晩も、友吉はやって来た。
彼を殺そうとする場合、常人であれば、寝入るのを待って犯行に及べば良いと考えるだろう。ところが常勝には、軍人としての誇りがあった。闇討ちのような所業は潔くないと考えた彼は、彼の前に姿を現した。
その手にした鉈を見て、友吉は驚き逃げ出そうとした。その後頭部に一撃を振り下ろせば、酔った彼はひとたまりもなかった。
◇
「同じ晩に離れた場所で、どうやって犯行を行ったのかが疑問でした。しかし、川上村長と田中常勝さん、あなたがたが共犯と考えれば、役場に詰める警官たちに気付かれずに犯行を行う事が可能だったのです」
保憲がそう言うと、溜まりかねたように、聡が苛立った声を上げた。
「おまえたちが勝手な真似をするから……!」
いきり立つように膝を立て、首を垂れる二人を睨み回す。
「特におまえだ! 軍人としての誇り? フン、子供を殴り殺すとは大した誇りだな。あれのせいで、俺の計画は無茶苦茶になったんだ!」
常勝は真っ赤な顔に冷汗を浮かべ、畳に汗染みを落としている。
「……まだ言うの?」
そこへ馨子が口を挟んだ。
「まだ分からないの? こいつが失敗しなくたって、いつかは熊造は死んでいたんだし、太輔も……」
と、彼女は唇を噛み声を詰まらせる。
「――十三塚の祟りを呼び起こしたのは、あんたなのよ!」
鬼女の形相で聡を睨む馨子は、だが次の瞬間にはガクリを腰を落とした。
「その結果、呪われたのは、私らだったのよ」