(3)
いすゞの言葉に、えも言われぬ空気を感じ取り、土御門保憲は思わずゾクッと首を竦めた。
「それはどういう訳なのかね?」
「昔から、あの村に行くと帰って来られないみたいな、変な噂があるんですって」
「何か根拠となる出来事でもあったのかね?」
「さあ。詳しくは教えてくれなかったんですけどね。その運転手さん、とにかく昔からそういう村だから関わるのはやめておけと」
「で、どうしたのかね?」
「勿論、ちょっと心付けを包んで行ってもらいましたよ」
何でも金で解決する。蘆屋いすゞという記者の強みである。
「でも、行ってみたら何て事はないただの山村でしたよ。江戸時代からまるで文明が進んでない感じの。現に、私もこうやって戻って来られてる訳だし」
「それで、村で何を調べてきたのかね?」
◇
――蘆屋いすゞが十三塚村を訪れたのは、三月のはじめ。まだ雪の残る時期だった。
この冬は比較的雪が少なく、人通りの少ない山道でも自動車が通れないほどではなかった。だがハイヤーは村の手前で停車し、運転手はいすゞを振り返った。
「村の入口にある橋は、自動車が通れないんですよ、木造ですのでね」
そこでハイヤーを降り、待つよう運転手に心付けを渡してから、彼女は藁葺き屋根の並ぶ集落へと向かった。
村へと続く一本道を進む。正面に聳える山の手前に竹林があり、道は大きく右に曲がる。その角にボロボロの小屋があった――古い訳ではない。お粗末なのだ。去年のあの土石流で流されてしまったから、急ごしらえで建て直したのかもしれない。いすゞはそう思った。
集落へは、小屋の前の、これまた架け直されたばかりに見える木造の橋を渡る事になる。強度もだろうが、幅からして自動車の通れるものではない。リヤカーが精々だろう。
橋の下の片口川の流れは穏やかだった。碧く透んだ水が橋脚の土台石に当たって渦を巻く。
そこを渡った橋の向こうは恐ろしく静かだった。田畑が雪で覆われているから、野良仕事ができないのだろうが……。
それにしても人気がない。洗濯をしている婦人や、道端で遊ぶ子供の一人もいない。枯れ草を踏んだだけの道を歩きながらいすゞは首を竦めた。話を聞こうにも、これでは埒が明かない。
彼女は谷間に張り付くような村落を見渡す。左手の西側と正面奥の北は山になっており、右手の田んぼが広がった先の東側斜面は桑畑だろうか。南側は湿地になっていて、時期になれば菖蒲でも咲くのだろう、尖った葉が芽吹いている。
いすゞは村をぐるりと一望した後、とある場所に目を向けた。左手の山の斜面に石段が這っていて、その先に鳥居らしきものがある。神社なら、神主か誰かがいるかもしれない。彼女はそちらに足を向けた。
ペンキの剥げた板張りの建物の角を、左に逸れる道に進む。その先は再び橋だ。といっても、今度は吊り橋である。渓流を跨ぐこの吊り橋は、土石流の影響を受けていない様子だ。昔ながらに蔓を編んだものだから、足元を見下ろせば隙間から泡立つ流れが見える。度胸が取り柄のいすゞではあるが、ぐらりと揺れる足元に、蔓編みの手摺りに掴まらなければならなかった。
ようやく渡った先の古い石段も苔むしすり減っており、踏み外さないよう慎重に上る。
……と、ある奇妙なものが目に入り、彼女は足を止めた。いや、神社にこれがあるのはおかしくはないのだが、奇妙なのは色だ。
――鳥居に下げられた注連縄。
そこに垂れた紙垂が、真っ赤なのだ。
通常、紙垂とは白いものである。赤い紙垂など見た事がない。
白々と反り立つ石の鳥居と真っ赤な紙垂。その組み合わせの違和感が、軽い運動で上気した肌を粟立たせるほど不気味だった。
その時――。
「どちらからお見えですかな?」
掛けられた声にハッと視線を送る。鳥居の脇で竹箒を持つ人物が声の主のようだ。
いすゞは一呼吸置き、よく通る声で答えた。
「東京の神田書房という出版社で記者をしております蘆屋と申します。十三塚の事を取材させていただきたく、お伺いいたしました」
竹箒の人物は、この神社の宮司だった。
西晴光。歳は四十手前だろう。ザンギリ頭と呼ぶのが相応しいような古めかしい髪型に、無地の着物と袴姿だ。
普通、神職の普段着は白衣なものだが、西宮司は、洗いざらしで桃色に色落ちしているものの、元は赤だったろうと思われる色の着物を着ていた。それに紫の袴を合わせ、彼は折り目正しく畳に正座をする。
十三塚神社の社務所の座敷である。
脱いだコートを膝掛け代わりに、蘆屋いすずも畏まった。フランス生地のワンピースは、古めかしい神社と酷く不釣り合いだ。
彼女の怪訝な表情を察して、西宮司は軽く笑い、着物の袖をピンと伸ばした。
「外から来た人には不思議でしょう。神職の着物といったら普通白ですから。ですが、うちの村では『白』という色を使う事が禁じられているのですよ」
「それはなぜですか?」
「この村は、平家の落人を始祖とする隠れ里です。白は源氏の色。平家としては忌々しい色ですので」
「なるほど……」
千年も昔の因果を未だに守っているとは。半ば呆れた気持ちを表情に出さないよう、いすゞは意識しなければならなかった。
すると障子が開き、いすゞよりも年下と思われる若い女が湯呑みを運んできた。宮司の娘だろうか、それとも御新造さんだろうか。
茶を受け取り礼を言うと、西宮司は彼女に申し付けた。
「喜子、十三塚の由来を記した書物を持ってきておくれ」
「かしこまりました」
静々と退がった彼女を見送り、西宮司はいすゞに顔を戻す。
「老仏温泉に流れ着いたという、白骨の件でしょう?」
いすゞは驚いた。すると再び宮司は笑う。
「この半年、警察やら役人やら、色々な方が訪ねて来られましたからな」
一応警察も、事情を聞きには来たらしい。いすゞが十三塚の事を知ったのは前橋の役場であるから、役人が調査に来たのは納得がいった。
「その度に、我が家に伝わる書物をお見せして、ご説明したのですがね」
間もなく喜子が戻ってきた。手にした和綴じの冊子を宮司に渡し、再び一礼して座敷を去る。
西宮司はある頁を開くと、いすゞに示した。そこには墨書きの達筆で、つらつらと文字が綴られていたのだが、あいにく彼女にはそれが読めなかった。
「ここに記してあるのですが、この神社の裏手にある――というより、あった、ですな。『十三塚』には、何も埋まっておらんのです」
この村が築かれたのは、平安時代の末期。
源氏の追及を逃れこの地に隠れたのは、平家の武将とその部下十二人、そして彼らの親きょうだい妻子たち。
彼らは農民に身をやつし、田畑を開墾する生活を始めたのだが、源氏の追撃の恐れは消えなかった。
――彼らがなぜこうも執拗に源氏を恐れ憎んだのか。それは「身から出た錆」に他ならない。平家にあらずんば人にあらず――奢り昂った彼らの行いがそのまま、自らの身に降り掛かる事を恐れたのである。
そこで彼らは申し合わせた――自分たちは元々ここに住んでいる土民であり、平家の落ち武者は流れ着いたものの全員死んだという事にしようと。
村の西山にある、片口川を見下ろす崖の上。その少しばかり拓けた場所の中心に大きな石をひとつ立て、それを囲んで十二の石をぐるりと並べた。
これが、十三塚の由来である。
「……ですから、名こそは十三塚となっておりますが、何も祀られてはおらんのです」
「えっ……」
「確かに、先の地震と台風で、十三塚はすっかり崩れ落ちてしまいましたが、そんな訳で、老仏温泉に流れ着いた白骨には、全く心当たりがないのですよ」