(10)
列車が沼田駅に到着したのは、すっかり日の暮れた頃だった。
真新しい、だが閑散とした駅舎の前には、この日最後の乗合バスが待ち構えていた。
「私、バスに乗るのは初め……」
「いいから黙ってくれたまえ」
この当時のバスというのは、現在のように大型のものではなく、せいぜい十人も乗れればよい程度の小型のものである。
土御門保憲と蘆屋いすゞは、それぞれ荷物を抱えて前方の座席に腰を落ち着ける。乗客は彼ら二人だけのようだった。その気安さからか、それとも夜の運転の眠気覚ましか、運転手がやたらと話し掛けてきた。
「ご夫婦ですか? それとも婚前旅行ですか?」
「赤の他人です」
いすゞが即答する。運転手は苦笑いをしながら、山道にハンドルを切る。
「この時期に老仏温泉というのは珍しいので、つい」
「なぜですか?」
保憲が問うと、運転手は室内鏡越しにこちらを見た。
「あの震災に土石流でしょう。すっかり寂れちまいまして。生糸目当てのお客さんがちょくちょくみえるくらいですが、まだ今年の養蚕は始まってもないですから」
「なるほど」
「運転手さんは、どちらの方ですか?」
「老仏のモンです。人力車の車夫をしてたんですがね、今からは自動車の時代だと、免許を取った次第です」
相当に地元愛の強い人物らしい。運転手は老仏温泉の由来がどうの、効能がこうのと解説を始めた。
「同じ源泉でも、片口川沿いの宿の方が風情があっていいんですが、土石流で埋まっちまいましたから。山側は『紀ノ屋』がいいですよ。湯元の老舗です」
「あら、私たち、そこを予約してるの」
「そうですか、そうですか」
どうやらこの運転手、紀ノ屋という旅館の身内らしい。宿の自慢を散々喋った後、こんな事を言い出した。
「震災からはすっかり駄目ですが、それまでは旅の一座なんかを大広間に呼んで、毎晩のように演芸をしとりました」
「演芸を?」
「はい。酒の席の余興ですね。舞台のある大広間があるのは、温泉街で紀ノ屋だけなもんで、余所の宿からも見物客が来たくらいです。大衆演劇や手品や軽業……」
「軽業?」
その一言に、保憲はつい身を乗り出した。
「ご存知ないですか? 支那の方じゃ雑技と呼ばれるみたいですね。何人もの人間が肩車で重なったり、一人で十枚も皿回しをしたり、蛇みたいに体の柔らかい踊り子がいたり」
保憲といすゞは顔を見合わせた。大熊一座の芸風に重なるところがある。
紀ノ屋は、温泉街の入口にあるバス停車場からすぐだった。
「いらっしゃいまし」
女将と数人の仲居が、三つ指をついて二人を出迎える。
「お疲れさまでございました。お部屋にお食事の支度をしてございます。どうぞこちらに」
通りすがりに帳場の柱時計を見ると、八時を過ぎていた。客室へと案内される廊下は静かで、なるほど、あまり景気は良くないらしい。
白髪をこぢんまりと結った七十過ぎの女将は、見た目からは信じ慣れないほどに矍鑠としていた。手慣れた所作で挨拶をし、「どうぞごゆっくり」と部屋を辞す。
八畳ほどの和室である。向かい合わせに置かれた座布団の前に、既にお膳が用意してあった。
それぞれ荷物を置いてから、疲れた体を座布団に落ち着ける。
会席膳ではあるが、時間が時間だけに、全て料理が並べられているのは仕方あるまい。早速前菜をつつきながら、いすゞは言った。
「気になりますね、この旅館で行われていたっていう演芸というのが」
保憲も頷く。
「当時の資料なりが残っていれば良いのだが」
――ところが、それに巡り合うのはすぐだった。
食後、風呂を貰いに出かけた際。保憲は浴場へ向かう廊下に、写真が何枚も飾られているのを見付けたのだ。
そこは大広間の脇であるらしい。写真の向かいに並ぶ襖を背景に、様々な衣装の芸人たちが、若かりし頃の女将を囲んで写っていた。この大広間で芸を披露した者たちなのだろう。
それらを眺めながら歩いていると、唐突に見覚えのある顔が目に入り、保憲は足を止めた。
――間違いない。上毛日報の記事にあった通りの大熊一座である。新聞記事にはなっていなかったものの、老仏温泉へ興行に来ていたのだ。
風呂を済ませ、その一件をいすゞに話すと、彼女は興味深そうに目を輝かせた。
「明日、女将さんに確認してみましょう」
そう言って立ち上がると、「おやすみなさい」と部屋を出て行こうとするものだから、保憲は不可解に思った。
「君はどこに泊まるのかね?」
「特別室ですよ。奥の離れが素敵だって聞いて……先生は二等室でいいって言われましたよね?」
いすゞを送ってから、保憲はポツンと敷かれた布団に伸びた。
全く、お嬢様の従者である。
◇
翌、五月四日。
保憲は、女将を捕まえて廊下の写真を確認する。すると女将は考え込むように首を傾げた。
「ずいぶん古い写真ですし、軽業をやる一座はその方たちだけじゃありませんでしたから」
「印象に残っておられないと?」
「何でもいいんです。例えば、他のお客と言い争いがあったとか」
いすゞも手帳片手に質問を挟む。だがやはり、女将は苦笑を浮かべただけだった。
「さぁ、もう五十年も前の事ですからねぇ……」
その写真が明治七年だとして、女将はまだ二十歳そこそこ。記憶が曖昧なのも無理はない。だが、気のいい女将は何とか二人の期待に応えようと、
「ちょっと待ってくださいね」
と帳場に向かう。歴史を刻まれた小引き出しを片っ端から調べていたが、やがてその中から一冊の帳簿を取り出した。
「ここで興行したのなら、うちに泊まっておられるはずですから……ああ、やっぱり」
と、女将は帳簿を二人に見せた。
――確かにそこには「大熊一座十三名」と記されていた。そして、「そう言えば」と何かを思い出したように、女将は顔を上げた。
「その頃、十三塚村の生糸屋の若旦那が演芸にご執心で、よく来られていました」
「十三塚村の……?」
保憲は眉を寄せた。
「はい、今は前橋で盛んにやっておられる半製糸の若旦那です」
そして、「もう時効ですし、ここだけの話にしてくださいまし」と付け加え、声をひそめた。
「その方、娘役者に手を出す困ったお方でしてね。かくいう私も、当時は若かったですから、何度か声を掛けられました。私はうまいこと逃げましたが。それが、いつの間にか来られなくなりましたねぇ。何せ昔の話ですけど」




