(9)
気分が落ち着いたらしい夏子を見舞った後、大名屋敷を後にした二人は、道々ぽつぽつと話をしていた。
「……さっき、静代さんが言っていた『きよめ』って、何のこと?」
いすゞの疑問に、保憲はどう答えるべきか言葉に悩んだ。そして考え考え語りだした。
「昔は都の言えど、野垂れ死ぬ者が多かった。それだけではない。刑罰も磔や斬首といった残酷なものだった。……それらの骸を、どうしたのか分かるかね?」
「えっ……」
「位ある役人が片付けたと思うかね」
いすゞは絶句した。保憲は前を向いたまま続けた。
「――そういう穢れを清める役割をしたのが、『きよめ』と呼ばれる人々だ」
そういう者たちは、そういう者たちを集めた部落に住まわされ、代々それ以外の職に就く事を禁じられた。最下層の身分として、差別の対象となった。明治以降、この身分制度は廃止されたものの、今でも根強く差別意識が残っている。
いすゞは俯いて黙り込んだ。その間に、保憲は十三塚村の事に思いを巡らす。
平家の大将が連れてきた部下の中に、穢れ仕事を請け負う人物がいたとしても不思議はない。
落人の当時からの身分を頑なに保っている村。「大将」が半家で、その他「お頭」に「太刀持ち」に「きよめ」。未だにそのような呼び方を続けている人々が、果たして心から、半製糸工業の発展を願っているのだろうか?
保憲の運命はどうも、この因習深い村に引き寄せられている気がする。しかし、一歩そこに足を踏み入れたら最後、ドス黒い泥沼の瘴気から逃げられないような、薄ら寒い恐怖感がある。
とはいえ、この写真――日露戦争当時の軍服姿の青年の正体を垣間見てしまった以上、その運命からは逃れられないだろう。十五の白骨の正体を白日の元に明かさなければ、沼の瘴気は晴れず、彼を引き寄せる十三塚の「呪い」を断ち切る事もできまい。
覚悟を決める必要がありそうだ。
◇
それから五日後の、四月二十三日。
土御門邸を訪れたのは、増岡編集長だった。
「いやあ、大変でしたよ。上毛日報と長崎の新聞社の知人に頼み込んで、大熊一座の情報を片っ端から取り寄せたんですがね」
と、彼は幾つかの紙袋から、新聞記事の複製らしいものをズラリと書斎の机に並べた。
「分かったのは、十三人の劇団員の名前と性別と年齢、それに長崎を立ってからの足取りです。この一座、失踪する二年前から全国各地を巡って興行をしていたようです。家族経営の小さな劇団ですから、神社の境内やら大店の倉庫なんかを借りて、気ままに旅を続けていたらしいです」
「家族経営というと、全員家族なんですか?」
「いや、座長と中心的な役者……この記事に載ってる写真の、この八人が一家で、他の五人は支那人の軽業師です」
「なるほど」
「で、大変だったのは、前橋以降のこの一座の足取りです」
そう言いながら、増岡編集長はポケットの手帳を取り出した。
「何せ、五十年も昔の事でしょう。この記事を書いた記者もとっくにあの世ですわ」
そう言いながらも、彼の表情は得意気だ。
「ですが、その記者の息子が物持ちが良い人で、父親の取材帳を全部保管してあったんですよ。大熊一座の取材記録も残っていまして」
と、増岡編集長は意味深な目をギロリと保憲に向ける。
「この記事にはありませんがね、その記者、彼らの次の興行先を聞いていたようです。それが何と――」
◇
その十日後の、五月三日の朝。
土御門保憲は上野駅の乗車場にいた。鳥打帽を被り、革のトランクを携えた旅支度である。手には、新設されたばかりの「沼田駅」への切符があった。沼田駅とは、目的地である老仏温泉の最寄り駅だ。
「先生、駅弁を買ってきました!」
そこへやって来たのは蘆屋いすゞだ。彼女もまた、ボストンバックを提げている。
「やめたまえ。まるでお上りさんでないか」
保憲が苦々しい目で見るが、彼女が構う事はない。
「だって、こんな時でもないと、駅弁なんて食べられないでしょ? 一度食べてみたかったのよね、こういう庶民的な味」
「…………」
保憲はこの十日間、増岡編集長に渡された記事を踏まえて、大熊一座について調査し直した。
座長は初老の男で、その妻が裏方。息子二人とその妻二人が役者で、孫の少年が五人の支那人と共に軽業を見せ、孫の少女が一座の顔である踊り子という構成である。
そして、増岡編集長が調べた前橋以降の一座の足取り――老仏温泉について。
もしかしたら土御門家に残っていないだけで、老仏温泉での公演についても記事があるのではないかと、帝国図書館に問い合わせ調べてみたのだが、それは見当たらなかった。
彼らは、本当に老仏温泉へ行ったのだろうか。保憲はどうしても、現地で調査をしたくなったのである。
そして、この旅の目的はもうひとつ。
「もう一度、十三塚村へ行ってみたいんです」
蘆屋いすゞである。
「先生に、西宮司が何かを隠してると聞いて、記者としてそれを見抜けなかったのが悔しくて」
そう言ってから、彼女は軽くウインクした。
「夏子ちゃんを通して、半清嗣氏と会談の場を設けてもらえるよう、約束をしました」
「なっ……!」
保憲は目を剥いた。全く、思い切りだけは良いのである。
「五月五日。冬の間眠らせていた蚕の卵を、暖かい空気に触れさせて孵化させる、一年の養蚕はじめの儀式があるみたいなんです。十三塚村では、毎年端午の節句に行うらしく……あ、もちろん、養蚕作業の取材という名目ですよ?」
「なるほど……」
間もなく列車が到着した。高崎線、上越線と乗り換える、一日がかりの長旅である。
三等車の座席に腰を落ち着けると、いすゞは物珍しそうに辺りを見渡す。
「私、三等車って初めてだわ」
庶民の暮らしに興味津々のじゃじゃ馬姫といったところである。無駄遣いなどできるはずもない立場の保憲からしたら、煩わしい事この上ない。
「少し黙ってもらえるだろうか?」
睨む保憲に、だがいすゞは笑顔で駅弁を手渡す。
「早速いただきましょ」
何の因果か、保憲が彼女と旅をするのはこれが初めてではない。彼女と知り合ってからというもの、何だかんだとそういう場面に巡り合わされる。
……だが妙齢の独身男女であるにも関わらず、一切の恋愛感情的なものをお互いに持ち合わせないのだから、縁とは皮肉なものである。
甲高い汽笛が響き、車輪の振動が座席を揺らし始める。車窓の風景は瞬く間に駅を過ぎ、東京の街中を一望に収めた。
晩春のやわらかな空と、灰色の街……だった場所。
焼け野原となった街の残骸はようやく片付けられ、バラックの立ち並ぶ通りにも、徐々に復興の足音が聞こえていた。所々に足場が組まれ、復興住宅の建設が急がれている様子が見て取れる。
弁当の蓋を開け、卵焼きを味わいながら、保憲は嫌な予感を拭い切れないでいた。第六感などというものを信じてはいないが、今回ばかりはどうにも不穏なものが行く手に立ちはだかっているように思えてならないのだ。だから、出発日を一日早め、仏滅を避けるという彼らしくない事をしたほどだ。
だがそんな懸念も何のその、いすゞは純粋に駅弁を楽しんでいた。
「このニンジン、ダシが染みて美味しいわ」
普段ならグチッと皮肉のひとつも言いたいところだが、この時ばかりは彼女の天真爛漫さに助けられたような気がした。
「それは良かった……」
保憲は駅弁に意識を戻し、ニンジンの煮物を口に放り込んだ。
――この時二人は、保憲の予感を上回る惨劇を目の当たりにするとは、想像だにしていなかった。




