揺れる想い 1
「…………ん、いい匂い?」
喉の渇きと食欲を誘ういい香りで眼が覚め、身体に絡みつくシーツの中でもそもそと上体を起こした。
要さんの寝室……。
ぼうっとなった意識の中で見た、リビングと同じ白と黒で統一されたシンプルな部屋。
ベッドの足下には脱ぎ捨てられた真っ白なバスローブがくしゃりと滑り落ちていて……。
「………あ、そうだ、私、要さんと……」
不意に昨夜の彼の熱い抱擁を想い出し、急速に顔が熱くなるのを感じて慌ててベッドから脚を引き抜いた。
「………いたたたたっ」
普段使わない筋肉を全て使い果たしたような、全身に走る鈍い痛みと気怠さ。
ベッド脇には丸い白のサイドテーブルがあり、その横にある椅子に要さんの物であろう、白いシャツが掛けられている。
私はのそりそれを手に取って頭からかぶり、するりと袖を通した。
―――要さんの匂いがする。
「………ふふっ」
私は自分の躰を抱き締め、彼の香りに包まれて不思議な安心感に想いを馳せた。
なんだか心がウズウズする……。
おぼつかない足取りで扉を目指し、リビングへと繋がる黒いドアを開くと、予想通り要さんがキッチンに立って朝食の支度をしていた。
「おはよう。よく眠れた?」
後ろにも目がついているのか、すぐに私に気付いた要さんは肩越しにこちらを振り向いて、アーモンド形の瞳を細めて笑いかけた。
「もうちょっと待ってね」
黒のTシャツにジーンズといったすっきりした立ち姿、手際よくフライパンを振るごとに引き締まる腕と背中の筋肉。
なんだかその背中が無性に恋しくて、私は感情の赴くまま彼に近付き、後ろからそっと抱きついた。
「……おはよう、ございます」
すると一瞬、要さんの動きがぴたりと止まって、すぐさま変わらない様子で動き出す。
「おはよう、お腹空いた?」
彼はいつものようにくすっと笑い、フライパンをトントンしてふわふわのオムレツを皿へと移す。
「顔洗っておいで。新しい歯ブラシ出してあるから。それから一緒に食べよう」
フライパンの隣ではくつくつと音を立てて踊る野菜たちが見え、その音と匂いにお腹が空腹に起こされた。
「………予想……外」
「はい」と短く返して背を向けると、何と言ったか聞き取れないくぐもった呟きが、ポツリ聴こえてきて、
「えっ?何か言いましたか?」
振り返ると彼は開いた大きな手で口元を隠し、その表情を読み取れないようにこちらから視線を背けた。
「………いや、何でも」
すぐに戻ってきた手隠しのない表情には朝陽の似合う微笑みが浮かんでいて、私の心をゆるく揺さぶった。
「………この後、晩飯の買い出しに行きたいんだけど、つき合って貰ってもいい?」
それは最後のひとくち、ふわふわの黄色いオムレツを頬張っている時に発せられた、お誘いの言葉だった。
「はい、いいですよ?」
私のふたつ返事をにこやかに受け、空いたお皿を重ね合わせて2杯目のコーヒーをデカンタからカップへと注ぐ要さん。
「芽衣ちゃんは珈琲のおかわりは………」
言いかけて、彼はすぐさま私のカップから視線を上げた。
「もしかして、珈琲苦手?」
「……あ…はい、すみません」
置かれたままの1滴も減っていない、白いカップ。
「あ、あの、お砂糖をいっぱい入れればなんとか……」
今ではどこへ行っても普通に出されるコーヒー。
商談にせよ会議にしろ、当たり前のように出てきては皆にホッとしたひと息を吐かせる。
でも私はそんなコーヒーが苦手で……。
「香りは?」
「え?あ、えっと、実はあんまり……すみませ……」
要さんは何も言わずにデカンタを遠ざけ、私のカップを取り上げた。
「カフェオレは?」
「あ、その、カフェオレは好き……です。すみま……」
「了解。ちょっと待って」
そう言い残すとキッチンの方へと回り、冷蔵庫から取り出してきた牛乳を小鍋で温めはじめた。
その時点で彼が何を作っているのかは歴然としていて。
「あの、ごめ……」
「熱いのは?平気?」
「え、あ……はい、平気……です」
ふつふつ小さく煮立つ牛乳に、ほろ苦いコーヒーの香りがひとつになろうと混ざり合う。
要さん、怒ってるのかな?
ごめんなさいも、すみませんも言わせて貰えない。
なんだか自分の不甲斐なさが申し訳なくて、俯いて白いTシャツの裾をギュッと握ってしまう。
やがて………。
「はい、お待たせ」
目の前に置かれた湯気立つミルクたっぷりのカフェオレが、カップの中を優美に波紋を広げる。
「ご、ごめ………っ!」
「ごめんね」
「…………え?」
それは予期せぬ相手からの謝罪。
「気付いてあげられなくてごめんね」
「かなめ……さ……」
「…………………っ」
謝るのはハッキリ言えなかった私の方なのに。
じわり潤んだ瞳に歪んで見えるのは、ゆっくり近づくアーモンドの形をした黒い瞳で、髪をさらり梳いてくれるのは、優しく大きな手としなやかな指で、とろけるように甘く重なり合うのは……。
「………ん、あっ」
「その顔、反則」
「カフェ、オレが……」
「………ん、後でね」
カシャンと重ねたお皿がひと鳴りして、たぷんと甘いカフェオレがカップの淵を叩く。
※ ※ ※
「………くすっ、まだ怒ってるの?」
要さんが洗濯して乾燥をかけておいてくれた服に着替え、買い物を兼ねて外へ出る事にしたのだけれど、
スーパーで買い物カートを押す私の腰を抱きながら、彼はご機嫌な様子で呪文のように耳元へと繰り返す。
「肉じゃが食べたい。芽衣ちゃんの肉じゃが……」
その声と腰に回された手の感触に崩れ落ちそうになる身体を支え、要さんは愉しそうな笑みを浮かべて意地悪く囁く。
「……どうしたの?大丈夫?」
「知りませんっ!」
ペシリと手を叩くも一向に動じず、終始私が手にする食材を興味深そうに見て歩いていた。
ふと思う。
周りから見た私達は、一体どんな風に映っているのだろうか。
恋は盲目状態の、イチャつくバカップル?
熱々の新婚夫婦?
ううん、夫婦は置いておくにしても、せめて恋人同士には見えているのだろうか。
だと、いいな……。
………ねえ、要さん、
時折、愛おしげに私を見る眼差しは、一体何を語っているの?
その些細な事にまで気づいてくれる優しは、どこから溢れてくるものなの?
「………俺のこと、また欲しくなった?」
袋詰めをしながらぼんやりしていた私を横目で見て、彼がくすりと漏らす。
「……なっ!?違………っ!」
顔を赤らめ、動揺する私を軽く笑い、
「さ、行こうか」
なんて爽やかに笑んで私の腰を促した。
く、悔しいけど、逆らえない……。
そうして食材を車へ詰め込み、車は緩やかに発進する。
「ちょっと遠回りして行こうか、サンドイッチが最高に美味しい店があるんだ」
「はい、いいですよ。そんなお店があるなら、私も楽しみです」
「そう?良かった。もう少しだから」
すると車はしばらく走ると小さな1軒のパン屋の前で停り、
「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」
そう言って要さんは車を降りて店の中へと入って行った。
のだけれど………。
おそらく店の子なのだろう、ひとりの女の子が要さんの傍に寄り、何やら楽しげに会話をしている。
歳は私と同じくらい?
「…………………」
なんだか重い気持ちになってしまうも、笑顔のふたりから目を離す事が出来ない。
やがて要さんがこちらを指差し、その子に何かを告げると手を振って微笑みを向けた。
途端に笑顔を崩す女の子。
あぁ、あの子、要さんの事……。
それはぎこちない笑みだったのかも知れないし、勝ち誇った嫌な笑みだったのかも知れないけど、私はスカートをギュッと握って、精一杯にこりと頬を上げて見せた。
「ごめん、お待たせ」
「いえ、大丈夫です。それより……」
「んー?」
戻ってきた要さんは私の膝にサンドイッチの入った紙袋を置き、エンジンを掛けた……が、
私のギュッとなった手に自身の手を重ね置いた。
「こんなに強く握ったら、爪の跡がついちゃうよ」
「……………あ」
力の緩んだ手をすくい上げると、彼は伏し目がちにそこへ唇と舌を這わせ、私の心を見透かしたように言葉を投げかける。
「……妬いた?」
「なっ!なん、でっ!」
その後に続くのは、
「なんで分かったの?」なのか、
「なんでそんな事を!」なのか、
私にはまだ答えを出す事が出来ないでいる。
「いい場所があるんだ。そこで食べよう」
要さんは答えを待つ事もなく、機嫌を悪くする事もなく、スルスルとハンドルを滑らせながら目的地を目指す。
流れる景色、風に揺れる緑たち、
かさりと鳴る膝の上の紙袋の音。
私、このひとの事………?
「着いたよ、此処」
そう言って要さんは、大きな公園の駐車場で車を停めた。
「ほら、おいで」
先に降りた彼によって開かれた助手席のドア、彼の手が差し伸ばされたので何気にその手を取ったのだけど、
一瞬、要さんの手がピクンッとなり、不思議に思って顔を上げると、彼は驚いたような表情で私を凝視していた。
「要さん?どうかしましたか?」
眼が合い、要さんは慌てて口元を手の平で隠すと横を向いたが、すぐに気を取り直したかのように微笑んでこちらに向き直ると、
「………行こうか」
と、私の手を引いて緑香る芝生の上を案内した。
――要さん?
ぼんやり、私の手を引いて前を行く要さんの背中を眺めながら歩く。
歩調を私の速度に合わせて歩いてくれる彼の気遣いが、そよ風のように心地良い。
黒のTシャツの上に羽織った白の半袖シャツが、風を受けてヒラヒラ揺れていて、
彼に恋をした悪戯な光風が、黒い髪の毛をさらりと靡かせる。
そして何より、繋いだ手は温かくて、泣きたくなるくらいに優しい……。
ああ、私、この人の事………。




