彼の部屋 3
「久し振りだね」
「は、はぁ……」
動き出した車はいくつ目かの赤信号で停り、目の前の横断歩道を仕事帰りのOLやサラリーマン達が足早に通り過ぎて行く。
夏の太陽は長くそこへ居座り、空はまだまだ高くて陽の光が眩しい。
呑みに行く人、家族の待つ家へと帰宅する人、多くの人々が行き交う街並みは自身の為にと忙しなく流れ行く。
そんな様子をぼうっと眺めていると突如、運転席から長い腕が伸びて来て、しなやかな指が私の顎を難無くすいっと持ち上げた。
さらり流れる黒い髪がくすぐるように顔にかかり、端正な顔が近づいてきたかと思うと、咄嗟に息を飲み込んだ唇を柔らかな感触で塞がれる。
「…………んっ、かな……っ」
「逢いたかった?」
「………えっ?」
「俺は逢いたかったよ」
そう発すると、どこか名残落ちそうに捕まえた私の顎からするり指を離し、前を向き直して青になった道を走り出した。
………やだ、
私ったらしようと思えば出来たはずなのに、拒否する事すらしなかった。
ううん、むしろ受け入れたいとさえ思ってしまっていた。
どうしてなのか、不思議と後悔や自己嫌悪、罪悪感なんて類のものも感じなくて………。
頭と心では良いのか悪いのかすら判断出来なかった。
沈黙に包まれる車内、しばらくして先に口を開いたのは彼だった。
「お腹空いたね。何か食べたい物とかある?」
またしても彼は何事もなかったかの如く、前を向いたままで尋ねてきた。
「……え、えっと」
ひょっこり出てきた優柔不断さはいつもの悪い癖。
食べたい物、食べたい物。
早く答えなきゃ……。
「ゆっくり考えて良いよ。なんなら食べたい物全部でも」
「さっ、流石に全部はちょっと!」
焦った私に彼はくすりと口角を上げ、焦らせる訳でもなく、圧をかける訳でもなく、ゆったりとした様子で前方を向いたままで。
そんな事、言われたのはじめてかも知れない。
この人なら、許されるのかな……。
キュッと握ったスカートに皺がゆき、心細さに勇気を込める。
「……パ、パスタ系、かな。でもハンバーグと悩んでます」
「了解」
彼はそう言ってまたくすりと笑って、前を走る車と同じく右折をする為にハンドルを切った。
カチコチと鳴るウインカーの音が、トクトク鳴る胸の音と重なる。
い、言えた。
たったそれだけの小さな勇気。
たったそれだけの小さな達成感。
でも、それがどれほど大きな事なのかを、きっと彼は知らないだろうな。
私は彼に気づかれないよう、握っていたスカートの布から手を離して、肩の力をふっと抜いた。
車はそのまま帰宅ラッシュにはまりながらも順調に走り、要さんは少しだけ窓を開ける。
「窓、開けて良いよ。それとタバコ吸っても平気?」
「あ、はい、大丈夫です」
浩二ならそんな事言わずに勝手に吸うのに、なんて思い出してしまい、その事を頭から振り払おうと私は車の窓を少し開けた……のだけれど、
なぜか窓は一気に全開となって、ゴォーッという音と共に突風が入り込んできた。
「……ぷっ、あはははは」
隣から聴こえてくる軽快で意地悪な笑い声に目を向けると、窓の開閉スイッチにしなやかな指が乗っていて、すぐさま犯人が誰なのかを特定する事となった。
でも……、この人、こんな笑い方するんだ。
なんて発見が嬉しくて、全開になった窓から見える知らない風景と、夏の香がする風を楽しんだ。
おかげで髪がめちゃくちゃになってしまったけれど……。
「要さんって意地悪ですよね」
「そう?」
「そうですよ!この間の飲み会でも……!」
言いかけて、先週の事を思い出してしまって口を閉じる。
要さんにされた悪戯を思い出していたのだけれど、どうしても消せない出来事もあった。
「………………」
「…………………」
しばし静かになってしまった車の中、要さんは全開になった窓を閉めてハンドルを切る。
「…………俺さ」
ぽつり、こぼそうとしているのは慰めの言葉だろうか?
「好きな子ほどいじめたくなるタイプなんだよね」
「……………は?」
「芽衣ちゃんはいじめ甲斐があって楽しいよ」
「なんですかそれ、小学生男子ですか?」
「あははは、そうかもね」
突然の意味の分からないセリフに思わず眉間にシワがよったけど、その後の彼の笑い声に心が少し軽くなった。
そして信号待ちの交差点、
目の前を行き来する開放的な服装の女の子たち。
色鮮やかなスカートが、ふわふわと金魚の尾のように魅惑的に揺れている。
夏の風物詩とも言えるこの光景は、男性なら心浮き立つものなのだろう。
きっと彼だって……。
そんな思いからチラッと要さんの視線を横目で見やると、彼はまったく興味が無さそうに、その長い指に挟んだタバコの煙を何の気なしに眺めていて、
「どうかした?」
なんて、横に眼でもついているのかと疑う程に、私の視線を察知していたのだった。
「あ、いえ……」
私はこっそり、変な安心感とおかしな愉悦感を慌てて手の中で丸め込んだ。
やがて到着したのは少し大きめのスーパーで、彼は車のエンジンを切ると後部座席に積んでいたらしいエコバッグを取り出した。
「ちょっと買い物。一緒に来る?」
と、不思議そうな顔をしている私に明るく微笑んで見せた。
「……あ、はい」
カチャリと開いた車のドア、カツンとアスファルトに降り打つパンプスの音、バタムと閉めた陽を浴びて光る青色の扉。
生温い風に乗って聴こえてくるのは、夕刻を知らせるひぐらしの鳴き音。
要さんは店内に入るとカゴを持ち、鼻歌を唄いながら食材を見て回る。
その様を見て、私はつい吹き出してしまった。
ーーに、似合わない。
笑えるくらい、似合わない。
「芽依ちゃんは、どんなパスタが好きなの?」
こみ上げる笑いを必死になって堪えていると、不意に質問を投げ掛けられた。
「……えっ?あ、普通にミートやたらことか、カルボナーラとか好きです。アラビアータ何かも。でもボンゴレはちょっと駄目です」
「了解」
柔らかな笑みでそう返し、彼は賞味期限などをチェックしながらテキパキと食材をカゴの中へと入れていき、時折、私の好きな食べ物を聞いては頷いている。
見る見る内にいっぱいになっていく買い物カゴ。
けれど重いカゴを下げながらも彼はどこか楽しそうで、
最後に……と、ワインを2本ほど選び、ジンを1本手に取ったものの、カゴに入る訳もなく……。
この人って、一体……。
しっかりしていそうなのに、どこか抜けているのだろうか。
私は思わず笑みを噛み殺しながら助け舟を出し、その3本を受け取った。
そもそもなんで私の好きな物を聞いてきたんだろう?
カゴの中身はほぼ私の好きな物ばかりだし。
もしかしたら、私が食べたがっている物の食材選びを脳内でしてくれていたのかな……。
それってもしかして………?
見とれる奥様方やレジのお姉さんのうっとりした眼差しを全く気にも止めず、要さんはサッサと会計を済ませるとひょいひょいと袋詰めを終えて、
「行こうか」
そう笑んで私の腰を抱いて促し、私はその腕の感触に静かに従う。
「は……い」
後部座席へ積み込まれる食材たち、エンジン音を立てて発進する車。
問題はその車内で発生した。
「美味しいの、ご馳走するよ」
ご機嫌でハンドルを切っている柔和で、でもどこか本気のこもった笑みにギョッとする。
「……えっ、えっ?」
――と、言う事はやっぱり……?
「そう、俺の家」
「………えっ」
「………いや?」
要さんは眼を白黒させている私に腕を伸ばし、しなやかな指で頬を撫でた。
「……い、いやじゃ、な……けど」
その指の温もりにクラクラする。
――ど、どうしよう……。
イヤじゃない。
イヤじゃないけど、
でも……。
私、本当にそれで良いの………?
そんな私の迷いを尻目に、
車はわずか5分程で背の高いマンションへと到着した。
「………こっち」
買い物バックを肩に掛け直して誘導してくれる彼の背中に、ワインを抱き締めてついていく。
要さんのマンションは9階建てで、シンプルながらも白を基調としたお洒落な造りは、どこか要さんらしかった。
よく叩き上げられた広いエントランスを抜けてオートロックを解除すると、要さんは乗り込んだエレベーターの7階ボタンを押した。
しんとしたエレベーター内、
要さんは何も話さずに、順番通りに上がっていく階表示をじっと見つめている。
ポーンと鳴る到着音、床に敷かれた毛脚の短いブラウンのカーペット、部屋の広さを物語る隣の扉との間隔。
「………ここだよ」
そう言われて見上げた部屋番号。
ーーー707号室。
表札には「伊織」とある。
トクトクなる鼓動。
熱を帯びだす身体。
ちりちり痺れる指先。
要さんは鍵を開けながら、私へ静かに問い掛けた。
「………芽依ちゃん?」
「……は……い?」
「………覚悟はできてる?」
「えっ?」
要さんは私を見ない。
真っ直ぐ、黒い扉を見つめているままだ。
「俺は今夜、確実に芽依ちゃんを抱くよ?……勿論、帰すつもりもない」
私は思わず胸に抱えたワインとジンを袋ごとギュッと抱き締めた。
――私、バカだ…。
そうなるって分かってるはずなのに。
頭の中で耳障りな警戒音が鳴り響く。
それと同時に、鼓動が更に激しく脈打ち出す。
「………どうする?」
ーーー私は、
もう、心に蓋をするのはやめよう。
もう、知らないふりをするのはやめよう。
浩二はもう、私の人じゃない。
そしてこの高鳴る心音の理由は………。
私は鳴り響く警戒音のボタンを止め、
その鼓動に従う事を決めた。
「………は……い」
小さく答えると、脚が震えた。
………くすっ。
要さんは一瞬笑い、
「お入り」
黒い扉が開かれる。
私はきっともう、
引き返せないーーー。




