予感 3
「荷物、取って来る。帰ろう。
1人で立てる? 平気?」
この人とは今夜初めて逢って、
逢ってまだ数時間しか経っていなくて、名前と、年齢と、会社名しか知らない。
他にと言われたら、お酒が強そうで、意地悪で、身長が高くて、他の人よりちょっとカッコよくて、いい香りがして、それから………。
でも今、ろくに動く事も出来ない私の為だろうか、酷く焦っていて、とても心配してくれているのだけは分かる。
私が小さく頷きを返すと、すぐに戻るから、そう言い残し、要さんは急いでみんなの居る部屋へと戻って行った。
ーーー浩二、なんで?
よろよろと力無く壁に寄り掛かり、カーペットのシミに視線を落とすと、ポタポタと溢れ出た涙が無情にも新たなシミを作り上げた。
浩二とは3年、つき合ってきた。
自分は本当に浩二の事を好きなのだろうか?
浩二は本当に私の事を好きでいてくれているのだろうか?
必要と、されているのだろうか。
何度も何度も自問自答してきた。
好きだから、一緒に居てくれてるんだよね?
嫌いだったら、とっくに別れてるよね?
………それとも、私はただの都合のいい女だったの?
だから最近、身体を重ねる時ですらキスひとつしてくれなかったの?
こないだ浩二とキスしたの、
いつだったかな?
「好きだよ」って抱き締めて貰ったの、どのくらい前の事だったかな?
想い出せないよ、浩二………。
私、浩二のあんな笑顔、
最近見てないよ……。
ねぇ、浩二、
私は一体、何だったの?
私達が過ごしてきた3年は何だったの?
ねぇ、浩二、教えてよ………。
他の部屋からは流行りの曲や昔の歌謡曲、拍手や野次といった類の如何にも楽しそうな音や声が漏れ聴こえ、
自分が"独り"なんだと思い知らされるーーー。
「…………いちばん、きらいな音」
両眼をぎゅっと瞑り、両耳を両の手で塞ぎ、壁に立て掛けられていた身体がズルズルと音を立てて崩れ折れそうになる。
ふわり。
心地良い温もりが私の身体を柔く支え、覚えたての香りが心ごと優しく包み込んでくれる。
「…………依ちゃん」
「………………あ」
「芽依ちゃん、大丈夫?」
真っ暗だった視界に彩が戻り、雪の音を思い出してしまいそうだった静寂の耳に、世界の喧騒が一気に押し寄せてくる。
仰ぎ見ると心配そうな顔をした要さんがそこには居て。
どうしてだろう、
泣いているのは私の方なのに、そのアーモンド型の瞳は私よりもずっと辛そうな色をしていて、
そっと涙を拭ってくれる指は魔法をかけたように、頬を流れる涙筋を消してくれる。
「行こう、送るよ。歩ける?」
「…………は……い」
要さんはおぼつかない私の足元を一歩一歩確認しながら支え歩いてくれて、『めちゃくちゃ一途でマメだぞ?』なんて隆之さんの言葉を思い出した。
外には利用者を待つタクシーが連なって停まっていて、乗り込んだ1台の車、ぼんやり住所を答える私の言葉を拾い、やる気のなさそうな運転手に彼がハッキリした口調でそれを伝えてくれる。
すぐさま動き出す密閉された箱の中、やはり脳裏を掠めるのは浩二の事で、さっきの光景が薄れる事なく鮮明に思い出されてしまう。
ーーーねぇ、浩二。
今、何してるの……?
誰と何処に居るの……?
私達の中にあるものが何にしろ、
これでもさ、結構信じてたんだよ?
それなのに………。
様々な感情が溢れ、
それはカタチを変えて私の瞳からほろりと零れ落ちた。
窓の外の煌びやかな景色が歪み、哀しい飴色に滲む。
「………………っ」
すると突然、
顎を引かれて波打つ瞳をまっすぐ覗き込まれた。
頬は切なく濡れ、それを目にした要さんの瞳までもが、みるみる内に曇り出す。
あ、せっかく止まったのにまた……。
要さんが掛けてくれた魔法の効力が切れてしまったのかも知れない。
「………ごめん、なさ……」
「どうして謝るの?」
「泣いて、ばかりで……」
喉の奥に熱く焼けた石が詰まったみたいに、ぐっと息がつまる。
「……いいよ、そんなの」
私を覆い隠すかのように体勢を変えた彼の黒髪が、さらりと流れ落ちた。
「俺が何度だって止めてあげるから」
魔法を掛け直してくれる優しい指先と、近づく伏し目がちな瞳。
………トクン、トクン、
その鼓動は嫌な音ではなかった。
拒絶する意味も、気持ちも、なかった。
頬に掛かる柔らかな髪、
お互いに閉じゆく、瞼と呼ぶ名の心のカーテン。
ゆっくりと近づいたカタチのいい彼の唇が、
そっと囁くように、
そっと解くように、
私の唇に静かに重なった……。
それは映画の1シーンのようにスローモーションで私の目に写り、
甘い感触が脳髄を麻痺させる。
要さんは唇を離して深く息をつくと、私の濡れた目元と涙の道筋に何度も口づけを落とし、
何度も、何度も、
彼にしか掛けられない魔法を私に掛けてくれる。
再び戻ってきた彼の唇は、
ほんの少ししょっぱかったけれど、
ひどく優しかった…。
確かめ合うような、温もりを与え合うような、そんな初めてのキスは冷えた心を溶かし、震えていた躰を熱くさせる。
「………はぁ、ごめん」
要さんは苦しく切ない湿った息を漏らし、私の瞳の奧を覗き込んだ。
「…………どうして、謝るん……ですか?」
そんな問い掛けに彼は苦笑を浮かべる。
「……止められなくなってもいいの?」
見つめた瞳は吸い込まれそうな程に深く、夜の海のように揺れ光っている。
「芽衣ちゃんとは、そんな関係から始めたくないんだ。少なくとも、今夜だけは……」
「…………………っ」
ああ、この人は知っているんだ。
『寂しさから来る弱さ』を。
何かが終わり、
何かが始まる予感。
それを静かに感じながらも、
私はわざと気付かないフリをして、その予感という夢にまたそっと蓋をした。
ミラー越しに運転手と目が合い、私は咄嗟に要さんの白いシャツに顔を埋める。
彼はそんな私の肩を労るように抱き、愛おしげに髪を何度も何度も撫でてくれたのだった。




