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プロローグ




ーーー1年前。



それはしとしとと物悲しくも気重い、まとわりつくような湿気を帯びた8月の雨の日だった。



「要ぇー、行くぞぉー」



「………ああ」



鬱蒼とした雨がアスファルトを無慈悲に叩く中、隆之の呼ぶ声に促されつつゆっくり歩き出そうとするも、


俺は『彼女』から眼を逸らせられずにいた。



色とりどりに咲く華傘たち、慌ただしく行き交う無数に散りばめられたそれぞれの人生。

そこに煌めき在る人愛に人命。


そんなものに毛頭興味はないし、何も感じない、何も響かない、俺にとってはクソほどどうだっていい代物ばかり。



そんな中、


『彼女』はただ、


望み無きような暗雲たる重い空を見上げ、独り泣いている……ように見えた。


その姿はまるで己のすべての罪を心ごと洗い流しているかのような、

はたまたその強い雨棘で自身の悔い闇を貫いているかのようにも見えた。



彼女の輪郭を艶めかしく型どるぐっしょり濡れた黒いワンピース。

着ている物は、恐らく喪服だろうか。

傘もささずに8月のぬるい雨でその華奢な肩を濡らしている。



道行く人々はそんな彼女をまるで奇っ怪なものを見るかのように避けて無関心に通り過ぎて行き、ある者たちはそのフォルムを舐めるようなニヤニヤ顔で凝視しながら、その場を後にしていた。



人の人生などに興味はない。

その人間が生きようが生きまいが俺の人生にはなんの関わりもなければ、俺のなにかに不変が起こる訳でもない。


普段の俺ならばきっとそうしていたであろうし、彼女の存在にすら気付かず、バシャバシャと音を立て波紋を広げる水溜まりから革靴を守りながら、何事もなく歩んでいたであろう。



ーーけれどどうしてなのだろうか。


そんな俺がどうして『彼女』にだけ興味を持ったのか、

『彼女』を知りたいなどと珍しい感情を抱いたのか。



これが所謂"一目惚れ"という愚かで無駄なものなのか?

いや、そんなくだらない直感や心情などを俺は持ち合わせていない。


でも、なぜだろうな。

そんな姿を俺は"美しい"と心に抱いてしまったんだ。




「要さん、置いて行っちゃいますよー」



敦に腕を引っ張られ、無機質な現実へ突如として引き戻されるも……。


おろしたてのオーダーメイドで仕立てさせた革靴が雨だまりを蹴る音。

シャツに染み込み出すピンと張ったシャツが憂い雨に濡れていく感覚。


そんなものを敦の腕ごとすべてをすっ飛ばして、

俺は彼女目掛けて足早に近し向かっていた。



「…………これ」



少し息が上がるのは普段大量に吸っているタバコのせいだ。

早く脈打つ動悸は咄嗟に動いた自然現象であり、決して緊張や戸惑いのせいなんかではない。



「………………」



無言で自分の手に握らせられた折り畳み傘の持ち手に眼をやり、

『彼女』は僅かに目線を俺へと向ける。



ーーーードクンッ。



腹底に突如として落ちた重みあるなにか。

握った哀しくも冷たい、白く濡れた小さな手の質感。


ほんの一瞬、たった数秒の出来事。



「………じゃあ」



そうひとことだけを残し、俺は数メートル離れて待つ隆之と敦、ふたりの元へと帰り戻った。



「どうしたんすか?要さん」



「お前が人の心配なんて珍しいな」



「……ああ、悪い。ただの気まぐれだ。敦、傘入れて」



「いいっすよー」



歩きながら再び『彼女』を振り返り見たが、雨に煙る街並みは彼女の姿を呑み込んでしまっていたのだった。



ただの気まぐれ。

そう、それ以上でもそれ以下でもない。

ただの、ほんの小さな降りしきる悪戯な雨のせいだーー。




それなのに………。



その場所を通る度にあの日の『彼女』が記憶を過り、無意識ながらにその姿を探し求めている自分が居た。


実にくだらない、愚かな期待が脳裏を擽る。



あの後、

『彼女』はどうしたのだろうか。

ぐっしょり濡れてその髪から伝い流れる大粒の雨滴。

既に意味を成さないのにも関わらず、半ば強引に渡された俺の折り畳み傘。

そんな物に『彼女』はなにを想い、なにを感じたのか。





しかしそんな日々の中でも季節はいつも通りに移り変わり、秋を越え、冬を乗り切り、俺の中から『彼女』の存在も薄らぎ初めていた頃の事だった。



お気楽な連中が心踊らす桜舞い降る季節。

見上げれば透き通る薄い青が果てしなく広がり、そこに淡いピンクが重ね塗られた油絵のように色づいていた。


薄青い空が桜を引き立てているのか、はたまた淡い桜色がその空を浮き立たせているのか、

どちらが正解なのかなんて誰も考えやしないだろうし、答えを知ろうだなんて興味すら持たないだろう。


仮に答えを見つけたとしてもそれが何だという話だし、そこから何かが始まるわけでもない。




「………ねえ、紗希ちゃん、まるで桜が空に恋をしてるみたいだね」




ーーートクンッ。



それは突如としてすれ違いざまに届いた春風からの贈り物。

何気なしに通り過ぎる声の主をチラリ横目で確認すると………。



「………………っ」



声なんて知らない。

名前すら分からない。



唯一知っているのは……。




「はあ?なんですかそれ」



「だってね、みんなに見られたくないから、空を隠すように桜はこんなにも枝を伸ばして、見事に咲き誇るの。だって一年に一度しか逢えないんだよ?でもいくらその手を伸ばしても、空には届かない。なんだか切ないよね」



トクトクと鼓動がどこか遠くで早鐘を打ち出す。



「はいはい、そういうのは七夕の日だけにして下さいね。そんな事より急ぎますよ芽衣先輩!あそこの社長、うるさいんですから!」



胸元で濡れるゆるいカール、決して派手ではない落ち着いたブラウンの髪。


見上げた横顔にあの日見た暗い影は見て取れないが、思慮めいた真っ直ぐな瞳に映るのは空なのか、桜なのか、それを通り越した別のなにかなのか……。



せわしなく動く昼時の交差点、

促すモデル並みに長身の連れを余所に、

『彼女』は道に沿う桜並木を柔らかな笑みで見上げていたが、その瞳にはどこか憂いを帯びた色が見え隠れしていて。



………ああ、そうだ、この横顔だ。




「…………待…っ」



無意識のうちに出ていた声と伸ばした腕。

けれどそれは周りの雑多な音に邪魔されて宙へと掻き消えてしまう。



「ほらほら、行きますよっ!」



半ば強引に背中を押され、

『彼女』は街中へと姿を消してゆく。



ーーーメイ。



その名を大声で呼びながら急いで追い掛けるべきか?

その折れそうな細い腕を掴んで振り向かせるか?


いや、そのどちらも出来ずにいる情けない男がひとり、空と桜の境界線へと開いた手を差し伸ばす。



あの時の涙はもう乾いたのかい?


心の中で『彼女』に問い掛ける。



その微笑みに触れたい。

その微笑みを感じたい。

その微笑みの真意を知りたい。


その声で、俺の名を呼んで欲しい。



…………いや。



「………手の届かない存在、か」



下ろした手のひらを開き見、ふしくれだった手で自身に言い聞かせる。

こんな薄汚れた自分が手を伸ばしていい相手ではない。

きっと綺麗な花びらを黒に染め、いずれドライフラワーにすら出来ずに枯らしてしまうだけだ。



人は言う。

1度や2度の偶然はあれど、3度目に機会があるならば、それはもう運命なのだと。


そんなおとぎ話のような話を信じている訳ではないし、それさえもが偶然なのではないかと疑心さえ抱いてしまう。



ーーーでも、


でももし次に出逢う事があったのならば、

俺は………。




「要先輩ー、休憩時間なくなっちゃいますよー」



今年ようやく大学を卒業した大樹の声が、無粋にも俺の夢想を掻き消す。


相変わらず、俺を苛つかせる事がうまい……。



「……いてっ! か、要先輩っ、なにするんですかっ!?」



「……うるさい」



春の陽気とぬるい風をその肌に感じ、ひらりはらりと俺の心に花弁を落とした桜蕊(さくらしべ)が舞い堕ちる――。



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