無限に廻るもの
病院の一室。
人の本質は善だとも言いたげな壁の白さに反射した陽光が、既に老眼となった私の目に入り込み焼いたような痛みを感じさせた。
ベッドに横たわる妻はまだ眠っていた。
まだ生きていた。
数え切れないほどの年月を共に過ごした彼女の肌は私と同じようにしわくちゃになり、その線の一本一本に私と彼女の歴史が刻まれていた気がした。
眠る妻の手の平をそっと包む。
それが妻に対する愛しさからか。
あるいはこれから妻と私が相対することになる死への恐怖からの行動だったのか分からない。
いずれにせよ、その感触で妻が目覚めた。
「あなた」
呼びかけられて私は微笑む。
「やぁ」
もう何千回、何万回私は彼女に呼びかけられただろうか。
子供の頃も、大人になってからも、そして今こうして死に直面した時でさえも。
故郷で、異郷で、過去で、現在で。
私が彼女に呼ばれた分だけ、私も彼女の名を呼び返していた。
「あなた」
彼女の目に涙が浮かぶ。
その雫から私は彼女が何を言おうとしているのか悟った。
病室が暗くなる。
雲が太陽を隠したのだろう。
「ごめんなさい」
死を目前にした彼女の謝罪。
私は片方の手でその頭を軽く何度か撫でた。
「やっぱり、怖い」
「誰だって怖いさ」
私の言葉に彼女はゆるゆると首を振ると赤子のようにぐずぐずと泣き出した。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。安心して」
そう言葉にして何度も何度も彼女の頭を撫でる。
「私も一緒だから」
いつの日か、伝えたあの言葉を今も繰り返す。
「私のせいで。本当にごめんなさい」
その言葉に私は首を振るだけに止めた。
最中。
私が握っていたはずの彼女の手は、撫でていたはずの彼女の頭は消失した。
彼女が寝ていたはずのベッドも。
私達が居たはずの病室も。
その全てが。
ちらりと見た私の肌から少しずつ皺が失われていく。
私は一つ息を吸い込み目を閉じた。
誰だって死は恐ろしい。
死より生還した人は居らず、それ故に何が起こるか分からないのだから。
死んでしまうと自分が失われて永遠に消え去るのだと聞いたことがある。
あるいはそうなのかもしれない。
では、消え去るというのはどういうものなのだろうか。
今、こうして考えている自分自身が消える感覚などいくら考えても分からない。
死んでしまうと生前の行いによって天国か地獄へ行くのだと聞いたこともある。
あるいはそうなのかもしれない。
では、地獄へ行ってしまえばもう永遠にそこで苦しむしかないのだろうか。
そもそも、良い行いだとか悪い行いというのは誰が決めるのだろうか。
生が満ちている頃には考えもしないものは、死が近づくにつれて少しずつ意識されていく。
そして、人は死から逃れることは出来ない。
いざ、死ぬときになり人は死への恐怖を受け入れるしかないのだ。
どれだけ恐ろしくとも。
だが、仮に。
もし、その道から逃れる方法があるとしたなら?
死を回避することが出来るとしたなら?
どれだけの人間が素直に死を受け入れることが出来るだろうか。
受け入れられず、死から逃れることを誰が責めることが出来るだろうか。
少なくとも私には出来ない。
何故なら、妻は幸運にも。
あるいは不幸にも。
死から逃れる力を持っていたのだから。
瞼の裏が明るくなる。
日曜日の太陽が身を包むのが分かった。
目を閉じたままゆっくりと視線を落とし、顔が地面を向いたと確信してから目を開く。
そこは何十年も前、初めて妻とデートをした公園だった。
より正確に表現するならば何百年も前と言うべきだろうか?
いずれにせよ、私は再び『戻ってきた』のだと知った。
「あなた」
声がしてそちらを見れば、まだ十代の頃の妻が泣きそうな表情で私を見ていた。
いや、より正確にはこの頃はまだ妻ではなく恋人か。
「ごめんなさい。やっぱり、私は……」
「怖かった?」
そう問いかけた私に対し彼女は震えながら頷いた。
何百年以上も共に過ごしたその女性が泣く姿が耐えられず、私はそっとその体を抱きしめた。
「大丈夫。私も怖かったから」
嘘じゃなくて本心だ。
私だって死ぬのは怖い。
それは妻の力により、何度も若い頃に戻り、何度も歳をとって老人になり、何度も死に瀕した今でさえも変わらない。
「だからさ、ありがとう」
「だけど、私のせいでまた……」
自分の恐怖により永遠に死ねないことを謝罪しようとした彼女に私は言った。
「今度はどんな人生にしようか」
それは再スタートの合図の言葉。
彼女の陰っていた表情が少しだけ明るくなったが、満面の笑みには程遠い。
それを屈託ない笑顔に変えるために私は言う。
「行こう。今度の人生は海外で過ごしてみたいんだ」
私は歩き出す。
彼女の手を引いて。
何百年も昔と同じ温かな日差しが私たちの一日を照らしていた。