【短編】王子様と乳しぼり!!婚約破棄された転生姫君は隣国の王太子と酪農業を興して国の再建に努めます
ソフィアは怒りと悲しみで震えた。それはもう、下品だと言われる赤毛が逆立つかってぐらい、全身に鳥肌を立てていた。
目の前で玉座に座り、カイゼル髭をいじる中年は見てのとおり王様。ソフィアの父である。その父から告げられたのは、
「どうか、従兄弟のエドアルドとの結婚はあきらめてくれ。エドアルドはおまえの妹のルシアと結婚させる。二人はだいぶまえから愛し合っているのだ」
子供のころからの許嫁と結ばれる予定だったのが、突然の婚約破棄。そういえば、妹とエドアルドは幼いころから仲良しだった。内向的で堅物のソフィアは距離を置かれていたようにも思う。ソフィアは妹とちがい、身長だって高すぎるし、顔もそばかすだらけ。それに、この真っ赤な髪をバカにされるのは常であった。
「案ずるな。おまえは代わりに別のところへ嫁いでもらう」
婚約破棄という事実に愕然としていたソフィアは、父王の言葉にホッとした。もともとエドアルドと自分は不釣り合いだった。おそらくそんなに好かれてもいないし、無理にくっつけないほうがいいという父の温かい心遣いだ。ソフィアはそう自分を納得させた。腐っても第一王女。ダークブロンドの碧眼令息ほどイケメンではなくとも、そこそこいい男をあてがわれるだろう。
だが、見通しの甘かったことにすぐ気づかされることとなる。王はシレッと無情な言葉を吐いた。
「ソフィア、おまえには隣国リエーブ王国へ行ってもらう」
「は!?」
「そこの王弟と結婚してくれ、このとおりだ、頼む!」
(王様の弟? いったい何歳よ? それに隣国って、ついこの間まで戦争してたとこじゃないの?……え? もしかして人質!?)
ソフィアの目は泳ぐ。父王の横でエドアルドと仲睦まじく腕を組み、ニヤニヤしている妹ルシアと目が合った。ソフィアは思わず目をそらしそうになってしまう。二人ともおそろいの青い目にブロンド。キラキラしてお似合いだからだ。ルシアは逃げようとするソフィアの視線を追いかけてきた。
「お姉様、よかったわね! 王弟……公爵と結婚できるなんて! 隣国は戦争でボロボロらしいけど、悪運強いお姉様ならなんとかなると思いますわ……う、くくく……」
そんなことを言ってエドアルドの腕に顔を押し付け、笑いをこらえる。エドアルドもエドアルドで、
「君にふさわしい相手が見つかってよかった。僕たちの結婚も祝福してくれると嬉しいな」
などと言ってくる。
「んもぉー、エドアルドったら、そんなこと言ったらお姉様がかわいそうよ? なんでも隣国の王弟って、ゴリラみたいに大きくて髪も真っ白な奇人なんですって。いくらお姉様でも、お気の毒だと思うわ」
ルシアは巨乳をエドアルドの腕に押し付け、エドアルドはうしろに回した手でさりげなくルシアの尻を触っている。イチャつきながら、ソフィアを嘲る二人はとても楽しそうだった。もうすでに肉体関係もあるのだろう。
ソフィアはほつれた赤い髪を耳にかけた。この髪のせいでさんざん馬鹿にされてきた。珍しい髪色はこの国では差別の対象だ。そして、ソフィアには断るという選択肢がなかった。父王の言う提案を否応なしに受け入れ、
「良い相手を探してくださり、ありがとうございます」
と、礼まで言わねばならなかったのである。理不尽すぎる。停戦状態の貧乏な敵国に人質として嫁がされるなんて。
「受けてくれるか? 隣国は寒く、食糧難だそうだから身体に気をつけてな。それと、相手の王弟は見た目が奇異なだけでなく、気難しく偏屈だと聞いている。くれぐれも怒らせないように。まあ、おまえも生真面目で堅苦しい性格だから、案外合うだろう」
ふくよかで温和な父王はかわいげのないソフィアを疎ましく思っている。もしも、ふたたび戦争になったら、わたくしはどうなるのですか?──という一言をソフィアは呑み込んだ。そんなこと、聞かなくてもわかりきっている。
トボトボ、王の間をあとにすると、ルシアの派手な笑い声が聞こえた。
「持参金なしって、それ本当ですの!? さすがにお姉様でもかわいそう!」
「仕方あるまい。敵国には一銭たりとも支払いたくないのだ」
「プッ……ククク……でも、お父様。よかったですわね、いい厄介払いができて」
ソフィアはルシアの高笑いを背に自室へ戻った。
※※※※※
こんなはずではなかった。転生したら、薔薇色の未来が広がっていたはずなのに──
隣国行きの馬車に揺られるソフィアはこれまでのことを思いだしていた。
転生前のソフィアは大手菓子会社に勤めるOLだった。新商品を開発する研究部門で忙しい日々を送っていたのである。毎日、仕事仕事の仕事人間。ワーカホリック。三十手前で恋人もいない。昔から成績良く生真面目、ストイックなところがあった。
前世の記憶は一人暮らしの自宅で発泡酒を飲んでいたところ、急に胸が痛くなったところで途切れている。おそらく、遺伝性の心臓疾患を抱えていたため、突然の発作で死んでしまったのだろう。
お姫様に転生したら、皆にチヤホヤされて、イケメン王子と結婚できると思い込んでいたのは大間違いだった。かわいがられるのは金髪碧眼、低身長、巨乳の妹ルシア。おまけに無邪気、天真爛漫ときている。対するソフィアはこのように醜い赤毛だし、ガリガリの高身長、そばかすだらけ。前世と同じで面白みがなく、無愛想。
(これだったら、仕事人間だった前世のほうがマシじゃない)
色恋沙汰に縁のない干物女ではあったが、仕事は楽しかった。公務やら社交より、研究職のほうが自分は向いていると思う。少なくとも、妹ルシアのような陽キャのギャルにイジメられる経験はせいぜい中学生までだった。
結婚相手は奇人らしいし、敵国だから何をされるかわからない。これから先の暗い未来を憂いて、ソフィアは溜め息をついた。
馬車の窓から見える大地は荒れ果てている。父王が言っていた食糧難とは本当のことらしい。ボロをまとった農民がフラフラ歩いていたり、農道を歩く人たちには生気がない。
城下町に入っても、活気のない淀んだ空気は変わらなかった。あちらこちらに壊れた建物があるのは、復興もままならない証拠だ。
(先行き暗いなぁ……)
当然、民衆からの厚い歓迎も受けず、暗鬱な気分で城に着いた。石造りの城は立派だ。そりゃあ、王城なのだから当然よね、とソフィアは呟く。生まれ育ったグーリンガムの王城とは違い、城壁は高く守りに徹した造りになっている。実家のほうは漆喰で白く塗られていて、鉛筆を思わせる三角屋根の塔がいくつもあり小洒落ていた。ここは全体的に四角い。石の壁も剥き出しで色気もヘッタクレもない。
(いや、こっちのほうが何かあったとき守れるし、実用的だけどさぁ……)
ソフィアだって十六の女の子だから、かわいらしいものに憧れる。着ているドレスがグレーで質素なのはみじめだ。これでは嫁入りというより、親戚の法事に顔を出した感じである。
王の間にて、ソフィアは冷めた気持ちで待っていた。奇人といわれる結婚相手でも、せめて人間の形ぐらいはしているだろう。こんな自分の結婚相手だし、人並み以下であるのは間違いないが……
だから、輝く銀髪をなびかせ、モデル体型の彼が入ってきた時は腰を抜かしそうになった。
(え、なに? ハリウッドスター!?)
そのレッドカーペットを歩いていそうな人が王子様スタイルのジュストコールに身を包み、目の前に現れたからソフィアは泡食った。この人に比べたら、元婚約者のエドアルドなんか一般人のチャラ男である。
「リヒャルト・ヴィルヘルム・フォン・ラングルトだ。お待ちしていたよ、ソフィア姫」
(なに? このずっと聴いていたいちょっと掠れた低音は……声までイケメンかよ!)
すっかり動揺してしまったソフィアは挨拶も忘れ、その場に立ち尽くしてしまった。しかも、規格外のイケメンはこちらを凝視してくる。蛇ににらまれた蛙……いや、ハイパーイケメンににらまれた陰キャ女子は石化した。
「ソフィア姫? どうされた?」
「……ハッ……し、失礼いたしましたっっ!! わ、わたくし、グーリンガム王国のソフィアと申しますっっ!! 以後、お見知りおきをっっ!!」
極度の緊張と混乱状態にあるソフィアはこんな意味不明な自己紹介をしてしまった──以後、お見知りおきを……ってなんだよ? 戦国武将に初めて謁見した有能軍師か?──ソフィアが一人でノリツッコミしつつ、王弟リヒャルトを見ると、案の定ポカンとしていた。
「すっすみませんっっ!! わたくし、このような場が初めてなものですからっ! ご不快でしたら、どうぞ邪魔な壁掛けとでも思っていただいて結構です。なるべく隅っこで、お目汚ししないようにいたしますので!!」
「なんてことを言うんだ、君は?」
ポカンとしていたリヒャルトが怒を発したので、ソフィアは「やってしまった」と思った。
「失礼いたしました……ご無礼を……」
「無礼なものか。ソフィア……手を出して」
表情が和らいだと思ったら、リヒャルトは長い睫毛を伏せ、ひざまずいた。睫毛まで銀色だ。ソフィアは手背にキスをされた。銀色の瞳に吸い込まれる。
「よく、我がリエーブ王国に来てくれた。歓迎するよ、美しき花嫁」
(美しき……今、美しきって言った!?)
「あいにく国王陛下……私の兄だが、病床に伏していてね、これから共に挨拶へ行こう」
立ち上がったリヒャルトが当たり前のように肘を突き出し、横に並んだのでソフィアはまたも混乱した。これはたぶん、エスコートしますよ、という合図なのだろうが、父王ですらソフィアと腕を組んで歩いてくれたことはあまりない。いつも、同伴させるのは母か妹のルシアだ。ましてや、元婚約者のエドアルドが腕を組んでくれたことは一度だってない。
ソフィアはリヒャルトのたくましい腕に自分の腕を絡ませることができなかった。
「そうか……私は敵国の王弟。腕も組んではくれないというわけだな……嫌われたものだ」
「い、いえっ……そういうわけでは……」
冷たい横顔のリヒャルトはあからさまに落胆していた。なにか失礼な態度を取ってしまったかと、ソフィアはビクビクする。その後、リヒャルトの態度はよそよそしくなり、ソフィアたちは無言で長い回廊を歩いた。
王との謁見は二言三言、言葉を交わして終わった。病の状態は深刻で起き上がることもできなかったのである。王の代わりに公務をこなし、政治的な役割を果たしているのはリヒャルトのようだ。この様子だと長くは持つまい。王には子供がいなかった。ということは、王が亡くなったあとはリヒャルトが王になり、ソフィアは王妃になる。
「若いからとナメられることも多くてね、そのうえ黙ってはいられない性分だから、悪く言われているかもしれない。君が冷たい態度を取るのは、悪評のせいもあるのだろう?」
「……いえ、あ、その……」
「正直に言ってよろしい。気遣いは不要だ。君の国で私はどのように言われていた?」
「奇人で気難しく偏屈と……」
「ふっ……当たってるじゃないか……で、君は実際に会ってみてどう思った?」
「とても綺麗な人だと……」
ソフィアは言ってしまってから「しまった」と思った。しかし、リヒャルトは切れ長の目を大きく開き、ソフィアの顔をのぞき込んできた。
「あっ……また失礼なことを……ごめんなさい」
ソフィアの顔は高熱が出た時みたいに熱く、どうにかなってしまいそうだった。彼と目を合わせていられない。綺麗だなんて、男性に伝える誉め言葉ではなかった。
「どうか、顔を上げて。私は怒っていないよ」
ソフィアはおそるおそる顔を上げた。リヒャルトの整った顔が真ん前にある。キスしようと思えば、いつでもできる距離だ。ソフィアはまた固まった。
「綺麗だなんて言われたのは初めてだから、驚いてしまった。いつもは冷たいだとか、近寄りがたいとか、尊大だとか言われるからね。君、ほんとにそう思ってるの?」
「ええ、それは間違いありません!……すみません、男の方に言う誉め言葉ではありませんね……」
リヒャルトの目元が優しく弧を描いた。顔から微光を発しているのではないかと錯覚する。これは……天界人だ──彼が声を立てて愉快そうに笑わなければ、ソフィアは本気でそう思っていたかもしれない。
「ふふっ……ふははははは……君は本当におもしろい人だね」
「そ、そうでしょうか? よくつまらないと言われますが……」
「それにその髪! 情熱的でセクシーで……思わず見とれてしまった!」
「は!? 情熱的!? せくしー!?」
赤毛をそんなふうに誉められたのは生まれて初めてである。これまで、みっともない色だと言われ続けてきたのだ。ソフィアは全力で否定した。
「ないないないないない!」
「なにがないのだ??」
「わたくしの醜い赤毛をディスるのはやめてください。汚い、恥ずかしいと、幼いころからさんざん言われ続けてきたんですから!」
「ディスる……?」
「とにかく、わたくしの髪は汚いんです! 顔だってそばかすだらけだし、いいとこなしなんですから無理に誉めないでくださいっ!」
ありえない展開に溺れるのは危険だと、ソフィアの体内では警戒アラートが鳴り響いていた。
(絶対にありえないっ!! こんなイケメンがわたくしのことを褒めるなんてっっ!! きっと、からかってるんだわ!)
背を向けたソフィアに対し、リヒャルトの悲しげな声が追いかける。
「すまない……本当に思ったことを言っただけなのだが……どうか、嫌いにならないでほしい」
(えっ!?)
ソフィアが振り向くと、リヒャルトはちょうど、うしろを向いたところだった。
「侍女を数人与えよう。部屋の案内は彼女たちにさせる。わからないことは全部侍女に聞けばいい。そこでしばらく待っていてくれたまえ」
リヒャルトはもうソフィアのほうへは向かず、ズンズン行ってしまった。
※※※※※※
ソフィアがリエーブ王国に来て、数日が過ぎた。ドレスは何着も作ってもらい、赤毛は毎日丁寧に結い上げられる。
実家の王城にいた時とは雲泥の差だ。妹ばかりがドレスを作ってもらい、ソフィアは「必要ないでしょ」「興味ないでしょ」と勝手に決めつけられ、ときに使用人と間違えられるぐらいの装いだったのだ。あてがわれた侍女は一人だけ。それもかなり老いた人だったので、髪結いも手が震えてうまくできず、いつもソフィアはボサボサの頭をしていたのである。その侍女も、城の者を持ち出すなという訳のわからぬ理由で連れてくることができなかった。
実家で唯一優しかった侍女にソフィアは手紙を書いた。こちらは毎日湯浴みもしてもらっているし、信じられないくらい良い待遇なので心配はしなくていいと。
しかしながら、不安材料はいくつかある。まず、入城するまえに見た荒れた農地や王都の荒んだ状態だ。実家の王国よりこちらのほうが貧乏かと思われる。
(それなのに、こんなに贅沢させてもらっちゃって大丈夫なの??)
それともう一つ。結婚後、夫のリヒャルトが一度も寝室を訪ねてこない。これはもしや、白い結婚なのでは?……とソフィアはおびえた。
(そりゃあ、わたくしが女性としての魅力に欠けるのはわかるけど、あんまりだわ……)
OL→王女→公爵夫人に転生しても、干物女という悲劇……
とにかく国の運営は厳しいのだから、状況だけでも把握したい、無駄な贅沢をしている場合ではないとソフィアは思った。
晩餐の席には必ず同席するので、今日こそは聞き出そうとソフィアは心に決めた。
晩餐の長テーブルは二十人は座れる大きさだ。マナーとは不思議なもので、その長テーブルの両端に夫婦は座る。距離にして七メートル。
(ただでさえ、話しかけるのはハードル高いのにこの距離は無理ゲーだよ)
前世より、ソフィアは発表やプレゼンが苦手なタイプである。さらに話しかける相手はハリウッドスターばりのハイパーイケメン。
大臣、宰相といったお偉いさんが同席することも多いのだが、今日は幸い二人きりだった。これは行くしかあるまい! 当たって砕けろだ!
「リ、リヒャルト様っっ!」
手を上げ、発表のごとくソフィアは声をかけた。リヒャルトは突然の発言にひるんでいる様子だ。銀睫毛をパチパチさせている。あれ? 案外、離れていたほうが平気かも──ソフィアは勢いづいた。新事実。イケメンは遠距離のほうがまだ話しやすい。
「どうしたのだ? なにかあったのか??」
「国の財政について、詳しく教えていただきたいのですっ!」
「……藪から棒に何を言うのかと思えば……」
「現在、陛下に代わり、国の運営を任されているのはリヒャルト様でしょう? ならば、その妻であるわたくしも知る権利があると思うのです!」
「ふむ……」
リヒャルトはしばし、両手の人差し指同士をかち合わせて思考した後、わかったと承諾した。
「その代わりといってはなんだが……明日、農地を視察するんだ。よろしければ、同行していただけないだろうか?」
「もちろん、喜んで!」
ソフィアの緊張は解けた。イケメンでも話そうと思えば、話せるものである。数メートル離れた距離からなら……。
翌日、ソフィアは荒漠とした領地の酷い有り様を目の当たりにした。作物の育たなくなった荒れ地が山肌をえぐり延々と続いている。入国時、馬車からチラッと見てはいたが、実際に立ってみると凄まじい寂寞感だ。ソフィアはしゃがみ、黒くパサパサした土を手に取った。
「焼畑ですか?」
「よくわかったな。陛下がまだお元気だったころ、農奴を解放し、それまで国で管理していた土地を民に与えた。農作物販売を自由競争させ、現物税から貨幣税に変えようとしたのだ。しかし、焼畑農業が横行し、土地は荒れ果ててしまった」
なんということだ。無理に近代化を進めようとしたため、失敗してしまったのだ。
「今は焼畑を禁止している。一度、荒れてしまった土地はなかなか元には戻せぬが……」
「焼畑自体が悪いわけではないです。充分な休耕期間を設けずに次から次へと森林伐採をするのがいけないのです。焼畑後、作物が取れるのはせいぜい四年。その後、十年も二十年も土地を休ませなければいけません。森林が有り余っているならともかく、効率のいい農法とは言えないでしょう。ちなみに焼畑後はどのような利用を?」
「イモ類や麦、あとは牧草地にしたりしている」
「なるほど……牛は放牧しているのですか?」
「いや、放牧には広大な土地が必要だ。新たに森林を切り拓かないといけないから、牛舎で飼育している」
ソフィアは牛舎を見せてもらうことにした。外観はボロボロの掘っ建て小屋だ。窓も足りない。やはり、思っていた以上に牛は劣悪な環境で暮らしていた。狭く、不衛生な環境だから病気も蔓延しやすいだろう。こういった家畜の世話は奴隷に任せきりであり、ろくに監督されていなかった。
悪臭漂い、ハエが飛び回る牛舎内へ平然と入っていくソフィアにリヒャルトは吃驚していた。腕をつかまれ引き返すよう促されるも、ソフィアは断った。ソフィアの脳内では様々な改善策や新たなアイデアがひしめき合っていて、リヒャルトの反応など気にもならなかったのである。
やってしまったと気づいたのは牛舎を出てからだ。口を半開きにし、呆けるリヒャルトを前にしてソフィアはようやく我に返った。ハイパーイケメンでもこういうマヌケ顔は愛嬌がある。
「申し訳ございません! リヒャルト様……わたくし、つい夢中になってしまいまして……」
「……で、なにかわかったのか?」
「いくつか疑問点がございます。今見せていただいたのは、肉牛専用の牛舎ですよね? 堆肥は肥料として利用してないのですか? それと、いただいた地図つきの資料で気になる所がありました。各地の牧草地で酪農をしている農家が一件もないのです。なぜでしょう?」
「えっと、まず堆肥は運搬などのコストがかさむため、廃棄しているようだ……酪農とは?」
「乳牛を育て、牛乳を加工販売する農業です」
「乳牛? 牛の乳のことか? 肉用の牛はいるが、牛の乳はその子供のためのものだ。乳を取ったりはしない」
ソフィアはハッとした。転生してから、乳製品の類をあまり口にしてなかったことに気づく。もしや、この世界には乳業がない!? 古代から飲用されていたとはいえ、前世の世界でも乳業が産業として確立したのは、十八世紀以降だったと記憶している。
(なんだか、食事がすごーく物足りないというか、味気ない感じがしていたのよね……そうか、これか! これだったんだ!)
「リヒャルト様、念のためお聞きしますが、牛乳を飲まないのは宗教上の理由などではないですよね?」
「ああ、母乳が出ない母親なんかは動物の乳を使ったりもするし、貴族や王族の料理には使用されることもある」
「……では、酪農業を新しい産業として興しましょう。肉牛よりも放牧地は狭くて済みます。牛舎は解放します。放牧して堆肥を自然へ返すのです。穀類、牧草、休閑と輪作もさせましょう。そうすれば、土地が痩せることはありません」
仕事上なら、イケメン相手でも堂々としていられるのは転生前からだ。ソフィアは前世の仕事人間ぶりを発揮した。畜産系の大学にいたから、農業、畜産の知識は多少ある。リヒャルトはソフィアの知識量に圧倒され、提案を呑んでくれた。農家が自立できるようになるまで、国側で指導することが決まり、荒れ地は国が買い取ってソフィアが牧場経営させてもらうことになった。
「ソフィア……君はいったい……」
「醜い妻ですが、お役に立てさせてください」
「君は醜くなんかないさ」
その晩、ソフィアとリヒャルトは一夜を共に過ごした──
数年後、禿山には緑が戻り、肥沃な農地と牧草地が広がっていた。リエーブ王国は完全に再興したのである。一方、ソフィアの実家、グーリンガム王国は深刻な飢饉に悩まされ、民衆が王権に反発するようになった。蜂起した反政府軍は王城を占拠し、ソフィアの両親は国外逃亡中に死亡した。元婚約者のエドアルドと妹のルシアは処刑されたと聞いている。
ソフィアとリヒャルトは今日も仲良く乳しぼりだ。管理する者、業務の隅々までおろそかにするべからず。農地を農民任せにしてしまったため、土地は荒れ果ててしまった。上に立つ者であっても、すべて把握すべきとソフィアは考えている。ソフィアは王となったリヒャルトにもたびたび、畜舎の清掃や牛の世話などを体験させた。
「あ、リヒャルト様! もうちょっと、上! 乳首の根元をしっかり握って……こうです!」
「ん。こうか?」
「あっ、あっ! きゃーーーー!! 突然ひっかけるなんて、ひどいです……」
リヒャルトの絞った乳がピューーーッとソフィアの顔面を直撃した。白濁液にまみれたソフィアは口の周りをぺろぺろ味見して「あら、おいしい」と笑顔になる。ソフィアの育てた牛の乳は上質だ。チーズやバター、ヨーグルトなどの加工業も好調。他国へ輸出もしている。
「まったくもう、行儀が悪い」
そう言いつつも、リヒャルトはソフィアの顔を拭ってくれた。優しい旦那様はソフィアの大きくなった腹をなでる。
「乳搾りの姿勢は腹の子によくない。もう、王城へ戻ろう」
「いいえ、新製品のチーズを試食しなくては。陛下一人でお戻りください」
「そういうわけには、いかぬよ」
リヒャルトは立ち上がるなり、ソフィアをお姫様抱っこした。不意打ちだ。だが、もうソフィアは動じない。遠慮なく愛する夫の首へ腕を回した。イケメン恐怖症は完全に治っている。少なくとも夫には発動しない。
リヒャルトに抱かれ、幸せいっぱいのソフィアは牧場をあとにした。