【9】ごはんはおいしくアゲていこ?
「料理だと!? お前は俺の話を聞いていなかったのか!?」
ヒビキが難しい顔であたしを見る。
彼が怒るのは仕方がない。あたしは今、魔界の空気を読むどころか、引きちぎってるから。怖いな。怖いよ。こんな魔界のど真ん中で空気を読まないのは、油断すると、涙ぐんでしまいそうに、怖い。
でも、それでも。
決死の思いで、あたしは続けた。
「あのね、ヒビキ。あたしってバカだけど、知ってることもいくつかあって。そのひとつがごはんのことなの。ごはんはぜーったい、美味しいほうが、いいっ!!」
「だからなんだ、生肉は美味いだろうが!!」
「美味しいよ、美味しいけど、ランドウは無理してるもん!!」
あたしはランドウを指さしてまくしたてる。視界の端で、ランドウがフォークを持ったまま固まっているのが見える。ドン引きされてるかもしれないけれど、ここまで来たら全部吐き出すしかない。
あたしは覚悟を決めて続けた。
「嫌いなものをすっぴんでぶつけても、ふつー好きにはならないよ。ちゃんとお肌作って盛りメイクしたほうがアガるのと同じ。生肉苦手なら、料理しよ? まずは料理したお肉をおいしく食べて、お肉とごはんのイメージアゲてこ? あたし、手伝うから!!」
「……お前は、自分が俺より上だと思っているのか」
ヒビキの声がうなるように響いて、あたしは、はっとする。
「そんなこと……」
「何が料理だ。花嫁だと思って甘くしていたら、つけあがりおって!!」
ヒビキの髪がぶわりと広がり、目がぎらぎらと野性じみた光を宿す。喉の奥からぐるる、と獣のうなりが漏れた時点で、あたしは本能的な恐怖に支配された。
「ひっ……!」
あたしはおびえて、一歩後ろへ下がる。
同時に、ヒビキが床を蹴った。
跳躍。
ヒビキの体が宙に浮く。とんでもない身軽さで、あたしへと飛びかかってくる……!!
避けられない、と思った、直後。
「落ちろ」
ランドウが、恐ろしく低い美声で告げる。
ほとんど同時に、ヒビキの体があり得ない速度で垂直落下した。
ドンッ、と、鈍い音。
「ぐうぅ!!」
本来の着地予定点よりかなり手前の床に、ヒビキがたたき付けられる。まるで空中に巨大な手のひらが出現し、ヒビキを叩き落としたみたいな動きだ。
あたしは驚きのあまり、すっかり固まってしまった。
ヒビキはすぐには起き上がれず、うめきながら倒れ伏している。
ランドウは優美なくらいの所作で立ち上がった。
「ラン、ドウ……」
あたしはすがるみたいにランドウを見る。絞り出した声は、かすれていた。
ランドウは冷えた靴音を立ててヒビキの横を通り過ぎ、あたしの横に立った。ランドウが近くに来てくれると、あたしはやっと呼吸が楽になるのを感じる。というか、今まであたしはガチガチに固まっていたんだ。今、やっとわかった。
あたしが小さく深呼吸していると、ドレスの袖に軽い力がかかる。
なんだろう、と見下ろすと、ランドウの指先があたしの袖をつまんでいた。
――なんで、袖?
びっくりして見上げると、ランドウは真顔でヒビキを見つめている。
「ヒビキ」
「っ……はい」
ヒビキは必死に顔を上げようとするが、まだ体が自由に動かないようだ。さっきの『落ちろ』が魔法だったのだろうか。魔族の魔法を間近に見ることなんて滅多にないから、あたしにはよくわからない。
わかるのは、ランドウが圧倒的強者である、ということだけ。
這いつくばったままのヒビキを前に、ランドウは王者の声で囁く。
「わきまえろ」
「はっ……申し訳ございませんでした、我が君……っ。そして……花嫁……ディアネット様、も……失礼をお許しください……」
ヒビキは謝罪してくれるけれど、まだまだ酷く悔しそうだ。
ランドウはそんなヒビキを横目に、あたしに向き直った。あたしを見下ろす美しい紫色の瞳が、今はひどくつめたく見える。
「我が花嫁。下僕はこのように言っている。罰はどうする?」
「どうする、って……」
繰り返しながら、あたしはぶるりと震えた。
人間界の王宮では、あたしが『むち打て!』と叫んだら、すぐに誰かが誰かにむちを振るった。多分――この、魔界の王宮も同じなのだ。
あたしには、力がある。
今さらだけど、それってすごく、怖いことだ。一歩踏み外したら、あたしが死ぬくらいに、怖いこと。どうしよう。なんて言おう。
ここに、セラフィーナはいない。
いるのは、あたし。
あたしと、ランドウと、ヒビキ。
それだけ。
――あたしは、どうしたい?
あたしは一度強く目を閉じてから、開く。そして、笑った。
「全然気にしないでヨシでしょ~。ね、ランドウ?」
なるべく明るく言って見上げると、ランドウはどこかまぶしそうに目を細める。
「本当にいいのか? 甘くしているとヒビキはつけあがるぞ。まだ分別のない子犬なのだ」
「人間的に二百歳は分別つきまくりだよ。きっと、罰なんてなしでなかよくできる。それにあたし、ヒビキには恩ありまくりだから、罰するなんて言えないんだ」
「恩?」
ランドウが不思議そうに首をかしげた。ヒビキも、視界の端で意外そうな顔をしている。
あたしはくるりとランドウに背を向けると、しゃがみこんでヒビキに声をかけた。
「十年間、ランドウを待っててくれたこと。ありがとね、ヒビキ」
ヒビキは這いつくばったまま、驚いた顔であたしを見上げる。
あたしはしみじみと目を細めて続ける。
「あたしも、十年以上前に家出っぽいことしたんだ~。けどね、多分誰もあたしのことは待ってない。さみしいけど、しょーがないと思ってる。ちゃんと友だち作れなかった、あたしがいけない。……多分ランドウも、ちょい似てると思ってて」
あたしが思い出すのは、前世のことだ。人間世界で誰かあたしを待っているビジョンはまったく見えない。親くらいは待っててくれるかもしれないけど、十年以上経ったら忘れ去られている気もする。あたしは大していい子じゃなかったから。
だから多分、ランドウの気持ちは、ちょっとだけわかる。
「魔界でバイブス下がることあって、人間界で好きなことやって。それなりに楽しくて。なのにあたしの命を助けるために、魔界に戻って来ちゃって。魔王城はこんなにがらんとしてて。あたしのせいだな、って。あたしがギリギリで告ったりしたから……」
あたしはうっすらと笑って、うつむいた。
あたしの指にはまった指輪が見える。ロビンキャッスル家に代々伝わるという指輪にはまった石が、じっとあたしを見つめている気がした。
最後の最後で、大好きな人に重荷を押しつけたかもしれない、あたしを。
「ば、バカ、なんでそこで暗くなる!? 自分の命が助かったなら、素直に喜べ!! か弱き人間なんだから!!」
ヒビキは跳ね起き、慌てふためいた様子だ。
優しいなあ、ヒビキ。あたしは涙目になって、ヒビキを見つめる。
「あり、がとぉ……。でもさぁ。でも、さぁ。ヒビキがいて、よかったよぉ……ランドウにヒビキがいてくれて、あたし、よかった……」
言い終えたら、ぼろぼろっと涙がこぼれる。
あたしは魔界で、怪しい部屋の骨の寝台で目覚めた。おびえすぎずに済んだのは、ヒビキが元気に迎えてくれたからだ。あたしのお腹が減ったことに、一番に気付いてくれたのもヒビキだった。生肉とは言え、食事を出してくれたのも、ヒビキだった。
ヒビキがいたから、がらんどうの魔王城も怖くなかった。
きっと、ランドウもそうだと思う。
「ありがとね。ありがとねぇ……」
しくしくと泣きながら繰り返していると、ヒビキはギリギリと歯ぎしりの音を立てて後ろへ下がる。
「ば、バーかバーカ!! こんなことで魔族なんかに胸襟を開きおって、人間というのは本当に愚かだな!」
「だってぇ、ヒビキ絶対いい子だしぃ……」
「だーからぁ!! どこにそんな証拠がある!? いいかげんにしろっ! あーー、頭がおかしくなりそうだ!! どうしたら泣き止む? 料理か? 料理したければ、すればいいだろう!!」
「えっ、いいの!?」
あたしはがばっと顔を上げた。そんなあたしに、ヒビキは釘を刺してくる。
「ただ、台所はないぞ」
「へ?」
目を丸くしたあたしに、ヒビキは告げる。
「解体室はあるが、台所はない。……とりあえず、解体室を見るか?」