【4】人間界の皇子と悪女は地団駄を踏む。
ディアネットとランドウが魔界に消えた翌朝。
人間界一の強国、リュバン帝国の皇宮は荒れていた。
「魔王だった……だと……!?」
クリスタルで飾られた謁見の間で、アライアス第一皇子が怒鳴る。
老魔道士は、額を床にすりつけた。
「はい……! あの魔力は明らかに唯一無二、今代の魔王、ランドウのものでございました……」
「ございました、で済むか!! それで済むなら、貴様のようなジジイは解雇して見目麗しい乙女を雇うわ!!」
「はっ、ごもっとも……!」
老魔道士はまったく頭を上げられない。
アライアスはイライラと巨大な花瓶の花をむしった。
アライアスは元より少々愚鈍で高慢と評判の第一皇子である。
ついこの間まで次代皇帝は第二皇子か第三皇子であろうと思われていたが、なんだか調子よく次々病死してしまった。あげく現皇帝も病に伏し、あれよあれよという間にアライアスの権力は皇帝並みに急上昇。アライアス本人も舞い上がっているところへ、こんな事件が起きたのだ。
浮かれた気分を一気に叩き落とされたアライアスは、主要な臣下を集めた謁見室で最高位の老魔道士をつるし上げている。
「一体どういう手抜き警備をしたら、あの大事な処刑の場に魔王の侵入を許すのだ? ええ?」
「それが……」
「せめてはっきり言い訳せんか!!」
青筋を立てて怒鳴り、アライアスはちぎった花を老魔道士に投げつける。
そこへ、沈みきった麗しい声がかかった。
「殿下……お労しや。お怒りになるのはごもっともですわ」
「おお、セラフィーナ! よく来てくれた!」
アライアスはあからさまに明るい顔になって両手を広げる。
アライアスお気に入りのセラフィーナは、誰がどこから見ても美しい女だ。ディアネットのように奇抜な格好もしないし、身の程知らずでもないし、理解不能なことも言わない。
今日も長い銀髪を優雅に揺らし、居並ぶ帝臣の間を歩いてやってくる。
「申し訳ございません。あんなやり方で魔族に命を狙われた殿下のことが、心配で心配で……セラフィーナ、部屋でじっとしていることができませんでした」
「なんと可愛いことを言ってくれるのだ……セラフィーナよ、近くへおいで」
アライアスは見る間に恋する者の目になって、セラフィーナを抱き寄せた。
セラフィーナはぐったりとした様子でアライアスの胸に体重を預け、耳元に囁きかける。
「本当に無事で何よりです、愛しい殿下。あの汚らわしい魔王が、ずっと皇宮の隅に潜んでいただなんて……本当に、おかしくなってしまいそう」
「……何? 魔王が、ずっと、皇宮に、潜んでいた?」
ぴくり、とアライアスの眉が上がった。
老魔道士は、慌てて跳ねるように顔を上げた。
「そ、それは、今から申し上げようと思っていたところでして」
「ほう? ならば言ってみろ」
アライアスは怒りで赤くなるのを超えて、赤黒い顔になって言う。
哀れな老魔道士はほとんど死人の顔色になり、必死に申し立てた。
「ど、どうやら魔王は、五年ほど前から、三級魔道士に化けて皇宮に潜り込んでいたようなのです」
「ほう……? つまり、お前達は昨日だけでなく、五年間も騙されていたと? なぜだ?」
殺気を含み始めたアライアスの声に、老魔道士はぶるぶると震えた。
「そ、そそ、それがですね……。ランドウはさらに何年も前から城下町に住み着き、きちんと賃仕事をしながら魔法を勉強し、三級魔道士試験に合格したようなのです。魔法でのごまかしなどは一切ございませんで。我々も、まさか魔族が、そんな地味で地道なごまかしができるとは想像もつかず……!!」
「そうか。五年間、魔王は我らのあらゆる国家機密を盗み聞きし放題で?」
「は、はい……」
「さらに、罪人をさらってまんまと魔界に帰ったと……?」
「さようでございますっ……!! いかなる罰もお受けいたしますっ!」
老魔道士は硬い床に勢いよく額を打ち付ける。
それくらいでアライアスの怒りは収まらず、皇子は勢いよく巨大な花瓶を蹴り倒した。這いつくばった団長に水と花瓶の破片が降り注ぎ、臣下たちがどよめく。
「ふざけるな!! 処刑だ処刑!! 我が国の恥を、死をもってあがなえ!!」
怒鳴り散らすアライアスを、横からそっとセラフィーナが支える。
「殿下、お怒りはごもっともですわ……! けれど、ディアネットの魔界堕ちは小気味よいと思えませんか……? きっと今頃、魔界の業火に焼かれるか、魔王に血をすすられているはずですから……」
「そうだな、そう。ディアネットのことを考えよう。魔界はあの女には似合いの行き場所だ。そうだ、我々には与えられない屈辱と苦痛が、魔界にはあるはずだ……」
少しばかりアライアスの声のトーンが落ちた。
どうかこのまま収まってくれ、最高位魔道士を処刑しないでくれ――と、周囲の臣下たちは必死に祈る。
最近十年ほどは魔界からの侵攻がなかったとはいえ(魔王が人間界でおとなしく魔道士などしていたのだから当たり前だ)、魔界と人間界は常時戦争状態だ。
最前線に立つ魔法兵団の兵力を削ぐなど、自殺行為である。
セラフィーナもまた、騒ぎをこのへんで収めたかった。
(魔王のことは終始計算外だったけれど、ディアネットを厄介払いできたんだから、私的には問題ないわ。皇子も帝国も私がもらうわね、可哀想で可愛いディアネット)
悲しげな表情は顔の皮一枚で、心の中ではぺろりと舌を出す。
それがセラフィーナだ。
セラフィーナはそもそも貴族ではない。田舎町で生まれ、自分の美しさにうぬぼれて「私は帝国の玉座に座る価値がある」とまで思いこんだ女だ。
実際彼女は美しかった。触れれば壊れてしまいそうな繊細な容貌に、音楽的な声。その二つを倫理観ゼロの心で操れば、老若男女がバタバタとやられてしまう。
というわけで、セラフィーナが田舎から家出し、城下町最下層の娼館に潜り込み、客の貴族に取り入って養女になるまではすぐだった。
そのあとは、すかさずディアネットを捕まえた。
(あなたは私が欲しかったものを全部持っていた。家柄、財産、愛らしさ、正直さ。私は私にないものを持っている女が大嫌い。だから全部奪ってあげた)
少し優しくしてあげれば、大喜びでついてくるディアネット。
その清らかさを見るたびに、セラフィーナはたまらなく黒い感情が湧いてくるのを感じたものだ。この女から全部奪ってやる。そう決めたセラフィーナは、ディアネットを愚かで邪悪な貴婦人になるよう誘導し、その裏でこっそり私腹を肥やし、人脈を作った。
そうしてついに第一皇子を手に入れたから、ディアネットはもう要らない。
今頃ディアネットは魔界でどんな苦しみを受けているのだろう?
魔王に食いちぎられて、もうすっかり腹の中かもしれない――。
邪悪な妄想を味わって内心舌なめずりするセラフィーナの耳に、かぼそい老魔道士の声が届く。
「ディアネット様は、生きておられます」
「は?」
なんだろう。耳がおかしくなったのだろうか。
セラフィーナが『らしくない』声を出して凝視していると、老魔道士はおずおずと顔を上げた。
「現在の魔界を観測した結果、魔王の魔力のいちじるしい増大をとらえることに成功いたしました。原因はおそらく、魔王と人間、つまりはディアネット様との結婚でございます」
「なん……だと……?」
横で、アライアスの顔がこわばっている。
自分の顔も同じくらいこわばっているだろう、とセラフィーナは思う。
老魔道士は震えながら続ける。
「相性のよい人間との婚姻は、魔族に力を与えるものなのでございます。人間と魔族は常に敵対しておりますゆえ、滅多に起こらない事態ではございますが……その、まさかの事態が起こってしまいました」
結婚? 魔王と?
なんで? 殺されるんじゃなく、どうして結婚?
セラフィーナはぽかんとしている。
魔王は魔界の支配者だ。こちらの世界で言うなら皇帝よりもさらに上の立ち位置だ。
あの女が、どうしてそんな男を手に入れられる?
あの女は生まれつきなんでも持っていて、愚かで、自分で考えようとしない。
それに比べたら、セラフィーナは精一杯努力してきた。やれることを、やれる限りやってきた。
だから自分のほうが偉いはずだった。自分のほうが頑張ったはずだった。私のほうが美しいはずだった。だから人間界で一番の権力を持つ男を手に入れた……と、思っていたのに。
なのに、どうして、ディアネットが自分の上を行くの?
「この状態で魔界からの侵攻があれば、人間界は危険です。わたしが出来る対策といたしましては……」
決死の表情で、老魔道士はしゃべり出す。
アライアスとセラフィーナは鬼気迫る表情で、同時に怒鳴った。
「「貴様は、処刑だ!!」」