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【31】第一皇子暗殺

 さて、そのころの人間界。

 リュバン帝国の皇宮では、悪女セラフィーナが第一皇子アライアスを踏みつけていた。


「せ、セラフィーナ、待ってくれ……!!」


「あらあら。待つって一体、どれくらい? 五つ数える間? それとも百年? どちらも同じ『待つ』ですわねえ」


 セラフィーナはアライアスをぐりぐりやりつつ、うっとりと続ける。


「私は充分待ったと思いますわ。アライアスさまは私に、この世の全てをくださると約束してくださいました。あらゆる宝物、あらゆる人材、あらゆる権力。私が殺したい人間を殺しても、誰も批判しない世界」


「ぐ、ぐうう……」


 セラフィーナの脚力は案外強く、アライアスは起き上がろうにも起き上がれない。必死に顔だけを上げて訴えた。


「セラフィーナ、今だってそうじゃないか、宮廷でも、城下町でも、ど田舎の村ですら、お前の美しさと権力に震え上がっている。誰もお前に文句を言える者などいないよ……まさにお前の天下だ」


「そうかしら? まあ、そうかもしれませんわね」


「だろう? だから、魔界の件はしばらく放っておいても……ぎゃっ!!」


 セラフィーナがハイヒールに目一杯の力をこめたので、アライアスは汚いうめきをあげる。セラフィーナは冷え切った目でアライアスを見下ろして言う。


「この、無能」


「おまっ……! このわたしが、無能だと……!?」


 さすがのアライアスも、ここまで言われれば腹を立てる。何しろ彼は第一皇子なのだ。誰もが彼のことを無能だと思ってはいたが、表だって声に出す者はいなかった。そんなことをしたら不敬罪で首が飛ぶのは明らかだ。


 だから、この『無能』は彼にとって記録すべき、初めての『無能』呼ばわりだった。

 アライアスは怒りで顔を赤黒くして反論しようとする。

 が、セラフィーナの顔を見た途端、軽く目を瞠って固まった。


 セラフィーナの顔はそれだけ凄まじい迫力に満ちていたから。普段が美しいからこそ、そこに軽蔑と怒りとあさましい欲望が乗った時の醜さは強烈だ。


「無能じゃないなら、どうして貴族会議の意見を魔界との戦争にもって行けないんですの? 私がたくさん作戦を考えて差し上げたのに、あなたは失敗、また失敗。貴族たちはむしろあなたを次代皇帝にするまいと、みんなで団結しているありさま」


「そうなのか……!? それは困る!! 皇帝になる前提で、色々と進めてしまった……」


 やっと事態の深刻さがわかってきたアライアスを、セラフィーナはしみじみと見下ろした。

 まったくもって愚かな男だ。愚かなだけならまだいいが、鈍い。理解するのも遅いし、行動するのも遅い。操ろうとしてもあんまりにも精度が悪い。


 アライアスはしばらくない頭を働かせたあと、はっとして言いつのった。


「セラフィーナ、今すぐわたしが皇帝になる方法を考えろ! お前もわたしが没落したら困るだろう? 魔界との戦争なんか諦めるんだ。そんなことやってもわたしは戦争苦手だし、大して役には立たん。それよりもっとこう……色仕掛けとかで貴族を動かしたらいいじゃないか。お前は顔も体も最高なんだから……!」


「…………そうですわね」


 セラフィーナは深いため息を吐いて、アライアスから足をどける。

 アライアスは大喜びで顔を上げた。


「おっ、やってくれるのか、セラフィーナ! さすがは我が最愛だ!!」


「確かにそろそろ、新皇帝になるための布石は必要だと思っておりましたの」


 セラフィーナはすっかり美しく戻った顔で微笑み、ぱん、と手を打つ。


「さ、入ってきて」


「ん? なんだ、誰を入れる」


 アライアスは慌てて立ち上がり、扉に注目する。

 しかし、扉の開く音は、アライアスの背後からした。


 ――続いて、肉を叩くような音。


「あえ?」


 アライアスは大いによろけ、自分の胸を見下ろす。

 そこには、赤くて尖ったものがあった。


 これはなんだろう、とアライアスは考える。

 胸の真ん中から、どうしてこんなものが生えるんだろう。

 妙に遠くから、セラフィーナの声が聞こえる。


「ここは皇宮ですのよ。扉は正面だけにあるとは限らない。隠し扉だってたくさんある」


 それはそうだ。それはそうだが、つまり、どういうことだ?


 誰かが隠し扉から入ってきて?

 自分を、背中から刺した?

 なんで? どうして?

 セラフィーナ、怖くないのだろうか。


 そんなことをアライアスは思う。

 セラフィーナはか弱い女だ。目の前で血なまぐさい暗殺など見たら、衝撃を受けるのではないだろうか。それは哀れだから、あとで慰めてやろう。セラフィーナのように『できる』女に施しをやるのは、好きだ。そういう形で支配してやるのは気分がいい。


「自分が何で刺されたのか、おわかりかしら? 魔族の角で出来た槍ですわ。あなたは魔族に暗殺された、ということにいたします。これで、貴族院を一気に動かします!」


 魔族。魔族。魔族。魔族かあ。回らない頭で、アライアスは疑問に思う。

 セラフィーナ、お前はどうしてそこまで魔界との戦いに執着する?

 戦いなんか大変だぞ。金はかかるし、人も死ぬ。


「不思議そうな顔をしてらっしゃいますのね。私がどうして魔界を憎むか、不思議ですの?」


 不思議だ。そう、不思議だよ。

 教えてくれ、セラフィーナ。


 アライアスはいつの間にか床に倒れ、自分の血の池に浸りながら心で問うた。

 その脇にセラフィーナがしゃがみ込み、例の地獄の形相で言う。


「ディアネットです。ディアネットが魔界でのうのうと暮らしているからです!! あの女、私がどれだけおとしめようとしても、奪おうとしても、結局もっと別の最高のものを手に入れている……何も努力していないのに! バカなのに、平凡なのに、鈍いのに!! 私にくっついて歩いていたのに!! 私のこと、好きだったのに!!」


 セラフィーナは怒りの余り、ぶるぶると震えている。

 その顔を見ながら、アライアスは静かに事切れようとしている。

 だが、セラフィーナは気付かない。


 そもそも、どうでもいいのだ。

 こんな男よりも、セラフィーナはディアのことが気になっている。

 自分の思い通りにならない、ディアのことが。


「このままディアネットを野放しにしておいたら、今までの私の努力がすべて、負けたことになります。努力よりも偶然が勝つなんてことは許せませんわ。絶対に、許せません!! 叩きのめしてやる。つぶしてやる。引き裂いてやる。焼いてやる。踏みにじってやる。バラバラにしてやる。奪って、泥まみれにしてやる。あいつが手に入れたものすべて!!」


 ほえさかるセラフィーナの声を聞きながら、アライアスはついにまぶたを閉じた。

 それが、アライアスの最期だった。

 第一皇子に生まれ、何者にもならずに死んでいった者の最期だ。


 セラフィーナはアライアスの死に気付くと、ぱっと切り替えて指示を出す。


「……死んだわね。では、氷と共にはこづめして死亡時間をごまかし、すみやかに偽装現場まで運びましょう。分かっていると思うけど、魔物が出た場所は帝国所有の山荘ということにするわ。私は最後までこの男と関係していた、と証明するために一緒にいく」


「はい」


 深々とお辞儀をした男は、魔族の角の槍を持った美丈夫だ。

 アライアスよりも明らかにセラフィーナ好みのマッチョで、アライアスよりも頭が回る。セラフィーナは皇宮にいる間、激しく勤勉に有能な臣下をリストアップし、もれなく関係を持って籠絡しておいたのだ。その中で一番のお気に入りを、セラフィーナは共犯者に選んだ。


 こうしてアライアスを処理した今こそ本番。

 セラフィーナのやり放題、し放題の始まりである。


「アライアスが魔族に暗殺されたその後は私がねつ造した証拠で皇家の血族だったと証明し、速やかに女帝になる。あなたが魔物殺しの名誉を得て、私を支えるの」


「光栄です、セラフィーナ様」


 美丈夫は這いつくばり、セラフィーナのハイヒールにキスをする。

 セラフィーナはやっと怒りを収め、うっとりとお気に入りの男のキスを受けた。


 そこへ、おそるおそるノックの音が響く。


 もちろんセラフィーナは人払いをしているから、これはセラフィーナの手の者のノックだ。そうわかってはいても、セラフィーナはイラッとする。


「……あなた、今、ここへ入ってきていいと思うのかしら?」


「お、思いません……思いませんが、その、おかしなことが、おこりまして」


 相手の声は明らかに震えている。

 セラフィーナはせいぜい猫なで声を出した。


「おかしなこと。曖昧な報告ねえ。私、曖昧な報告が一番嫌い。報告者ごと油で煮たいわ」


「っ!! て、手短に申し上げます。魔族に、奇妙な動きが出ております……!!」


「あら、そう。ひょっとして、魔族のほうから侵攻してきたのかしら。だとしたら話が早いけれど」


「いえ、そうではなく……」


「そうではなく?」


 扉の向こうで、ごくり、と唾を呑む気配。

 報告者は少し迷った後、意を決して言う。


「ま……魔族が……祭りを……しております……っ!!」

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