【17】幸福なひとり、幸福なふたり
俺、魔王ランドウは、ずっと一人でいるのが好きだった。
何せ俺は生まれついての魔王だから、そこにいるだけで周囲がうるさい。こびを売ってくる者、寝首を掻こうとする者、正々堂々と倒そうとする者、とにかくみんながランドウに関わろうとしてくる。
人間界ではそうではなかった。三流魔道士のランドウのことは、多くの人間が放っておいてくれた。だから呼吸がしやすかった。のびのびと生きていられた。
さて、では、現在は。
「……これでコウモリは全部か」
俺は冷たい瞳でひとりごち、床にこんもりと積もった灰を見る。
この灰はかつてコウモリだったもの。俺の魔法で灰と化したのだ。一匹ずつはか弱い魔物だが、とにかく侵入してくる数が多すぎる。
「自分の意思ではないでしょうね。明らかに何者かに操られてる」
ヒビキが淡々と言う。戦闘の後の彼にはなんのおふざけもありはしない。いかにも魔物らしい冷淡な態度だ。俺は目を細める。
「俺への嫌がらせだ。遠からず、主が来るな」
「今の魔王様なら大抵のもんは返り討ちだと思いますが、コウモリを操る相手となると、竜より大分賢いはずだ。簡単にはいかないかもなあ」
「…………」
「よっし、ちょっと見回りしてきます! 城を端からじわじわ壊したあげく、高度な幻術で壊したところを補って、そこに自分が住んだりしてるかもしれませんし」
ヒビキの言葉を聞いて、あり得る、と思った。
俺は深いため息を吐く。
「頼んだ。少し、一人にしてほしい」
「了解です! では」
ヒビキは軍靴を慣らして敬礼をし、軽やかに跳んで、高い位置の窓から出て行く。
やっとひとりになった俺は、さらに酷く深いため息を吐いた。
「……やっとひとり、だな」
枠は骨、座面と背もたれは魔物の革で出来た椅子に座り、椅子の下に隠していた人間界の魔法書をごそごそ取り出す。魔王として生きれば疲労が募る。これはもう、俺の性格的に仕方の無いことだ。
コウモリの主のことは心配ではあるが、今考えたからといってどうなるものでもない。まずはひとりの時間を過ごし、心を少しでも軽くしたかった。
俺はひとりの時間が好きだ。ひとりで過ごすやり方なら、いくらでも思いつく。
「まずは読書と、魔法研究……」
魔族の使う古い魔法を人間風に解析して文書に残してみたいし、魔界で野菜栽培を成功させるため、土壌改良と野菜の品種改良についても学びたいし実験したい。ひとりの時間さえあれば、ここでも三流魔道士ランドウがやっていたようなことを続けることは可能だ。
本の世界にとぷんと沈むと、周囲の雑音は気にならなくなる。魔界に鳴り響く雷鳴も、魔王城に押し寄せてくる魔物たちの咆哮も遠くなり、俺は魔法と戯れる。
幼い頃はよく魔王城地下の宝物庫に潜り込んで、太古の魔法書をひもといていた。そうしている間だけは、自分はなんの期待もされないし失望もされなかった。魔法はいつだってそこにあって、自分が分け入ることを拒絶しなかった。
落ち着きと、淡い喜び。それらを求めて、俺は植物と魔法の関係に耽溺する。
魔界でマンドラゴラを育てることには成功した。食用の野菜を育てるなら、何がいいだろう? 焼いただけで食べられて、味がよいものがいい……と思ってページをめくると、黄色い草の実が目に入った。
荒れ地にも育つ、黄色いつぶつぶがぎっしりなる野菜。
それを見た途端、ぽわんとディアのことが思い出された。
「ディアの髪の色と、同じ色だ」
蜜よりもっと軽やかで、元気な金色。ディアはこの草の実が好きだろうか?
『すっごいあまーい! これ、ランドウが作ったの?』
輝くような笑顔で俺を見るディアを想像した途端、顔が一気に熱くなった。
いや、阿呆か。なんだその甘い夢は。
甘い。甘すぎる。何が甘いって、都合がよすぎるんだ。
ディアは人間だ。人間界で山ほど美味しい果物や野菜を食べてきたひとが、俺ごときが育てたひょろひょろの魔界野菜でそんなに喜ぶと思うのがおかしい。
というか、野菜が食べたいのは俺だ。ディアは関係ない。
関係ないのになんだって一番に出てくるんだ。
「こんなのは……違う」
俺はイライラと本を閉じる。まったく本の世界に入れていない。安心できるひとりの世界に浸れていない。これが俺だろうか。違う気がする。変わってしまった気がする。
変わってしまった俺は、一体どうやれば安心できるんだ。
どうすればしあわせになれるんだ。
俺は、俺が、俺を……。
そのとき、バンッ!! と私室の扉が開いた。
「……!!」
俺ははっとして顔を上げる。
扉の向こうには、ディアがいた。
本当に? 本物の? ……そうだ、本物だ。
間違いないディアだ。明るい金髪の一部をピンク色に染め、高いところで二つに結び、輝かんばかりの笑顔で立っている。
「ランドウ!!」
彼女が笑顔で俺の名を呼ぶ。俺の安全圏、俺の私室の扉を開けて、目一杯笑っている。
そんな彼女を見た途端、俺の心は一気に晴れ渡った。
明るい。嬉しい。楽しい。呼吸が出来る。体が軽い。
俺は、ひょっとして。
ディアに会いたかったのか……?
「ご、ごごごごめんなさい、魔王様っ……! お一人でいるところ、私みたいなものが邪魔しちゃって……」
「ああ……マリカ、お前もいたのか」
気付いて見ると、マリカもいつもとは違う格好をしている。黒づくめではあるが、所々透ける素材を使っているせいか、普段より軽やかに見える。波打つ灰色の髪に、金箔らしきものが散らされているのもよく映える。
そしてその横のディアは。
「急にごめんね! マリカと一緒にドレス改造したの! 材料が限られてたからムズいとこあったけど、けっこーよくできた気がする! この感じ、好き? ど~?」
「この感じ……」
この感じがどの感じかというと。
ディアのドレスは、ばっつり膝上丈になっていた。
しかも膨らむスカートではなく、尻から太もものまるみを帯びたラインを強調する形。そこからすらりと伸びた足は、ロングブーツに包まれてはいたけれど……スカートからブーツまでの間は生身の足だ。びっくりするほど白くて、きめ細やかな肌の、足だ。
俺は頭を殴られたような衝撃に震えた。
「……ひょっとして、キライ……? そういやランドウ、宮廷ファッションのほうが好きだったよーな……」
心配そうに言われ、俺は、はっと目を見開く。
思わず衝撃でぼうっとしてしまっていた。好きか、嫌いかか。
好きか嫌いかで言ったら、こんなにもはしたなくて野性的である種魔界的とも言えるのに、魔界ですら見たことのない派手なファッションは……。
好き。
ぽかん、と脳内に単語が浮かぶ。
……?
おかしい。結論がおかしい。
俺は、こんな派手なファッションは……。
好き。
……結論が変わらない。どういうことだ。俺の趣味が変わったのか。
俺は短いスカートが好きか? 好きじゃない。
女性の足が好きか? 別に好きじゃない。
でも、目の前のディアは好きだ。
ディアだから、なんだろうか。
ディアが、着ているから。
ディアは少し不安な顔で俺を見ている。口元に添えられた指先には、包帯が巻かれていた。裁縫で傷つけてしまったのだ。
それを見た途端、俺はためらっていられなくなった。かわいい。彼女の努力が何よりかわいい。気付けば俺は彼女に歩み寄り、その指を手に取っていた。
「ら、ランドウ?」
俺を見上げてくるディアの顔が輝いて見える。まぶしさに目を細めて、俺は言う。
「……好きだ」
「ほ、ほんと!? 無理してない? イヤなときはイヤって……」
「イヤじゃない。何度見てもイヤじゃないし、君が指を怪我してまで改造したんだと思うと、ますます好きになってしまう」
俺がどうにか本心を告げると、ディアの顔は輝きを発した(もちろん俺の視界の中でだけ)。実際には驚きと喜びを顔に浮かべ、ディアは叫ぶ。
「マジ? めっっっちゃ見てくれてるじゃん……!!」
「……? 見るくらいはする。付き合っているわけだし、結婚もしているし」
「そ、そーだよね! そ、そーかぁ……えへへ、そーかあ」
ディアは俺の手をぎゅっぎゅと握りながら笑み崩れている。
そうしているとさっき彼女の全身を見て感じたような妖艶さは薄まり、小動物的な愛らしさが濃くなってくる。
そんなディアもとんでもなく可愛い。今すぐ頭を撫でたい衝動に駆られるが、握られた手を放したくもない。一体どうしたらいいのだろう。どの行動を実行に移せば、より気持ちが伝わり、ついでに自分も満足するのだろう。これはもはや哲学だ。
密かに悶々とする俺に、ディアは告げた。
「ありがと、ランドウ。あたし……このドレスで、てっぺん取ろうと思うんだ」
「てっぺん? とは?」
まだ悩みに片足を突っ込んだまま、俺は問う。
ディアはそんな俺を見上げ、真剣な顔になって言った。
「ファッション界のてっぺんだよ。そのためには、魔界にこもってちゃダメ。あたしたちに人間界に行く許可、もらえないかな!?」