【13】魔界侯爵にして吸血鬼の長、リエト
「むっ……この魔力の波は!!」
人間界。
老魔道士は、牢屋の寝床から飛び起きた。
「どうした? 頭でもおかしくなったか」
見張りの兵士がねむそうに聞いてくる。
魔王を見逃した罪で囚人となった老魔道士は、帝国一の魔法の使い手である。捕らえて処刑するのにも一苦労だ。厳重に魔法で封印された牢に入れて魔力を封印しつつ、肉体的にも牢の最奥に閉じこめて、兵士たちが絶えず見張りをしなくてはならない。
もっとも本人には逃げる気などまったくなかった。
むしろ、今このときも帝国の明日を案じて鉄格子にかじりつく。
「頼む、皇帝陛下に知らせてくれ! 魔界で新たな魔力の波が起こった……」
「そんなこと言われてもなあ。あなたの言うことは無視しろって、皇太子殿下のご命令だからねえ」
兵士はなんとも言えない表情で答える。彼とてアライアスを善き皇太子だとは思っていない。思ってはいないが、いないよりマシ、とは思っている。他に適任者がいないなら、ひとまずアライアスに従うしか国民に生きる術はないのだ。
一方で、老魔道士はもう少し視点が高い。
「わしの更迭と共に、魔法研究所も縮小されたと聞いておる。この波を感じ取れるのは、もはやわししかおらんのだ!! これは帝国の、いや、人間界の危機だぞ!! これをおぬしが無視すれば、おぬしは世界滅亡に加担したことになる!!」
「加担も何も……一体なんなんだ、その波ってのは」
戸惑う兵士に、老魔道士は鬼気迫る顔で告げた。
「四大魔族の一体である、剣竜の魔力が急激に弱まった」
「ん? 弱まったなら、いいんじゃないのか?」
「阿呆! あれだけの大魔族、ただ自然に魔力が弱まるなんてことがあるわけがない!! これは、つまり……」
「つ、つまり……?」
いつの間にか話に呑まれ、兵士は鉄格子に顔を近づける。
老魔道士は、緊張で紙のように白くなった顔で言う。
「魔王ランドウが、剣竜を倒した……もしくは、配下に入れた」
「なん……だと……!?」
兵士は目を剥く。老魔道士はそのままずるずると床に座りこむと頭を抱えた。
「我々人間がぎりぎり魔族に対し優勢を保っておるのは、魔族たちの間で内輪もめが絶えぬゆえ……しかしランドウが魔界を統一してしまえば、人間界などたやすく呑みこまれてしまうであろう……!!」
「っ……、ま、待っていろ! 皇帝陛下に報告をあげられるかどうか、検討する」
どもりながら言い、兵士はきびすを返して走って行った。
老魔道士はそれを見送りながら、深い深いため息を吐いた。
「そんな悠長なことで、魔王の侵攻を防げるのかのう」
無理なのではないだろうか、と老魔道士は思う。
この帝国はもう、有事の際に賢明な判断ができる体制にはない。自分がこんなところにいるのが、その証拠だ。もはや人間界は風前の灯火。
「最後の希望は、魔界一の大貴族……吸血鬼一族かもしれんな」
老魔道士は、ぼそりとつぶやく。
人間たちが信用できない今、信用できるのは魔族の気まぐれで野蛮な性格だけだ。
魔界の大貴族である吸血鬼一族は、昔から独自の勢力を保って魔王軍に加わったことがない。人間界との取引にも比較的応じてくれる。
彼らが後ろから魔王軍を睨んでくれていれば、侵攻までの時間が稼げる……。
老魔道士は、ひとまずそこに希望をかけることにした。
■□■
ちょうどそのころ、魔界では吸血鬼一族の当主が目を覚ましたところだ。
「ふわぁ……ぁーあ……あー……よく寝たぁ……」
甘ったるい声で言い、棺桶の中からもぞもぞと起き上がる。
真っ白な肌に金属みたいに光る銀色の巻き毛。同じく銀色の重いまつげの下では、金色の瞳が冷たく光っている。人間ではあり得ない、まるで凝りに凝った装飾品のような容貌のうるわしい魔族だ。
フリルとレースたっぷりのシャツと軍服に身を包んだ彼の名は、リエトと言う。
「…………」
起き上がったリエトの横には、無言で深くお辞儀をする執事の姿があった。完璧な仕立ての執事服を着た長身の男だが、顔にも手にもすべて包帯を巻いている。
そんな執事を見上げて、リエトは退廃的な笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、トウゴ。体のほうは大丈夫かい? わたしが居ない間に腐っていなくて偉かったね」
よしよし、と頭を撫でてやると、トウゴと呼ばれた執事は嬉しそうに首をかしげる。
リエトはそのまま優雅に起き上がり、辺りを見渡した。
吸血鬼一族の城は地下にあり、壁には無数のまがまがしい彫刻が彫り込まれている。作る手間と技術だけ考えたら、魔界では魔王城の次に豪華な城と言っていいだろう。
「寝る前と、特に何も変わってなさそうだけど……わたし、何年くらい寝てた?」
「…………」
トウゴは左手の指を一本、右手の指を五本出す。
「六年?」
「…………」
「いや、十五年か。ちょっと寝過ぎたな」
「………………」
「ん? まさかの百五十年? 本当に? 本当にそうなのか、トウゴ?」
さすがに驚きの表情になり、リエトはトウゴに強く迫った。
トウゴはすまなさそうに頭を下げるしかない。
リエトは大急ぎで自分の首からかけたペンダントを取りあげ、蓋を開く。蓋の中には、美しい女性の肖像画が入っていた。
「っていうことは、この子も」
リエトはつぶやき、次に寝室の壁をぐるりと見渡す。
「この子もこの子もこの子もこの子も死んじゃったってことか!?」
「…………」
トウゴは深く頭を下げた。壁にかけられた何枚もの貴婦人の肖像画は、どことなく冷めた目でリエトを見つめているようにも見える。
リエトは悲劇役者みたいに大いによろめき、頭を抱えた。
「これだよ……これだから、人間なんかと関わってもいいことはないんだ! 人間はすぐに死にすぎる! でも、血の新鮮さは何にも代えがたい……はあ……この世は上手くいかないな……」
弦楽器をかき鳴らすような美声で囁いたのち、リエトはまた棺桶に戻ろうとする。
慌てたトウゴが棺桶の蓋を取り上げると、リエトはなまめかしい流し目で抗議した。
「トウゴ、素直にふて寝させておくれ。お前も魔族になって長いのだから、わたしの悲しみはわかるだろう」
「………………!」
「なんだ? 報告書があるのかね? だったら最初から見せてくれればいいのに。ふわーぁ……」
すでにあくびをしながら、リエトは羊皮紙の報告書を受け取った。
そして、唐突に目を見開く。
「何……? あの、ランドウが?」
「…………!」
うなずくトウゴ。リエトは報告書に釘づけだ。
「かわいいかわいい、虚弱で愚かなランドウが?」
「…………!」
「剣竜を退け……たのはどうでもいいが、人間を……花嫁にしただって!?」
「…………!?」
そこ!? とばかりに肩を落とすトウゴを尻目に、リエトはふるふると全身をふるわせる。
そして、高い場所にある窓を見上げて叫んだ。
「わたしだって、まだ人間のお嫁さんもらったことないのに!! 抜け駆けだぞ、ランドウ……!! 絶対に……絶対に、ゆるさないからな!!」