三.女性が住み易い社会を
「ちょっとちょっと! 言っておきますけど、私警察官ですからね? 連れ込んで良からぬことしてやろうとか考えてたら痛い目に遭いますよ!?」
男は桃子の手を引っ掴んでずんずん進んで行く。この時点でなんらかの罪には問える状況なのだが、一応桃子は警告から入ってみる。何より、
「そんなんじゃないから! そんな余裕無いから!」
「それより何より、私本当に素人ですから! なんの役にも立ちませんから!」
男と同じくらい桃子にも余裕が無い。
桃子は今までの経験で幽霊というものが実在することも、あはあは笑っている童女ばかりではないことも知っているというか見ている。なのでこの客が「幽霊がいる」と言い出したからには嘘だとは思わない。
その上で桃子には紡のような祓う能力は無い。せめて能力が無いなりに紡が今まで使った『呪』でも諳んじられたら上出来で、相手が『除霊屋の留守番』に対して描くような面目は果たせるのだが、残念ながら彼女にそんな記憶力は無い。それに紡自身が岩下家の犬神事件の時、
「相手によって適切な対応があるから、相手が分からない限り迂闊なことは出来ない」
と言っていたことを思えば、桃子には相手の判別も出来なければそれに対する適切な対処も分からないどころか、相手の幽霊が見えるかすら怪しい。
つまり最悪のパターンを重ねて踏み抜けば、『相手も見えずに、室内に入ったらなんか急に死んだでござる』という迂闊に忍者屋敷へ踏み込んだ侍みたいなデッドエンドもあり得るのだ。
「私に出来ることなんて、本当にありませんから〜!」
よって桃子には本当に余裕が無い。ちなみに頼みの綱としてつばきに電話するという手は、男が急に引っ張って連れ出すものだからリビングのテーブルの上である。
「ここが俺のマンション」
「思ったよりいいとこ住んでますねぇ」
「どういう意味だよ」
結局桃子は男のマンションまで来てしまった。あんなに色々警戒しておいて、のこのこ数駅電車に乗ってついて来てしまった。これが二十一時とかからやっているメロドラマなら如何わしい響きだが、事前情報が事前情報だけに桃子は別の意味で如何わしい雰囲気を感じる。
何階のどの部屋から漂うのかも知らないぼんやりとした雰囲気を浴びている桃子を、男はエントランスの自動ドアを潜りながら急かす。
「ほら、こっち」
「あの、本当に不埒なことをしたら腕の一本くらい折りますからね? 警察の格闘術舐めないことです」
「そんなことはしないって。ナンパ目的だったら、数駅かけて除霊屋狙いに来たりしねぇよ」
「それもそうですか」
男は郵便受けの中身を確認する。三〇七号室らしい。男はロビーの鍵を開けながらポツポツ語り始めた。
「……あの女が出始めたのは一ヶ月くらい前からだ。家の隅に、見たこともなけりゃ招き入れた覚えも無い女が佇んでるんだよ」
「酔って連れ込んだんじゃないですか?」
「んなわけあるか! 色々言いたいことはあるけど何より、触れもしない女をどうやって連れ込むんだよ」
「触ろうとしたんですね」
「……」
男はエレベーターに乗り込む。桃子が突っ立っていると、
「乗らないの?」
「知らない男性とエレベーターで一対一になるのは危険なんですよ」
「……女性って大変なんだな。じゃ、しんどいけど階段で」
男はエレベーターを出て階段の方へ向かった。
ここまで警戒意識が高い癖に、玄関を開ける時にはチェーンを忘れる所為でここまで拉致られてるのが沖田桃子という人間である。
男の部屋まで階段を登る。これが五階とかだったら勘弁してほしい所ではある。
「……それで色々試したよ。盛り塩もしたし念仏も調べたし素人でも出来る除霊方法もやったし。でもアイツ、全く出て行く気配が無いんだ」
「ヘぇ〜。でもその人、人? 何かしてくるんですか? 金縛りに遭うとか」
「最初はな。金縛りは勿論、物は動くわラップ音すごいわ部屋寒いわ長い髪の毛落としまくって彼女にあらぬ疑い起こさせるわで散々だったぞ。最近はまぁ、思えば大人しくなったもんだな」
「じゃあもういいじゃないですか。彼女にフラれても次があるってことで」
「よくねぇよ!」
ガチャガチャと真剣なんだかどうか分からない会話をしている内に、
「ここが俺の部屋」
男が『307 成田』と書かれた表札をコンコン叩く。桃子はドアの向こうに禍々しい気配を感じるが、本来そんなスキルは無いので多分プラシーボ。成田は少し震える手でドアに鍵を差し込むと、すぐには回さずに息を整える。階段を登って来ただけではない揺らぎがその中にはある。
ややあってから成田は「ほうっ」と強い息を吐くと、ようやく鍵を回した。カチャリ、というなんでもない音が、妙に無機質で冷たく聞こえる。
成田はゆっくりドアを開けると、桃子に対して「ようこそ」というようなジェスチャーをする。
「ドアは開けとくよ。すぐ逃げれるし『助けて』の声も外に聞こえるから女性としては安心だろ? それに」
成田は一度室内の廊下の奥、リビングに通じるドアを睨んだ。
「俺もすぐ逃げられる」




