急.
「そうか。やっぱりね。ありがとう。引き続きお願い」
紡はスマホの通話を切る。相手はつばきだ。
「一体なんですって?」
「まだ人は襲ってない。それと郊外に出ようとしてる」
「郊外? 何しにでしょう?」
「……とにかく、歩きだから車ですぐ追い付ける距離だ!」
紡は車のハンドルを左に切った。
つばきから二度目の電話が入ったのは、ルートの先回りをして郊外に出た辺りだった。
『郊外に出るのはやめたみたいです。解体工事中の廃ビルに入りました。そこから真っ直ぐ町中の方へ来て下さい』
「了解」
「廃ビル? 一体何考えてるんでしょう?」
「……さぁね!」
紡はアクセルを底まで踏み抜いた。
そのまま猛スピードで夜の闇を切り裂いて行くと、ハイビームの先に小さな影が見える。つばきだ。紡は車を適当な路肩に停めて、オープンカーなのをいいことにドアも開けず飛び出した。桃子も慌てて後ろをついて行く。
「つばきちゃん! 様子は!?」
「よくぞ間に合って下さいました」
「……そうか」
紡とつばきは深刻そうな表情を交わしている。桃子も不安になって割り込んだ。
「なんの話をしているんですか?」
「あっ、桃子さん……」
「こんばんはつばきちゃん。その節はありがとうございました」
「いえ、そんな……。紡さん、本当に連れて来たんですね」
「うん、きっとその方が彼女にはいい」
つばきの深刻な表情は哀切極まるものになり、紡の目付きは視力が悪いのかと思う程厳しい。
「それで、なんの話をしているんですかって」
桃子が二人の間に顔を突き出すと、紡は廃ビルの方へ向かった。
「見れば分かるよ。時間も無いだろうし」
KEEP OUTのテープを堂々跨いで行く。
警察として完全にアウトではあるが、一刻も早く「ぬ」を迎えてやりたい。桃子も廃ビルの中に入ると、
「……ぬー?」
ガラスの無い窓から差す月明かりに照らされて、コンクリートの床に横たわる「ぬ」の姿があった。
「ぬー!」
桃子が駆け寄って「ぬ」を抱き起こすと、彼女の閉じられた瞼がピク、と動いた。
「もも……こ……?」
「はい! 桃子ですよ! どうしたんですか!? 具合悪いんですか!?」
桃子が「ぬ」を揺すると、彼女は揺れるに任せて力無い首をグラグラさせながら
「桃子だぁ……嬉しいなぁ……どうして……?」
と質問に答えず譫言のように呟く。
「紡さん!」
桃子が振り返ると、紡は少し離れた位置で腕を組みながらこちらを眺めている。
「一体何が起きてるんですか!? ぬーはどうしてこんなことに!?」
「飢えだよ」
紡は静かに告げる。
「飢え!?」
「人喰い妖怪だからね。人を食べなければ飢えてしまう。至極当然の摂理だよ」
「待って下さい!」
桃子の「ぬ」を抱き寄せる腕に力が入る。
「そんなはずありません! この子は人間の食べ物を喜んで食べてました! 人喰いなわけは無いし飢えるはずもありません!」
「例えば完全菜食主義者の人がいたとして、それは人間という生き物が肉を食べない種族である証明にはならない。例えば肉食動物が草を食べたとして、口に入れて飲み込むことは出来るけど結局そこから栄養を得ることは出来ない」
「で、でも、飢えて弱るというならもうとっくに参っているような期間人間を食べていませんよ!?」
「釣瓶落としは一度人を喰らうと満足して二、三日は現れなくなるという。元より燃費はいい妖怪なんだろうね」
「で、で、でも、その、あ! ほら! この子は別に痩せたりなんかしてませんよ!? だからそんなわけ……」
「この子は中途半端な存在で形は妖怪になり切らず死体の方を引き摺っている。死体が痩せたり太ったりするのかい?」
「じゃ、じゃあ、えっと、えっと……」
「桃子さん、認めて下さい。続けても貴方が辛いだけです」
「そんな……!」
つばきの一言で桃子の反証が詰まる。そうなると桃子に出来るのはもう、
「紡さん……、紡さん! なんとかして下さい紡さん!」
紡はゆっくり、しかしはっきりと首を左右に振った。
「もう手遅れだ。どうにもならない」
「どうしてこんなになるまで黙ってたんですか!」
今のが八つ当たりだとは桃子にだって分かる。しかし止められなかった。感情も、溢れる涙も。
「言ったとしてもどの道人を食べさせるわけにはいかない。だからこれは避けられないし、見せたくなかったから最初は山に置いて行こうとした」
紡はゆっくり桃子の隣まで歩いて来ると、しゃがみ込んで「ぬ」の顔を覗き込む。
「でもやっぱり、この子は最後に見送って欲しいだろうし君もそのはずだから、ここに連れて来たんだよ」
「あ、あぁ……」
桃子はもう色すら無いような「ぬ」の顔を見詰める。彼女は嬉しそうに力無く微笑んでいる。
「なんでこんなになるまで人間を食べなかったんですか!? こうなるくらいなら私を食べればよかった!」
桃子が「ぬ」を揺さぶるも、彼女は揺れではなく自分の意思ではっきり首を横に振る。
「だって、ぬー、桃子、好きだもん……。人間、好きだもん……」
「そんなことはもういいんです! ほら! 今すぐ私を食べて! そして生きるんです!」
「ぬ」は薄く笑う。
「桃子が私だったら、食べるの……?」
「それは……!」
「ほら、ね? そこは、嘘でも、食べるってすぐ、答えないと、私も、騙されないよ……」
「あぁあ……! 食べる! 私なら食べます! だから、だから……!」
すっと、紡が桃子の口の前に人差し指を立てる。そして静かに首を横に振った。
「紡さん!」
桃子がくしゃくしゃの顔で吠えると、つばきが彼女の正面に回り込んで「ぬ」の頭を撫で始めた。
「ひもじかったね。辛かったね。よく頑張ったね」
心なしか、「ぬ」の表情が柔らかくなったように見える。紡もそっと「ぬ」の手を握った。
「よく我慢したね。大切な、大好きな人を守る為だもんね。本当に偉かったね」
「つばきちゃん、紡さん……」
桃子がそれぞれ視線を合わせると、二人とも小さく頷いた。桃子は抱き抱えている「ぬ」の頭をゆっくり膝に下ろす。
「本当に本当に、立派でしたね。私の自慢の家族です。私もぬーが大好きですよ」
桃子がゆっくり頭を撫でてやると「ぬ」はその手に自分の両手を重ねて、
「えへへ、人間、好き。みんな、ぬーを褒めてくれる。ぬー、褒められるの、好き……」
後は桃子が彼女に買ってあげた赤いワンピースだけが、抜け殻のようにあるばかりだった。
桃子はそれを胸に抱き締めて俯いた。
「紡さん」
「うん」
「これは私がいけなかったんですか? もっと人間が好きにならないようにしてやれば、あの子は飢えて死なずに済んだんですか?」
「そんなわけない」
「でも」
紡はすっと立ち上がり、
「未だに行方不明者は多いしその中の幾らかが妖怪の食事になったろうったって、昔と違って妖怪が人間を食べられるような機会はそうそう無いんだ」
桃子に背を向け、窓から月を眺めている。
「だから、結果は、変わらないんだ。桃子ちゃんの所為じゃ、ないんだ」
桃子も紡の方を見ずに俯いたまま、静かに言葉を続ける。
「なら、人間がいけなかったんですか?」
「どういうこと」
その言葉に紡も振り返る。
「『呪』と同じみたいに、可哀想なブロイラーみたいに、人間が『人喰いであれ』と思うから、人間がそう産むから妖怪はそう生まれて、そして死んで行くんですか?」
「……」
「あっ、あっ、うあっ……」
紡も今度は何も言わなかった。また桃子に背を向けて、静かに煙草を咥える。
そしてマッチを擦る音がした後は、つばきに背中を摩られながら突っ伏して泣く、桃子の長い長い嗚咽があるばかりだった。
さて、ある日のこと。その日も空は快活な秋晴れをしている。
「ふあ〜ぁ……」
交番で大きく伸びをした桃子。季節柄、近頃湯呑みの玄米茶が冷めるのが早い。
『そろそろ烏龍茶飲むと仕事にならない季節になって来たね』
『喉を守る油分を流してしまうんだっけか。そこに乾燥が重なるとまぁ大変だな』
とラジオでも言い出すような季節である。
「へぇー、私もメガホンで『貴様はもう包囲されている!』とかいう仕事の前には烏龍茶飲まないでおきましょう」
桃子が一生縁の無さそうな現場への心構えをしていると、
「こんにちは桃子ちゃん」
「青木のおばあちゃん! こんにちは!」
今日の来客である。桃子が椅子を出すとおばあちゃんはそこに座る。
「夏の名残はもう無いですねぇ」
「そうだねぇ。言ってる間に冬も近いかねぇ」
おばあちゃんは玄米茶を受け取りながら「そういえば」という風に切り出す。
「最近ぬーちゃん見ないね。帰国しちゃったの?」
「あー……」
桃子はちょっと黙って交番の玄関を一歩出る。澄み渡る空を見上げながら、しっとり噛み締めるように口を開いた。
「長いことここにいるのもアレなんでね、行くべき場所に行きましたよ、えぇ。……遠い生まれですから、仕方ありません」
薄柔らかい日差しで影になる桃子の背中を眺めたおばあちゃんは、
「……そうかい」
微笑みながら数度頷いた。そこに桃子は振り返る。今日の空のように晴れ晴れとした笑顔だ。
「だから私も、私に生まれたからには精一杯自分のやるべきことを、自分の人生を頑張ることにします!」
桃子の笑顔におばあちゃんもニッコリ応える。
「そうだね。それがいいね」
そうやって平和な時間を流している二人だったが、急遽それを破り捨てるような声が響く。
「桃子ちゃ〜ん! 大変じゃあ〜!!」
「藤じぃ! どうしたんですか!?」
「『六角承亭』で喧嘩じゃあ!」
「またですか!?」
桃子はおばあちゃんの方を振り返ると、ビシッと敬礼を決める。
「おばあちゃん! そういうわけで私は一旦失礼します!」
「はい分かりました、行っといで。怪我しないようにね」
「はい!」
桃子は表にある自転車に跨ると、
「うおおおおおおお!」
キコキコ騒音を撒き散らしながら現場へ向かった。それを見送ったおばあちゃんは、なんとなく交番の中に視線を戻す。そんな彼女の目に留まったのは、
「ウチの博次も好きなサッカー選手のユニフォームああやって飾っとるがねぇ」
大事そうに壁に掛けられた、子供用の赤いワンピース。
「さて、桃子ちゃんも行ったし、私も散歩の続きに行こうかね」
おばあちゃんは交番を出ると、もう一度桃子の方を見送った。
この世に生まれたからには力一杯生きる若者の美しい背中が、秋の日差しの中を駆け抜けて行く。




