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食と怪奇と陰陽師  作者: 辺理可付加
第十話 そう産むということ、そう生まれるということ
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九.秋の日は

「おはよう桃子ちゃん」


それだけで今日一日がいい日になると思えてしまうような、健康的に晴れ渡る朝の秋空。そんな日差しの中で紡は()()()と立っている。

(ゆるし)色のボウタイブラウスに丁子(ちょうじ)色の腰丈トレンチコートを羽織り、七分丈のスキニージーンズを履いて頭にはいつものベレー帽という出立ちを着こなしながら、その手には秋の空気にもファッションにも溶け込まない黒革のアタッシュケース。


そして何より真顔、に見えて目が真顔のそれではない。


「お、おはようございます。珍しいですね、十時を過ぎないことには、起きないって、つばきちゃん、が……」

「用があれば起きるさ」

「さ、さいで」

「……」

「……」


お互い、台座に固定されたフィギュアのように動かない。きっとこの時間、私達だけが人の一秒の間に一分を生きている……、桃子が飲み込んだ生唾がどう喉を通って行くのか生々しく感じ取っていると、紡の感情の無い唇が薄く動く。


「あげたお札は貼った?」

「へっ?」

「お札」

「あ、あー! もちろんですとも! ばっちり!」


もちろんそんなものは貼っていない。「ぬ」を迎えに行った道中……、……今頃田んぼの用水路で腐っている。


「な、なんだ、それの確認ですか? だったらいつも通り鶏やらなんやら派遣して聞けばいいのに、直接来るなんて遂に私に惚れちゃいましたか? なんて、ははは」

「Ha-ha」


あまりにも感情の無い返事だった。井戸に漬けられているような心地になった桃子は、交番の戸締まりをすると自転車に飛び乗った。


「じゃあ私! 出勤しなければならないので! また後程!」


桃子は一度も振り返らなかったが、いつまでも背中に紡の視線が張り付いている気がした。



 目が合った同僚全員から「顔色が悪い」と言われ、近藤からは


「悩みがあったら大人に相談しなよ? 俺? 高田純次に憧れてるけどいいの?」


と気が楽になるんだか呆れるんだか分からないアドバイスを浴びせられた桃子は交番に戻って来た。自転車の前籠にはコンビニのビニール袋が入っている。

正直交番前に紡がいなかった時は安心したし、鍵を開けて勝手に侵入して椅子に座っているわけでもないのを確認した時は胸を撫で下ろした。


「ただいま戻りましたよ〜」

「はぁい!」


元気がいい声と共に仮眠室から「ぬ」が飛び出して来る。人間は動物より発達した高次な脳を持つと言うが、種の為に我が子ですら個体を容易く切り離す動物に対して、この光景だけであらゆる憂鬱が何についてだったかすら分からなくなる人間の方がよっぽど単純な生き物なのではないかと桃子は思う。尤も、桃子は子育ての苦しみを()ていないからこんなに単純な思考が出来るだけかも知れないが。

しかしそれでも愛情には変わるまい。


「お留守番した! 偉い? 褒める?」

「おーよしよし偉い偉い」

「えへぇ〜!」


桃子はぬーの頭を撫でながらビニール袋の中身をゴソゴソやる。


「朝ご飯まだでしょう? おにぎり買って来ましたよ。食べませんか?」

「うん」


桃子は牛のしぐれ煮を手渡す。「ぬ」はそれを暫く眺めると、


「いただきまーす」


と包みを開けてパクッと三角形の頂点に齧り付く。


「……」


桃子はもぐもぐと顎を動かす「ぬ」を見て、改めて思う。

「ぬ」が人喰いかどうかという疑惑。人喰い妖怪の『なりかけ』という立ち位置故に放逐の憂き目にもあったわけだが、彼女は自分や街の人を食べようとすることもなければ人間の食べ物をちゃんと食べる。つまり彼女の食事は人間ではないのだ。

そもそも五体満足だから釣瓶落としより人間サイドに近いはずだし、元々は人間でその死体が木の根元に埋められるのが成り立ちなら、最初から妖怪と違って人間の食べ物でいいに決まっている。

桃子はそう結論付けて、


「じゃあお茶でも飲みましょうか」


玄米茶を淹れる為に電気ケトルをコンセントに刺した。

この結論だって幼気(いたいけ)な命のことを思えば残酷な話だが、同じ残酷なら桃子は未来ある残酷を選ぶ。



「ぬー……!」


夜。なんだか数日前、「ぬ」を連れ帰った翌朝も見たような光景だ。「ぬ」が膨れっ面を浮かべている。


「こればっかりは仕方無いんですってば」


似たようなことを言った覚えもある。

あれから数日、桃子は「ぬ」と一緒に交番で寝起きしていたのだが、娘が落ち込んで帰って来た上に夜中また車で飛び出しそれ以降ずっと外泊で帰って来ないことに耐えられなかった両親が遂に泣き付いたのである。ここ最近親の気持ちと愛情というのを痛い程味わった桃子にはその声を無視することが出来なかった。

加えて、通常と違って宿直の無い交番勤務をしている桃子が毎日退勤後に交番へ戻って行くのを地元住民が目撃していた為、上から注意されたということもある。そもそも交番に戻る為に公的な備品の鍵を返していないわけで。

あと洗濯物が溜まってヤバい。

そういうわけで桃子は一旦家に帰ることになったのである。


「ほとぼり冷めたらまたお泊まりしますから、ね?」


桃子は「ぬ」をぎゅっと抱き締めると、久し振りの帰路についた。



「おかえり桃子ぉ!」


まるで両親は桃子が戦場にでも行っていたかのように彼女を出迎えた。抱き締めて、涙を流して。この数日で痩せて老けたようにも見える。桃子も悲しいやら申し訳無いやら色んな感情が込み上げたが、それよりも大きい言葉にし(がた)い感情の方が目から溢れた。


その晩は桃子の大好物であるカレーが作られ、炊飯器も表面張力いっぱいと言わんばかりに白米を抱え込んだ。

桃子はいつまでも大好きな、まだ暫くは「懐かしい」にならなそうな馴染みの味を頬張りながら、ふと「ぬ」のことを思った。

彼女にもこんな日々があったこと、一度は失ったけれどまたそれを得られるかも知れない機会を得たこと、それを与えられるのは自分だということ。


その後久し振りに湯船に浸かり自分の部屋で横になった桃子が、掛け布団と親の愛に包まれながらそれを「ぬ」に還元するのを夢見ている頃……



 京都の堀川一条にある交番。その真夜中の仮眠室で、ベッドのシーツを巻き込んで丸まり唸る影がある。


「うぅぅ、ぬぅ……。ぐうぅー……!!」


血走った目をしたそれは、必死に何かを押さえ付けるような、それでいて今にも力尽きそうな苦しげでか細い声をくぐもらせている。

やがてそれは勢い良くベッドを飛び出し、しかしすぐに床に崩れ落ちると、杖が無いと歩けないかのように()()()()と立ち上がり、膝を着き、また立ち、


ふらふら交番の外に出ると、這うようにして夜の闇に消えて行った。

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