序.
「ちくしょう、ちくしょう……」
カツーンカツーンと一定のリズムで鋼を打つ音に紛れて、男の低く唸るような声が夜の空気に溶けていく。
真っ暗な工房の中で、椅子に座り背中を丸めて作業する男がいる。もし過剰に赤色を撒き散らすコークスが無ければ、彼は完全に闇と同化して誰一人にも輪郭すら見えなかっただろう。
「紘子……。松葉……」
男は自分の口から言葉が漏れているのにすら気付いていなさそうだ。それぐらい彼は集中し、かつ細かく丁寧に槌を振り下ろす。彼の職人としての技術と誇りがそうさせるのだろう。
包丁職人。この道に入ってまだ十年もしないのでベテランからは半人前扱いされることもあるが、それでも傾けてきた情熱と取り組んできた時間に嘘偽りは無い。真摯に包丁と向き合ってきた年数が、今この一つの鋼に向き合う集中力を与える。
カツーンカツーンと音が響く。これは荒叩きと呼ばれる工程で、これをすることによって分子が細かくなり出来上がった包丁の切れ味が増すのだ。
「紘子」「松葉」と声が響く。これは男の唯一無二の恋人の名であり、唯一無二の友人の姓であった。
「ちくしょう!」
男は矢庭に槌を大きく振り被ると、勢いそのまま鋼に叩き付けようとした。しかし、
「うっ、くっ……」
既の所で槌を止めた。鋼を雑には扱えない職人の良識か、これが災いして粗悪な包丁が自らの作品として仕上がりでもしたらという職人のプライドか、はたまた別の感情か。
何にせよ彼を思い止まらせる何かが彼の中にあったのだろう。
男は頭を左右に振ると、座ったまま近くのバケツを足元へ引き寄せた。中は鼠色の泥で満たされている。
男は鋼を見る。鈍く深く光を反射する刃の形。その向こうに、最愛の女性と最大の友と過ごした日々の最高の輝きが見える気がして……。
彼はそれに蓋をするように薄く薄く泥を塗った。泥を塗るか塗らないかで、この後の焼き入れの結果が大きく変わる。この鋼が立派な包丁になれるか愛されない塊になってしまうかが分かれるのだ。
男は鋼の全ての輝きが失われ、覆い尽くした泥が乾いていくのをじっと、しかして呆然と見つめている。
彼は既に心ここにあらずだが、作業はまだ半分も行っていない。ここから熱し、また熱し、研ぎ、研ぎ、ひたすら研いでようやく一本の包丁に仕上がるのである。
先は長い。男の夜は終わりそうにない。
「紘子……。松葉……」
男の呟きも止みそうにない。




