序.
朝六時、マンションの一室。目覚まし時計の音が響く。生田目夏介はこの時点でもう違和感があった。
おかしい。目覚ましの音が違う。そもそも俺は朝の目覚ましを時計じゃなくてスマホでセットしている……、寝惚けた頭が妙に回るほどの衝撃だったことにも驚きつつ、生田目はゆっくり目を開けた。
「……あ?」
知らない天井だ。なんだ? 俺は交通事故にでもあって病院に運び込まれたのか? 生田目は部屋を見回し、どうやらそうではないらしいことを理解する。
ベッドは青いボーダーのカバーだし床にカーペットが敷いてあったりタンスなどの家具もあったり。あちこちに趣味のフィギュアやプラモデルが飾られ、その辺に漫画が落ちている。明らかに病室ではない。
身体が健康らしいことは一安心だが、そうなると全く見覚えの無い部屋なのがより恐ろしい。
取り敢えずベッドから出ようとして、ここも「俺はいつも布団で寝ていたはずだ」と違和感を感じる生田目は頭痛に襲われた。
「うっ……ぐっ……」
俺はどうしちまったんだ? 昨夜仕事帰りに深酒でもして、友人の家に厄介になったのか?
「んん……、お」
そこで生田目はまだ目覚ましを止めていないことに気付いた。逆によくもまぁこんなにうるさいものを今まで無視出来たものである。彼が目覚ましに手を伸ばすと、ドアの向こうを誰かが歩いて来る音がする。
『ちょっと、いつまで目覚まし鳴らしてるのよ。うるさいからさっさと切りなさい』
「ん?」
なんだ今のは? 女性か? まさか友人の奥さんがこんな口の聞き方をして来るとは思えない。となると生田目は女性の友人か同僚の家に泊まったことになる。実家や妹の家にこんな部屋は無い。
だが待てよ、一人暮らしの女性の家にこんな部屋はあるまい。となると、今彼が泊まっているこの家には普段から男性が住んでいるわけで……。
なんてこった! ダブル不倫か!?
生田目は頭を抱えた。相手に夫か彼氏がいることは明白、彼自身も二十八ながら結婚三年目の妻、澪がいる。自他共に認める愛妻家の俺がなんてことを!? 生田目が目覚ましを止めるのも忘れ両手で顔を覆うと、
『もう! 早く切りなさいったら! 入るわよ!』
部屋のドアが勢い良く開かれた。そこに立っていたのは、
「た、立岡……?」
「何よ、昔の名字で呼んだりして」
大学時代同じ学部でよく連んでいた立岡梓だった。パジャマの生田目に対して彼女は既にセータージーパンその上にエプロンの、ばっちり決まった若奥様スタイルをしている。
しかも『昔の名字』、明らかに籍を入れている女性である。
「終わった……」
「何が終わったのよ。会社に遅刻したらそりゃ終わるでしょうけど。さっさと目覚まし止めて起きなさい!」
そう言いつつ梓は自分で目覚ましを止めてカーテンと窓を開いた。冬の朝の冷たい空気が元気な挨拶をする。
「うわ寒っ!」
「これで目、覚めた?」
半ば強制的にシャッキリさせられた生田目は、その頭で状況を整理する。
何故俺は立岡の家に? 最近あった覚えはないし、そもそもあいつは確か大学卒業して京都に行ったはずだ。俺は東京で暮らしているし、そっちに出張した覚えも無い。いつの間に俺はこいつのところに転がり込んだ? 思い出そうにも全く思い出せない。
「なぁ、立岡……。俺はいつここに……」
「その立岡ってやめない? 大学時代だってすぐに呼ばなくなったじゃない」
「はぁ?」
「はぁ、って何よ」
梓は不満そうな顔をする。が、彼女の言っていることは明らかにおかしい。生田目は梓のことをずっと「立岡」と呼んできた。在学中も、卒業してからも。たまにタピオカと呼んで怒られたことはある。
「バカ言うなよ。俺は付き合ってもねぇ女を下の名前で呼んだりしねぇよ」
「はい?」
梓は腰を折って生田目の眼前まで自分の顔を近付けた。ガチ恋距離である。
「バカ言ってんのはそっちでしょ。じゃあ私は付き合ってもない男と結婚したって言うの? 嫌いよ、そういうジョーク」
「は?」
すると別の部屋から、
「おんぎゃあああああ!!」
威勢の良い赤ん坊の声がした。
「あーはいはい、今行くからねー!」
梓は急に甘い声を出すと、ドアを一歩出たところで生田目の方を振り返る。
「子供も生まれたんだからシャッキリしなさいよね、あなた」
彼は二度寝したい程の頭痛と眩暈に襲われたが、冬の寒気がそれを許さなかった。




