八.あることないこと
その後紡は寝室や風呂場にトイレ、クローゼットの隅まで色々見て回ったが、
「どうですか?」
「趣味が合わない」
「あは」
「どうですか?」
「カビ臭い」
「えへ」
「どうですか?」
「芸能人のくせに芳香剤が安物」
「いひ」
「どうですか?」
「単純に物が多い」
「むふ」
芳しい結果が得られない。あまりにも何も無さ過ぎてつばきが新しい笑い方を開発し始めている。紡は洗面所の棚からマシそうなタオルを持って来ると、食卓の椅子の座面を拭いた。そして床に散乱している家具の中から目敏く見付けた灰皿を拾い上げ、それをテーブルに置くと椅子に腰掛けて一服し始める。
「灰皿あるとは言え、人の家で遠慮無いですね」
「細かいこと言わないの」
紡はゆったり煙を吐いた。「私はもう気持ちが切れています」というのが全身に表れている。桃子だって帰りたいので畳み掛ける。
「じゃあもう駆け込み寺じゃない病院行って下さいってことでファイナルアンサーですか?」
「うーん……」
紡は少し思案気な顔で一間空けると、俯き気味な菊代の方に声を掛ける。
「吉川さん。柳町さんが暴れるようになった頃、何か彼の身の回りで変化したことはありませんか?」
「身の回りの変化、ですか……」
「えぇ、どんな些細なことでも」
菊代はスケジュール帳を取り出して過去を振り返る。
「えぇと、ちょうどメインの役柄で出ていたドラマの収録が終わったり、CMの仕事が微増したり、アーティストのラジオ番組にゲストで呼ばれたり……あ!」
菊代は大声を上げるとメガネの位置を整える。
「それこそ今回の映画の主演が決まったのもちょうどその頃です!」
紡はそれを聞いて小さく頷く。
「なるほど、ラジオのゲストはともかく仕事面だけでそれだけの変化があったと。それはメンタルにも影響するでしょう」
「それだけではありません!」
菊代は急に部屋の隅のメタルラックに駆け寄って、まとめてあるファイルの山をゴソゴソやり始める。やがてその中から引っ張り出してきたのは一冊の台本だった。
「柳町は今度の主演映画で、退廃した環境で段々と心が壊れて行って殺人に走る男を演じるんです!」
「あは。怖い」
「柳町はあんな軽い男ですが、あれで役作りには真摯に取り組む男なんです!」
力説する菊代に、桃子も思わず前のめり。
「それってつまり、狂人の役作りをする内に本当に狂ったってことですか!?」
「もうそうとしか……!」
「紡さん!」
桃子が紡の方を振り返ると、彼女は一本目の煙草を吸い終わったところのようだ。ペースが早い。吸い殻を灰皿に捨てると腕を組み足を組んだ。
「『徒然草第八十五段』より『狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり』」
「はい?」
「『’’狂った人の真似だ’’と言って大路を走り回ったら、それはもう狂人と一緒だ』という意味です」
「『教えてつばきちゃん』助かります。つまりそういうことですね、紡さん!」
紡は次の煙草に火を着ける。
「まぁそういう言葉はあるけどね。ちなみにこの文章は最後、『偽りても賢を学ばんを、賢といふべし』とまとめられる」
「どういうことです?」
「狂人じゃなくても狂人の真似をしたら実質一緒なように、『アホでも賢者について学んだら、お前のその心意気だけはマジ賢者』ってことです」
「なんで急に湘南のラッパーみたいな口語訳なんですか……。あ、でもそれって」
「うん」
紡が愉快そうに煙を吐き出した。
「『そうあれかし』と思えば『そうある』、『呪』のあり方をこれでもかと体現したお話だね」
「もういいですよそれはぁ! つまり紡さんも役作りの影響だって言いたいんですよね!?」
「それが一番現実的じゃない? 役者さんは役に引っ張られるの多いみたいだし」
どうやらそれで結論が着きそうだが、桃子は菊代のことが気になる。
「あの、長期療養になるような病気は困るとか色々言ってましたけど、この決着はいいんですか?」
菊代は眼鏡の位置を整えると、少し悪そうな笑顔を浮かべた。
「これはむしろ歓迎ですよ。狂人役が本当に狂人だと言うのなら監督も喜ぶと思いますし、何より『柳町は狂人の役作りに没頭するあまり本当に狂ってしまった』というエピソードがあるのは役者のブランディングとして美味しいですから」
「うわぁ……」
これが芸能界か……、ちょっと阿漕なものを見た気もするが、これで話が終わるのなら桃子にとっても都合は良い。
「じゃあ紡さん、吉川さんもこう仰ってますし、今回はこれで決着でよろしいですか?」
「うーん……」
紡は一旦煙草を灰皿に置いて腕を組む。
「やっぱり本人にも直接、最近のことを聞いておきたいかな……」
「その心は」
「あの人なら、吉川さんも把握してない発狂の原因になり得る爆弾を抱えてそうだから。特に女性関係」
「あー……」
「あは。それこそ六条御息所ですね」
紡は菊代の方に視線を向けた。
「ということなので、柳町さんに電話を繋いでいただけますか?」
さっきの態度でこの様子だと、紡はやる気が無いのか職務に忠実なのか分からなくなる桃子であった。




