十一.光芒と暗雲
ある夜。はやてが、父が勘解由を家に招いて酒を酌み交わしているところに障子一枚隔てて通り掛かった時、こんな会話を耳にした。
「勘解由。お主は本当に立派になった。加治屋の当主としても申し分無い。お父上も大層喜んでいることだろう」
「いやぁ、私などまだまだ」
「だが勘解由よ。加治屋家を本当に立て直すには、まだ一つ足りんと思わんか?」
「一つどころか、あれもこれも足りません」
「うむ、うむ。そこでだな。ちよと耳を貸せ」
はやても思わず障子に耳を寄せる。父の言葉ははやての心を熱く貫いた。
「やはりここは嫁を取り世継ぎを作り、家を確かなものにする必要がある。そこで大城家と加治屋家の誼みをより深めるべく、はやてを嫁に進呈したいのだが」
私が迦楼、勘解由様と夫婦に!?
はやての心臓は爆発しそうだった。まるで自身がこの為だけに生きて来たとさえ思えるような乙女の夢が叶おうとしているのだ。はやては障子を突き破り、声を上げて乱入したいところだった。と言うかダメ押しの為にそうするつもりだった。
だからこそ、この一言は衝撃だった。
「いえ、今はまだ、お断りさせていただきたく存じます」
「なんと?」
「なんと!?」
「桃子ちゃんうるさい」
はやてはあまりにも予想だにせず、かつ絶望的な一言にむしろ「もう一度言ってほしい。聞き間違いをしてしまったから」というくらいの思いだった。予想外だったのは父も同じようだ。
「何故じゃ。そなたら好き合うておろう? 家の格としても、お互い申し分無いはずじゃ」
「御意。しかし……」
続く勘解由の言葉は、非常に彼らしいものだった。
「実は今、殿を亡き者にしてまだ五つの雪千代様を張り子の藩主とし、政を意のままに操ろうと謀る不届き者がいる……。私の手の者がそのような話を掴んでいるのです」
「なんと!」
「なんと!」
「……」
紡は無言で桃子の脹脛を蹴った。
「痛い!」
しかしこれにははやても危うく声を上げるところであった。我知らず必死に口元を押さえている。
「斯様な折りに祝言を上げてしまえば、私はそちらに忙殺され殿を守ること適いません。また、大城様の姫君の輿入れともなれば、殿御自ら祝いの宴席にお出でになるでしょう。古来より宴は闇討ちの檜舞台、連中にむざむざ機会を与えることになります。ゆえに、今はその時ではございません。どうか、者共を一掃するか事実無根であることを掴むまで、お待ちいただきますよう……」
「うむ……」
ここではやては深呼吸をし、決心を固めると勢い良く障子を開け放った。
「行ったぁ!」
「私、絶対桃子さんとは映画見たくないです。大事なシーンでうるさそう」
「奇遇だね。私もそう思う」
「は、はやて!?」
「な、なんだお前、そこにおったのか!」
驚く勘解由と父に、腹を括ったはやては勢いそのまま思いの丈をぶつけた。
「お話は全て聞きました。はしたない真似をお許し下さい。されど勘解由様のお志、私が久しく恋焦がれたあなた様そのものです。なればこそ私も輿入れの儀、勘解由様の時節がよろしくなるまでいつまでもお待ち申し上げる所存です。遠く江戸に行かれた歳月を思えば今更なんぞそのくらい! ですのでどうか……」
「はやて……」
はやてが座礼で深々頭を下げるのを、勘解由もまさしく愛情の籠った目で見ている。このまま愛と恋で時が止まりそう……、一行が察したように大城もそう感じたらしい。
「うおっほん!」
彼は大きい咳払いをしてから勘解由に詰め寄った。
「その為にも、早くことを片付けねばなるまい。して、その輩の見当は付いておるのか?」
勘解由は確証の度合いを示すように、やや大きく頷く。
「手の者によれば、御家老の丸蔵人が怪しいとのこと」
「何!? 御家老が!?」
「過労ってなんです?」
「藩主を国王とすると首相です」
「なんと!」
桃子が歴史の勉強をおさらいしていると、視界がぐにゃりと捻れた。
場所はお城の詰め所か何処からしく、勘解由が巻き物に向かってよく分からない執務をしているところだった。
「おや、もしかしてはやてさんの視点ではない?」
「武くんもいるからね。勘解由様目線の記憶も見れるみたいだ」
桃子達が状況を整理していると、一人の侍が庭から走って来た。
「申し上げます!」
「どうした」
「例の企みの件なのですが……」
「何か進展があったか」
「耳をお貸し下さい」
ここのところずっと、勘解由は水面下で計画の全容を解き明かすのに注力しているようだ。その報告を手の者から逐一聞いているのだが、
「なんだって!?」
その報告は衝撃だった。
例の丸蔵人の屋敷に、はやての兄上様が頻繁に出入りしていると言うのである。
もちろん勘解由は悩んだ。
あいつが、左之助が謀議に加担している? 江戸で学んだ全てを、青春を費やしたあの日々を、藩の為に役立てようと誓ったあの日々を、過酷な稽古と学問でくたくたになりながらも、明るい未来を作り上げることを希望に目だけは輝きを失わなかったあの日々を、共に過ごした同志のあいつが……?
しかも間の悪いことに勘解由はつい先日、手の者の調べで丸蔵人はクロであると証拠を掴んだところだったのだ。彼は今まさに大城と組んで殿に全てを報告し、丸一派粛清を拝命しようと準備を進めている最中でさえあった。
「ご苦労様。下がっていいよ」
「はっ」
手の者を下がらせると、勘解由は目元を手で覆った。しかし江戸で学んだ秀才である、いつまでも悩んでいる時間が一番致命的であることは理解している。彼は一分もそうすることなく、早い足取りで大城屋敷に向かった。
今ならまだ間に合うかも知れない、そんな勘解由の焦る心理かのように視界がまた動く。




