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第8話♀ 幸せに手をつなぐということ

 べーさんからのメールに書いてあった新聞社のサイトでその見出しを見た時、思わず大声を出してしまった。しかもアイスティーの入ったカップに肘をぶつけしまい、テーブルにアイスティーが思いっきりこぼれてしまった。

「あーーっと! って、えー!? ウソでしょ!?」

 CUPID遺伝子の論文が取り下げって、何それ?愛のキューピッドは存在しなかったってこと!?



 テーブルの上を片付けて、急いで研究室に向かった。新聞の記事だけでは正直分からない。論文を掲載していた雑誌のサイトを見ないと、正確なことは分からない。

 研究室に着いたのは朝の8時前。まだ誰もいない。さっさとパソコンを立ち上げた。

 論文取り下げというのは、一度発表された論文について何らかの不備やミスがあり、掲載を取り消すことだ。

 論文が掲載されるときにはレフリーと呼ばれる専門家の審査があり、不備がある場合は一度返却し、追加実験することで掲載されることがほとんどだが、ごくまれに不備が指摘されないまま掲載されてしまうことがある。その場合、掲載後に他の研究者から指摘されることで不備が見つかる。

 論文取り下げには2つのケースがある。ひとつはニュースでもてはやされる、いわゆる捏造だ。この場合は意図的なデータ改ざんであり、論文投稿者は厳しく弾劾される。もうひとつはデータが不明瞭であったり解釈に無理があったりするなど、本人に悪意はなくとも論理的ではないとして取り消しになる。

 ブラウザを起動させ、サイトにアクセスすると、確かにCUPID遺伝子の論文取り下げの記事が載っていた。理由は統計処理に不備があること、マウスの生殖細胞でCUPID遺伝子が発現しているというデータも再現性が100%見られていないとの指摘があったとのことだった。どうやら意図的な捏造ではなく、論文にするには決定的なデータがないという程度のものらしい。

 こういうタイプの論文取り消しは、まれにだがある話だ。捏造ほど社会的に厳しく責められないものの、同業者には知れ渡り、少し研究がやりにくくなるというのを聞いたことがある。そういえばプライマーをくれたK大の友達は忙しいとメールにあったけれど、おそらくこの論文取り下げの対応に追われていたのだろう。

 ぼんやりと考えていると、慌ただしくふじーが部屋に入ってきた。きっと、同じようなメールがべーさんから届いたんだろう。

「おはよー。あ、それ」

 ふじーは私のパソコンの画面を見ていた。やっぱり同じ目的だったようなので、論文取り下げの理由を説明してあげた。

「ふーん、なるほどね……」

「なんか、がっかりだなぁ」

「なんで?」

「なんでって……」

 だって、私たちはこのCUPID遺伝子の相性がいいというのがきっかけになって意識し始めたようなものじゃない。その前提が崩れているんだから、その先のことが危うくなるのは当然じゃない。

「ふじーだって、CUPID遺伝子がきっかけだったんでしょ?」

「まぁ、なかったらちぃへの片想いが終わっただけだったかもなぁ」

「でしょ。だから私たち……付き合う必要なかったんじゃない?」

「はあ!?」

 ふじーは大きく口を開けて驚いていた。そのとき、ちぃが「おはよーございまーす」といつものように陽気な挨拶をしながら入ってきた。

「さーて実験しなきゃ。じゃ、そういうことだから」

「おいおい、そういうことって……」

 ふじーの驚きの顔を横目に私は部屋を出ていった。途中、ちぃのきょとんとした顔もちらりと見えた。



 確信がないと次に進めない……私の恋愛っていつもそうだ。最初はべーさんのことが気になってはいたものの、あと一歩が踏み出せなかったのは結局私のそういう性格が出たからだ。

 恋愛も論理的に、なんてそこまで理系バカじゃない。ただCUPID遺伝子の相性がなかったら、ふじーとYUIの話であそこまで盛り上がらなかったかもしれないし、CUPID遺伝子こそ、見えない赤い糸じゃないかとも思っていた。そう、突然赤い糸が切られたようなもの、そもそも存在しなかったようなものだ。そんな状況でこれ以上好きでいよう、というのは、私には無理だ。

 ガチャ、というドアの開く音で意識は現実世界に戻った。ドアにはちぃが顔を覗かせていた。

「どうか……したんですか?」

 ちぃが不安そうに尋ねてきた。朝っぱらからあんな喧嘩見られたら、普通気になるよな。

「まぁちょっとね……ちぃ、今時間ある?」


 私はちぃを連れて、建物から少し離れたところにあるベンチに座った。ここならふじーに見られたり聞かれたりすることもないだろう。

 私は今までのふじーとの関係、それとCUPID遺伝子の論文取り下げのことをちぃに話した。

「あ、本当にあの論文取り下げになったんですね」

「本当に、てなに? ちぃ何か知ってたの?」

「べーさんが少し前に話してたんですよ。あの論文、データ処理と解釈に無理があるって。この前の学会のときでも、それでかなり揉めたらしいですよ」

 そういえば、一番最初にDNA鑑定の作業していたとき、べーさんは論文についてどこか疑問をもっているかのような言い方だった。

 べーさんはそのときからCUPID遺伝子について疑っていたんだ。だからDNA鑑定の作業中にも「ゲームとして、深く考えないように」と忠告していたんだ。

 結局、何もかも本気にしていた私が空回りしてただけ、ということか……情けない。愛のキューピッド様なんて、やっぱり存在しないのか。

 空虚な気持ちになっていると、ちぃがこちらを伺いながら話しかけてきた。

「それで……ふじーさんとはどうするのですか?」

 痛い質問だな、それは。

「どう、しようねえ……」

 付き合いきっかけとなった前提が崩れたのは確かだ。だからさっきは勢いでふじーに言いがかりをつけてしまったが……

「ゆっきーさん自身はどう思ってるんですか?昨日デートしてて楽しかったんですよね?」

「うん、まぁ……」

 おだてられて買ったメガネ。晩ご飯で食べたオムライスもおいしかった。帰り道にされたキスは、そういえばふじーが食べてたシーフードオムライスの、カニの風味が少ししたっけ。

 うん、楽しかった。それは間違いない。そして……嬉しかった。

「それって重要なことじゃないですか?」

 ちぃが真顔で尋ねてくる。

「重要?」

「そうですよ、論文がウソかホントか、CUPID遺伝子が本当にあるのかどうかわからないけど、デートが楽しかったってことですよね。それって、普通に付き合っていくのに何の問題もないんじゃないんですか」

 それは……そうだ。

「私の彼氏だって、たまになんでこんな人と付き合ってるんだろう、て思うことありますよ。食べ方汚いしメールすぐに返さないしデートには必ず5分は遅刻するし、あとは……」

「いや、うん、わかった。それで?」

「それで……そう、でも好きなんですよね。論理的に考えたらダメなところいっぱいあるんですけど、それでもいっしょにいると楽しいんですよ。きっとそんなもんなんですよ、付き合うって」

 そんなもん、か。個人が楽しむ分には、MHCだのCUPIDだの、分子生物学的に考えなくてもいいってことか。

「普段生活しているときとかって、そういう『最初の感情』が大事じゃないのかなって」

「『最初の感情』、ね……」

 上を見上げると、樹木の葉がきれいに揺れていた。こういうとき、緑葉体は緑の波長を吸収しないからな……なんて誰も思わないもんね。

「ありがと。少し楽になったよ」

 ベンチから立ち上がると、幸せそうに手をつないでいるカップルが歩いているのが見えた。



 とはいえ、なかなかふじーに話しかけるきっかけがない。向こうも今日は実験が忙しいのか、それとも朝のことを気にかけているのか、話しかけてくる気配もない。

 最初にデートの約束をしたみたいに、家に帰ってから電話したほうがいいかな……そう思って帰る準備をしていると、急にふじーが話しかけてきた。

「今から時間ある?」

「今から? まぁ、あるけど、どうして」

「じゃあ下の自転車置き場で待ってて。すぐ行くから」

「いいけど……なんなの?」

「あとでいろいろ説明するから、とりあえず下で待ってて」

 なんだか訳わからないけれど、一応待つことにした。5分くらい経つと、ふじーが建物から出てきて、すぐに自転車に乗った。

「付いてきて。10分くらいだから」

「ちょ、ちょっと何!?」

 午後8時。ちょっと気を抜くと暗闇のなかに姿が見えなくなりそうだった。慌てて私も自転車に乗り、ライトを付けて後を追いかけた。

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