第7話♂ 梅の味のキッス
「今週の日曜だけど時間ある?」とゆっきーから誘われて、急いで男友達とのバドミントンとの約束を断ったところだった。
昼にゆっきーに八つ当たりしたのは本当にヒドかった。おまけに何もかもCUPID遺伝子のせいにして……情けない。
遺伝子が全て決めている、と一部の人たちは思い込んでいるのかもしれないけれど、分子生物学をやっている人間なら、遺伝子が全てを決めていないというのは常識だ。特にヒトの場合、最後は環境が決める。とはいえ結局今回の場合は、CUPID遺伝子の作用がそのまま決めてしまったことになっているのだが。
まぁいいや。まずは週末のデートを楽しむとするか。さて、どこに行けばいいものか……
日曜日。
地元情報誌を読んでいたゆっきーが行ってみたいと言っていた、去年オープンした複合商業施設に行くことにした。バイトもろくにできない大学院生だからあまりお金は使えないのだが、けっこう手頃な値段のショップが多く、自分の分もいくつか買ってしまった。ゆっきーはメガネも新調したいと言い出し、どのフレームが似合うかで小一時間ほど白熱した。ここはメガネフェチの僕としては簡単に譲るわけにはいかない……結局、赤の細いフレームのものにした。うん、似合ってる。
いろいろショップ巡りをしているうちに、ご飯を食べるのにちょうどいい時間になったので、商業施設の近くにある、評判のオムライス専門店に僕たちは入った。僕はホワイトソースのかかったシーフードオムライスを、ゆっきーは梅ととろろが乗った和風オムライスを頼んだ。ゆっきーがお手洗いに行っているときに僕のケータイが鳴った。ディスプレイを見るとベーさんからだった。
おいおい、このタイミングでかよ……まさか、今から餌やり交代とか言われないだろうなぁ。
通話ボタンを押すとべーさんの声が聞こえてきた。
「今ちょっと大丈夫か?」
「あ、いや……」
せっかくのデートなのに、いくらベーさんでも邪魔されたくはない。
「なんだ、ゆっきーとデートか?」
「え、どうしてそれを?」
「当たりかよ」
「まぁ、そういうことです」
「そうか」
べーさんが何か言い渋っているような様子が感じ取れた。どうもただの餌やり交代のお願いではなさそうだ。
「何かあったんですか?」
「ん? まぁちょっと、な……でも二人が楽しそうならいいや」
「それはどういう……」
別に気にしなくていいよ、とべーさんは話を切り上げようとしているが、そこまで言われると気になってしまう。
「じゃあ、後でメール送っとくから、それ読んどいてくれよ」
「わかりました」
「じゃ、これからもお幸せに」
なんだか変な挨拶だな……そう思っていたときにゆっきーが戻ってきた。
「電話?」
「そう、べーさんから」
「べーさんから?何?実験のこと?」
「いや、そういう雰囲気じゃなかったけど……またあとでメールするって」
「ふーん……」
「あ、そうだ、今日買ったメガネかけてよ」
「はぁ? ここで? ヤダよ」
「なんで? ここでかけてもいいようなデザインにしたじゃんか」
「まぁそうだけどさ……」
ゆっきーは渋々ショップ袋のなかからケースをとりだして、赤い細フレームのメガネをかけた。
「お、やっぱり似合ってる」
「ホントに?」
ゆっきーも手鏡を取り出して自分の顔を覗かせている。満足そうな笑顔。メガネフェチにとって至福の時。
「うーん、悪くないかも」
ゆっきーが鏡をしまったときに、ちょうど注文した和風オムライスがやってきた。
帰り道に着く頃にはすっかり日も沈んでいた。ゆっきーは思いのほかメガネが気に入ったのか、そのままかけ続けていた。
「じゃあ、私こっちだから」
僕がまっすぐに横断歩道を渡ろうとしたら、ゆっきーは左に曲がろうとしていた。ああそうか、こっからは別々か。
「また明日」
ゆっきーが自分の帰り道に行こうとしたところで、僕は引き止めた。
「あ、ちょっと待って」
「ん、何?」
ゆっきーが振り返った瞬間に、僕は目を閉じながら、彼女の唇に僕の唇を重ねた。ほのかに、さっきまでゆっきーが食べていた梅の酸味を感じた。
何秒か経った後ーー客観的には、もしかしたら1秒も経っていないのかもしれないけれどーー僕は唇を話した。ゆっくり目を開くと、いつの間にか閉じていたゆっきーの目がゆっくりと開くのが、メガネ越しに見えた。
「じゃ、また明日」
僕は笑顔で言った。
「うん、また明日。ありがとね」
ゆっきーも笑顔で手を振っていた。
次の日の朝。目覚まし用のアラームが鳴る前に、ベーさんからのメールの着信音で目が覚めた。そういえば昨日、メールするって言ってたっけ。メールにはこう書いてあった。
「すまん。昨日は徹夜明けだったからそのまま寝てしまった。で、用件だけど、○○新聞のサイトを見てみろ。何が書いてあっても驚くなよ」
……なんだこれ。なんかのニュースか?
眠たい目をこすりながら、コップにアイスコーヒーを注いで、パソコンの前に座った。 検索サイトで○○新聞と入力して、新聞社のサイトに行き着いた。最新の記事の見出しがいくつも並んでいるが……
コップを手に取ってアイスコーヒーを一口飲んだときに、その見出しが目に飛び込んできた。動揺した僕は思わず手を滑らせて床にアイスコーヒーをぶちまけてしまった。
「あーーっと! って、え!? はぁ!?」
床にこぼれたアイスコーヒーとパソコンの画面を交互に見ながら、パニックになっていた。見出しにはこうあった。
「キューピッド遺伝子 論文取り下げへーーデータの信憑性、解釈に疑問」