第2話♀ 恋心もPCRで増えればいいのに
私がCUPID遺伝子で恋愛の相性を計ろうとしたのは、ほかでもない、べーさんとの相性が知りたかったからだ。
私がK大からここの研究室に来た4月。研究というのは学部4年生のときに1年間やってきたからどのようなものか分かってはいるけれど、やはり新しい環境というのは緊張するものだった。そのときに最初に話しかけてきたのが長谷部さんーーべーさんだった。
「名前は・・・なんだっけ?」
「あ、杉沢友紀です」
「じゃあ、ゆっきーだな」
「はい?」
「あだ名で呼ぶのが伝統なんだよ、ここの研究室の。だめ?」
「いえ・・・別にいいですけれど」
「僕は長谷部。ここではべーさん。よろしく」
それから同期となるふじーと、1つ下のちぃを紹介してもらった。ふじーは学部のころからここの研究室にいるから、ここの研究室歴は2年目ということになり、新しく入ったちぃに基本的な実験手法を教えているところだった。そのため、私はべーさんから実験手法や、他にも大学のことや周りのお店のこととかも教えてもらうことが多かった。べーさんはドクターの3年でいろんなことを知っている(研究室では修士のことをマスター、博士のことをドクターという)。そうやって接する機会が増えていくうちに、なんとなくベーさんのことを意識し始めていた。
別に、恋愛に対して奥手というわけではない。けれど次のステップに進むきっかけというのが欲しいところだった。
そんなときにCUPID遺伝子のニュースが入ってきた。しかも論文を出した研究室は私の友達がいるところ。この偶然を使わない手はない。
「じゃあ友達にメールしときますね。届いたらみなさん、サンプル採取にご協力をー」
さっそく友達に連絡を取ってみた。どうやら友達は別の研究テーマをもっているらしく、CUPID遺伝子の研究は3月までいた修士課程の人がやっていたとのことだった。幸い、サンプルの保管場所やデータなどは友達が引き継いでいたようで、ヒトでも同様の遺伝子があることは確認できているが、実際の機能はまだ解析中で、それ以上のことはさすがに他大学の人に教えることはできないと言われた。プライマーを送って欲しいと頼むと、本当はあまりよくないだけど・・・と断られ気味だったが、ゲームで楽しむだけだから、ということでこっそり送ってもらうことになった。
正直、詳しいことはどうでもいい。とにかく今は、べーさんと付き合うきっかけがほしいだけ。あとついでにだけど、同期のふじーはたぶんちぃを狙ってる。ついでにだ。手伝ってあげよう。
ああキューピッド様、私とべーさんのCUPID遺伝子が一致するように、愛の架け橋を!
数日後。プライマーが届いた。ちょうどボスは出張中。二人の愛を確かめるには絶好の機会だ。
CUPID遺伝子の塩基配列の解析は、大学研究室のノウハウを駆使すれば特別難しいものではない。
まずはサンプル。髪の毛でも爪でもなんでもいい。それをプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)溶液に入れて70℃で一晩置く。これで細胞などの余分なものは分解されて、剥き出しになった水溶性のDNAは水に溶けた状態になる。遠心分離機にかければ、分解されたタンパク質はすべて沈殿し、上澄みをとれば、これでDNA溶液は完成。
次にPCRと呼ばれる操作。ここでK大からお取り寄せのプライマーを使う。これをDNA溶液に入れてPCR装置にかければ、CUPID遺伝子の部分だけ増やすことができる。あとはシークエンサーという機械におまかせ。ATGCの塩基配列を書き出してくれる。これの解析に一晩。
この手法がニュースでもよく聞く、いわゆるDNA鑑定だ。警察やごく一部の研究所でしかできない最先端技術のようなイメージがあるが、実は分子生物学をやっている大学研究室では日常茶飯事の出来事。22歳の恋する乙女でも、3日あればできてしまうようなことなのだ。
そして今ちょうど、私はPCR装置を作動させたところだった。排気用のファンがうぃーんとうなりを上げている。
PCRはDNA中の特定の部分のみを増幅させる手法だが、これが確立したのは20年ほど前。これをきっかけに分子生物学は飛躍的に発展したと講義で聞いたことがある。PCRの原理を思いついた人はノーベル賞をもらっている。しかもその原理を思いついたのは、付き合っている彼女と夜道をドライブデートしていたときだというのを、院試の英語読解で知った。ふとしたきっかけとひらめきで、ものごとは大きく進み出す。分子生物学も、恋愛も。
「それ、例のキューピッド?」
通りがかったべーさんが話しかけてきた。
「あ、そうです。ふふふ、どうなりますかね?」
やばいやばい、思わずにやけてしまう。
「なぁ、あの論文最後まで読んでみた?」
「あ、まだ・・・ちょっと自分の実験とかが忙しくて」
実際忙しいというのもあったが、本当のことを言うと専門外の論文というのは思いのほか読みにくい。
「あの論文だと、免疫に関わるMHCと今回のCUPIDを対比させて、多様性と同時に同一性の重要性も説いているんだ」
「MHCと対比?」
臭いで相性を認識するというアレだ。
「MHCは免疫システムに関わって、外部からの防衛を行う。ヒトは臭いで自分のMHCとは違うタイプを認識できるという話があるけど、それは子供が組み合わせによってより多様な免疫システムを持つためだよ。それに対してCUPIDは受精や発生段階で機能する、それは子供が生まれるときに一致率が高いほど正常に生まれやすいという理論らしい。両方とも結局は健全な子供ができるようになんだけど、時間をかけて多様性と同一性を確認する期間を設けた、それが恋愛だという結論だ」
すごい・・・やっぱドクターまで行く人は違うんだな・・・
「今までは多様性が重要視されていたから、同一性に注目している点はおもしろいと思ったけどね・・・」
「けどね・・・って、なんですか?」
なんだか、ずいぶんと引っかかるような語尾。
「いや、なんでもない」
べーさんは実験ノートやプリントをまとめて、部屋から出ようとしたとき、ああそうだ、と言って私のほうに振り返った。
「そのキューピッド、あくまでゲームだと捉えておいたほうがいいよ。あまり深く考えないように」
「え、あの・・・」
私が引き止める間もなく、べーさんは部屋を出て行ってしまった。
装置は相変わらずうぃーんと単調な音を出している。今この中で、4人のCUPID遺伝子は指数関数的に増えている。頭の中でATGCの塩基ががっちゃんがっちゃん結合している様子を想像してみる。
私がもう少し積極的だったら、こんなことしなくてもべーさんを誘うことができたのかもしれない。でもあと一歩のきっかけというか勇気が足らない。私の気持ちもまだ足りないということなのかな。
あーあ、私のこの恋心も、PCRで簡単に増やしてくれればいいのに。
次の日の夜。各自の実験に区切りがついたところで、みんなは私のパソコンの前に集まってきた。いよいよCUPID遺伝子のマッチ率が明らかになるときだ。
「友達の話では、50%くらいは普通にありえるらしいです。チンパンジーのカップルはみんな52%以上、最高で71%だったらしいです」
「ああ、論文にもそう載ってたな」
さすがはべーさん、論文を読み込んでいるみたい。
「さーて、誰と誰からやってみます?」
「はいはーい、やりたいです!」
ちぃが右手をあげてアピールしている。多分この子は本当にゲーム感覚なんだろう。フフン、ふじーが狙っているとも知らずに。
「じゃあまずはちぃとべーさんから」
まずは当たり障りのないところからやってみるか。ちぃをべーさんの配列を選択して、マッチ率を測定すると・・・49.8%。
「うーん、まずまずってところ?」ちぃはべーさんの方を見る。
「ちぃとはいい友達でいられそうだな」べーさんも興味を持ち始めたか、少し身を乗り出してきた。
お、いい感じ。じゃあもうワンステップ置きますか。
「次は・・・ちぃをふじーでいい?」
「お、僕とちぃはどうだ?案外いい感じになりそうな気がするんだけど」
今ふじーは内心ドキドキしてるに違いない。これでちぃとの恋の行方が決まっちゃうんだから。
私はふじーとちぃの配列を選択して測定する。結果は・・・
「40.1パーセントぉ!?」ふじーは画面に表示された衝撃的な数字に大声を出した。
フフン、お前の恋も終わったな。MHCだけでなくCUPIDまで合わないとはね。
「先輩、いいお友達でいましょうよ」ちぃが笑顔で、ある意味残酷な言葉をかける。この子は本当に自由だなぁ。
「うん、友達、友達ね・・・」
ふじーは作り笑顔で答えていた。あーあ、また「ぷしゅー」ってしぼんじゃったよ。
ま、いいか。余興と考えれば十分楽しめたし。ここからがメインなんだから。
「じゃあ次は・・・私とベーさんでいってみましょうか」
いよいよ、ドキドキ。私とべーさんの配列を選択。愛のキューピッドが、CUPIDが、私とべーさんを引き合わせて・・・
・・・って、なになにウソ冗談でしょ!?
「43.1%だってよ」しぼんでいたふじーがけだるそうに数字を声に出した。
「まぁまぁじゃないですか」ちぃがパソコンの画面を覗き込んでくる。
「ゆっきーともいい友達でいられそうだな」べーさんは相変わらず冷静に答える。
いい友達・・・恋に発展する可能性ゼロを示す残酷な言葉「いい友達」。さっきもちぃがふじーに向かってそんなこと言ってたっけ。あーあ、私まで「ぷしゅー」ってしぼんじゃいそうだよ。
「あとはゆっきーさんとふじーさんですね」
ちぃが相変わらず楽しそうに話しかけてくる。あーそうか、一応組み合わせとして残っているのか。
ちらりとふじーの方を見てみる。ふじーはちぃとの可能性がなくなった時点でかなりテンションが下がってるように見えた。うん、私もいっしょだ。べーさんとの可能性がなくなってテンションガタ落ちだよ。別にふじーとの相性なんてどうでもいいけれど、一応このゲームは終わらせておくか。
ふじーと私のCUPID配列を選択し、マッチ率を測定させる。別に結果なんてどうでもよかったからぼーっとしていた矢先、ちぃとべーさんが大声をあげた。
「おお!」
「すごーい!!」
ぼーっとしていた意識を呼び起こし、目のピントを画面に合わせる。表示されたマッチ率の数字は・・・
「91.2%」
「うそ!?」私も思わず大声を出してしまった。ふと隣に目をやると、ふじーも画面を私を交互に見つめていた。