第9話♂ 最初の感情
うしろからゆっきーがちゃんと付いてくるのを時々確認しながら、街頭があまりない道を自転車で駆け抜けていった。
まさか、CUPID遺伝子の論文データに問題があろうとは思ってもいなかった。今日べーさんにいろいろ確認してみると、学会のときにかなり揉めていたらしい。そういえばべーさんが学会から帰ってきたときに何か言いそうな雰囲気があったが、まさかデータそのものに問題があったとは。
データに問題があれば、著者の主張は当然通らない。同じように、論文取り下げになれば、それがきっかけになって付き合おうとした僕とゆっきーの関係もあやふやになるというのは、分からないまでもない。けれども……それでは納得いかない。
こういうとき、女性にはあれこれ説明しても逆効果だというのは、数少ない恋愛経験から得た教訓だ。とりあえず見せて感じ取ってもらって、それから自分の想いを伝えるのが一番だ。
目的の場所に着くと、ゆっきーも自転車から降りた。
「ちょっと、速いって……ていうかここどこ?真っ暗なんだけど」
息を荒らしたゆっきーがひざに手をあてて呼吸を整えていた。他には川のせせらぎしか聞こえない。
「もうちょっとだから。あ、階段降りるから気をつけて」
「だから、何なの?」
「足下気をつけてよ。いっしょに降りるか」
僕はゆっきーの手を握って、わずかな月明かりに照らされた階段を降りていった。まだ息が整っていないゆっきーのペースに合わせて、ゆっくりを階段を降りていった。手すりはないから、本当に気をつけないと転び落ちてしまう。
隣からはゆっきーの息づかいが、もう少し遠くからは川の音が聞こえてくる。真っ暗だから、余計音に敏感になっている。よく考えたら、こんなところにゆっきーもよくついてくるなあと思う。最悪の事態だってありうるはずなのに。もちろんそんな気はさらさらないけれど。
最後の一段を降りると、それまで足下を見ていた僕たちは視線を正面に上げた。すると「あっ」とゆっきーが声を上げた。そこには。
光。
淡い、光。
点滅する、黄緑の光。
「ホタル……?」
ゆっきーはあたりを見回していた。黄緑の光が、ところどころで輝き、また消えていく。ゆっきーの目の前で光り、それに驚いたゆっきーが「わっ!」と声を上げた。
「すごーい。きれい……」
「ホタル見たことは?」
少し落ち着いたところで、僕はゆっきーに話しかけた。
「ううん、初めて。ほんとう、きれい……」
「ここ、地元の人でもほとんど知らない穴場なんだ。友達に教えてもらったんだけど、いいでしょ?」
「これを見せてくれるために、わざわざここに?」
「ま、そんなとこ。でもよかった。きれいって言ってくれて」
「うん、実際きれいだし」
「そう、つまりは……そういうもんなんだよ」
「何が?」
これをゆっきーに見せたのには訳がある。ただしそれには、ホタルを見て開口一番に「きれい」と言ってもらうことが必要だった。言ってくれれば、僕の想いをそのまま伝えられる。
「ゆっきー、ホタルがどうやって光ってるかって知ってるよね」
「当たり前じゃん。ルシフェラーゼでしょ?」
ホタルは体内でルシフェリンという物質がルシフェラーゼという酵素によって酸化されることで発光する。分子生物学をやっている人間なら常識だし、これらの物質を実験生物に導入して、その光の強さから遺伝子活性を計測することもよくある。
「それが何?」
「科学的にはそういう原理だし、僕らは当然そのことを知ってる。だけど……」
ホタルが、僕とゆっきーの間でぼんやりと光った。
「だけど、ホタルの光を見た時、僕たちはまず最初に『きれいだ』って思う。その『最初の感情』が大事じゃないかなって思うんだ」
「最初の感情?」
ゆっきーが僕のほうを向いた。僕もゆっきーに向かって言った。
「それで……ストレートに言うよ。僕は……ゆっきーのことが好きだ」
また、ホタルが僕とゆっきーの間で光った。
「CUPID遺伝子の機能が本当かどうか、僕には分からない。だけど、ゆっきーが好きだっていう、この気持ちは……本物だし、大事にしたい」
ゆっきーはしばらくの間、下にうつむいていた。やがて顔を上げると、くるりと僕に背を向けて話し始めた。
「確かに……そうだよね。付き合ってるときに遺伝子がどうとか免疫がどうとかって考えないし、考えたこともないし」
ゆっきーの頭上で、ホタルが輝いた。
「変に考えすぎたね、私。もうちょっと素直に楽しめばいいのにね」
ゆっきーは振り返って僕の目の前に立った。
……やれやれ、やっと納得してもらえたかな。直感で行動したり論理的になったり……オンナゴコロって難しいものだ。オトコには永遠に分からないだろうな。分かろうと努力はするけれども。
さてと、僕も今の気持ちに素直になるか。
ホタルの光がわずかに照らす中、僕たちは口づけを交わした。