謎の天国
お題:謎の天国 制限時間:1時間
テーマ性を希薄にし、行動・会話を主体にしたかった。
目覚めた時、そこには川も、花畑も、ましてや「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」などと書かれた門もなかった。
僕は間違いなく死んだはずだ。
紛争地帯における社会福祉活動のさなか、不発弾を踏んでしまい足が吹き飛び、更に悪いことに傷口から何か質の悪い細菌に感染し、苦悶と激痛の中で、僕の意識は途絶えた。
足元を見つめる。二本の足がしっかりと――透けることもなく――地を踏みしめている。
――やはり、僕は死んだのだ。
確認を新たにし、再び周囲を見渡す。
街並み。
ビルの群れは黄色の空から大地に向かって湾曲しながら逆さまに屹立し、花々が大気中を漂っている。
そこには、天国や地獄の門も、三途の川もない。
途方に暮れるほかなかった。
予期とは――僕は無宗教を自認しているが、それでも社会一般に共有された言説として、一端の他界観は存在していた――余りにも隔たった光景に脳がショートし、ひたすらに困惑を出力し続ける待機時間から脱した後で、僕は一先ずの行動に移ることにした。
街――少なくともそのように見える――の中を歩き回って誰か人がいないかを探してみる。
幸いにして、行動を開始してまもなく、階段の上に――これは、天から伸びている建物に通じているようで、地上いたるところを徘徊していた――人の存在を見つける。
「すみません」
呼びかけると、彼は――その姿は、僕と同じくホモサピエンスであるように見えた――僕が用いているのと同一の言語で反応を返してきた。
「なんだい?」
「ええっと……取り敢えず、ここは死後の世界であっていますか?」
「ああ、新入りかい。そうだよ。ここにいる人は、皆向こうで死んだ経験があるから」
「じゃあ、ここは……一体どんなところなんですか?一般にイメージされるような所とは大きく違っていますし、そもそも、天国なのか、地獄なのか」
彼は肩をすくめる。
「さあね。多くの人にとって、それが問題なんだ。ここには天使も、悪魔も、神様も見当たらない。分からないんだ。結構な人は――生前に敬虔だった人なんかは特に――この状況を苦にして自殺してしまう。だから、地獄なんじゃないかっていうのが大まかな潮流だけどね。ほら、言うじゃないか、『地獄とは神の不在なり』ってね。まあ、俺みたいな――見たところ、君もだが――ぼんやりとした無神論者には特に気にならない奴もいるし、天国と言われても問題はないかもしれない」
神の不在。少なくとも、僕にとっては――今のところは、だが――苦役とはなりそうにない問題だ。だとすれば、ここは少なくとも僕にとっての地獄とはなり得ないだろう。それよりも、気になることがある。
「死後の世界なのに、自殺が――死ぬことが――出来るんですか?」
「ああ、死ねる。本人が望めば、だから自殺によってのみだけれどもね。ここには老化もないし。死んだら、消える。消滅するのか、また別の場所に行くのかは知らないけれど。」
そのあと、幾つかこの謎の天国についての情報をもらい、僕は彼と別れた。
地上を緩やかに移動し続ける階段の上に立ち、僕は空を見上げる。曲線を描きながら伸びるビルの根元は、空一面の黄色い靄に阻まれて見えない。
世界観は破綻した。天国と地獄というセム語系の神話的世界も、転生という仏教、ドゥルーズ派、ニューエイジ的概念も、黄泉やシェオルといった素朴な他界観も、霊魂の不在という唯物論的、世俗的世界観すらも。
宗教的な――或いは宗教と非宗教の――争いの原因は、多くの場合その世界観の異同にある。神はその一部分に過ぎない。それは諸概念の区分、またそれらの関係性であり、正当性の分配の問題であり、行動と生の様式の問題だ。一神教、多神教、無神論、或いは懐疑主義や多文化主義も、何らかの理論的枠組み、公理系を有さねばならない点において等しく排他性を免れ得ない。
それらすべてを破壊し、アノミーへと導きうるという点において、この体験は地獄となりうるだろう。秩序と混沌。エリアーデ的な聖と俗。
だが、それでも僕は存在を持続していた。
(理解しなくてはならない――安心のために。受け入れなくてはならない――ただ、生まれた時からそこにあったというだけの、生前の世界のように)
生活と慣習。それは僕から選択を失わせ、世界の複雑性を縮減させるだろう。謎だらけであることと、そこに存在のための主観的正当性を確立することは背反ではない。望めば――理論的には――天国と感じることも出来るだろう。
溜息をつくと、僕は新しい生活のために行動を始めた。剥き出しの実存と向き合いながら。
謎だらけの天国に生きるために。