刺客1
翌朝、目覚めてもあまり体調は良くなかった。熱でもあるのか身体がとても重い。前頭葉の辺りも相変わらず痛みがある。スマホを開いて六時だと分かったが、今日は学校を休もうと決めた。とても行くにはなれなかった。それから一時間、機械のようにシャワーと着替え、朝食と歯磨きを手際よく済ました。QOLというか、やはりしっかり生活が整うと幾分だるさも解消された。その後でベッドに座って体温計で熱を測った。体温は36.2。あんまり心配することもないかもしれない。その時、バンバンとドアを叩く音がした。
(なんだ?)
インターホンを押さずに、そして何も言わずにドアを叩く。叩くってより殴ってるような音だ。ガン! ガン! ガン! と規則的に、すごい音を立てている。恐る恐るドアに近寄って覗き穴から様子を窺って愕然とした。見知らぬ四十代くらいの男がハンマーを振り被ってはドアを殴っているのだ。ドアにの振動が俺を跳ね飛ばし、聞こえてくる音だけが状況を教えてくれた。まず、音に怒って両隣の部屋の住人が同時に出てきた。一人は悲鳴を上げて部屋に戻ったらしいが、もう一人のじいさんの方は怒鳴りかかった。
「おいてめえキチガイ野郎! うるせえんだよ殺し合いなら他所でやれや!」
男はハンマーを振るう手は止めなかったが、聞く気はあるらしくちゃんと返事をした。
「殺害する者とされる者が揃う場所。それがステージだから仕方ねえんだ。安心しなじじい、邪魔しないなら殺さねえさ」
「なめやがって……!」
となりのじいさんは短気だった。男に突進して、覗き穴からは見えなくなった。(外に出るか? いや、逃げるのは正解か? っていうか警察!!!)と、ようやく思い至ったところで警察が到着した。パトカーのサイレンと駆け上がってくる警察の足音……。安心からかまた気絶してしまったので、次に目が覚めた時に俺の部屋にはいなかった。
「知らない天井だ……。……。ゴホッ」
本当に知らないところにいた。小さな部屋でベッドが二つ、それだけのための部屋だった。ドアがガチャと開き、スーツを着た男が三人入ってきた。先頭に立つ、中年の渋い男性はニコリと笑いかけた。
「気が付いたのですね。どうも貴方は酷い頭痛……のようなものになっていたようで。医務官が詳しいことを言っていましたが、専門外ですからよくわかりませんでした。とにかく貴方はもう大丈夫らしいですよ。あぁそれと、私所謂ポリスマンでしてね。浦中と言います」
「はい……」
確かに今朝のだるさがもうない。体調面は今年最高かもしれないくらいにスッキリしていた。時計は午後二時を示していた。俺はベッドから上体を起こし、浦中も椅子に座った。この人の部下と思われる二人は何も言葉を発することなく立っている。浦中は写真を取り出した。
「この人物、誰なんですか?」
「ハンマー男……。いえ、改めて見ても全く覚えのない人です」
「そうですか。こいつも君も、今のところ善良な市民であるという情報しか出てこないんですよ。あ、今はしっかり拘留中ですからもう安心して下さいね。で、あの男は物騒なハンマー持って暴れるはずのない人間です。全く平凡な優しく真面目で陽気な人のようです。ところがですよ。奥さんの話では、今朝になって突然『殺さなくては』とか『使命に生きる』とか訳の分からないことを言いだして、奥さんの制止を聞かず、仕事もほっぽって、君の部家をノックしたわけですよ。まるで催眠術ですね」
催眠術ですね、じゃないが。この浦中、何も明るい話が無いにも関わらず笑顔を絶やさない。それが妙に癪に障る。俺の何を調べたのか知らないけど、それなら俺の家庭環境も理解しているんだろう。父はおらず、母は病気で祖父母の家にいる。そうなると気になるのは……
「母は今日のことを知っていますか?」
「ええ勿論。お祖母様が知らせていれば、ですがね」
不幸中の幸いだった。母は気が弱いので、こんな話聞いた日には更に病が酷くなる。それはばあちゃんも心得てるはずだ。
「佐久間くんから聞ける情報は無さそうだな。君は容疑者とかじやないし、も帰っていいよ」
「そうですか」
「うん。……あ、昨日オゼの公演行った? 平日だけど」
「行きましたが……体調を崩して途中で帰宅しましたよ」
「そうですかそうですか。それはお気の毒島」
浦中は最後まで笑顔を崩さなかった。小馬鹿にされているようでムッとして、一刻も早くその場を立ち去ってしまった。署の自動で空かないガラス戸を開けてから、最後の質問の意味を聞かなかったことを後悔した。しかしそれでも、浦中に会いたくなかったので戻ることは無かった。