崎谷美希4
「へぇ、まあ良かったじゃん」
「うん、あの無能どもも恩恵を受けるのは超気に食わないけどな」
「そういう動く有機物はどっかでしっぺ返しにあうから万事OKだよ」
二人には崎谷の家にあがったことは話さなかった。運良く会って、頼んだら作成したファイルを送ってくれた、と言っといた。何となく突っ込まれそうで嫌だったんだから仕方ない、許せ。
崎谷は今日もやはり大学には現れなかった。もしかしたら昨日のあれが、崎谷と話す最後の機会だったとしても不思議じゃない。そう思うともう少し話しておきたかったような、損した気分になる。
しかし土日を挟んで月曜火曜と過ぎてしまえば、もう崎谷を思い出すことは無くなっていた。1週間の半ばとなった今日も、抗議が始まるまでの時間を葛城湯宮と平凡に過ごしていた。
「なぁ湯宮。葛城でも良いんだけどさ、明日の講義の内容後で教えてくれよ」
「あぁ、オゼの公演行くから休むんだっけか?」
「そうそう! ライフワークだからさぁ、これは使命だからさぁ」
と、こう言えば嫌がられるのは承知の上で、予想通りに湯宮がかったるそうにそっぽを向いた。
「頼む立場なんだからもっとこう、腰を低くしなよ。ゴミ漁りのカラスでももっと上手くやるよ?」
「カ、カラス……」
葛城はすぐ煽る! 自覚なき煽り。全く楽しい! その時、座っている俺の肩を小さくトントンと、叩く者があった。振り返ると無表情な崎谷が俺を見降ろしていた。
「ねえちょっと、話があるんだけど来てくれない?」
周囲の視線がこっちに吸い寄せられてるのが伝わり、断れない状況になった。逃げるような気持で頷き、「じゃあ後で」と言って崎谷について教室を出た。三階の廊下の橋は一面ガラス張りで、落ち着いた街並みが広がっている。崎谷は腕を組んでそのガラスに軽くもたれかかった。口火を切るのは俺からのほうがいいように思われたので、なるべく陽気に口を開いた。
「よく俺の場所が分かったじゃないか!」
「それはもう、必修科目の抗議場所にいるのは当たり前でしょ?」
「当たり前のように居ないくせに吹くじゃないか……」
「そんなことはどうでもいいの。ねえ佐久間君」
そう言って崎谷はじっと俺と視線を合わせた。なんだ? なんだこの静かなる怒りとでも言うような攻めの視線は? なんだこの間は?
「オゼ・クラウスの明日の公演のチケット、譲ってくれない?」
「……なんて?」
「明日のチケットを譲ってって、お願いしてるの。もちろん、チケット代も、なんなら予想される交通費食費グッズ費用まで払うよ」
そんな真剣な眼差しでそんなこと。体験と金額は本質的には釣り合うことがないというのが持論、答えはノーに決まっている。しかし、オゼを知ってたかが一週間足らずでのめり込むものだろうか?
「悪いけど無理だよ。どうしたの? ファンにでもなっ──」
「なら行くのを止めなさい。佐久間くん、生のオゼに会うのは明日が初めてでしょ? 絶対に行っちゃだめ。帰ってこられなくなるよ」
「なんのつもりでそんなこと言ってんだ? そんなわけのわからんこと言って人が動くかよ。チケット買取のがまだマシなやり口だわ。じゃあな、わざわざ大学までご足労どうも」
もうさっさと戻ろう。厳しく叱るような言い方だし気に食わない。馬鹿と天才は紙一重とか言うがこれはそういうのでなく……。
「待ってよ……」
少しひんやりした柔らかい手が俺の右手首をキュッと掴んだ。振り返ろうとして、崎谷の顔がもう右肩に乗りそうなくらいの距離にいることに気付いて固まってしまった。
「あのね、本当に行かないでほしいんだ。もしくは私に行かせてください。受け入れてくれるなら私もあなたを受け入れる。今夜、私のすべてをあなたに預けるわ。身体も心も、好きなようにしていいよ。崎谷美希は佐久間くんのマリオネットになるの。あなたの温度で私を満たして。ねぇ、お願い……」
さっきまでとはまるで違うか細い声が、懇願が、吐息が、俺を右耳から、右頬から侵食していくようだった。じわじわと世界が崩れていくような、しかし理性は踏み止まってくれた。冷静な自分が全力で警笛を鳴らし、鐘をガンガン叩いた。こいつは本当の本当にイカれてる。0か100かみたいな手段を取ってまでしたいことがまるで理解できない。逃げなくてはいけない、性欲を刺激する悪魔から。
俺は右手を振りほどくと、全力で走った。振り返ることは出来なかったが崎谷は追ってこなかった。湯宮と葛城の顔を見るともう本当に、心からの安心を味わった。大量の汗と激しい動機をようやく自覚し、ハンカチで顔を覆った。二人とも、俺とやつがどんな話をしたか聞きたいだろうに、俺の尋常ならざる様子を見てほっといてくれた。
その日、もう崎谷は現れなかった。