正体3
警察署を前にした時、俺の願いが叶えられなかったことを理解した。崎谷は俺の半歩前に立ち、右手をぎゅっと繋いでいた。猛獣を繋ぐ鎖のようだ。不満はあったがこっちも片付けなくちゃいけないし、何より崎谷と喧嘩するわけにはいかない。
署を進む間は奇異の眼で見られた。若い男女が荷物も持たず、男に至っては浮浪者のような風貌なのだ。砂嵐のせいで髪型は散らかり、森で服は汚れた。
そんなやつが来るには清廉に整いすぎた部屋に通された。いかにも高級そうなソファに座らされ、対峙したのは署長(畠山というらしい)だった。脂ぎった肥満気味の男で、顔面皺だらけの有様だ。
「まず、君は浦中を殺していないし拳銃を奪っても居ない。間違いないね?」
「はい」
「よろしい。では──」
「ちょっといいですか」
「何かね」
隣で静かな崎谷をチラッと見てから、部屋を見渡した。恐らく署長室とかそういうところだろう。そして警察関係者を誰も同席させていない。もっとも、どこかで見ているのかもしれないが。畠山が焦れる前に口を開いた。
「浦中は殺されたと疑われるのですか?」
「いや、窒息だ。ただ窒息の原因に目星が付かないのだ。まあいいじゃないかそんなことは。それよりメディア対応についての話だ。もう知ってると思うが、君の住むマンションで殺しを働いた男は浦中に射殺され、その浦中が窒息死した。起きた事実は明確なのに、真実は霞みがかって一片も見えはしない。……メディアの情報網を甘く見ていた。事実は天下の知るところとなり、小説家気取りが真実を考えて披露しあうお祭り騒ぎだ。浅ましい。君は関係者の中で唯一の生存者になってしまった。連中は君のところへ来るだろうが何一つ答えてはいけない」
「俺が裏で糸を引いてるとは考えないんですね」と、何を思ったか吹っ掛けてしまった。畠山は見るからに不機嫌になり鼻を鳴らした。
「考えたさ。だがどう糸を引く? 催眠術か? 佐久間くんは被害者。これはどう見たって事実だよ。我々は君の味方、フン、この事件は解けないと私の勘は言っている。なら君の心身の保証をするのが警察のメンツを維持するために唯一出来ることなんだよ。頼むよ、くれぐれも守られてくれ」
「……頑張ってくださいね。崎谷、出るぞ」
畠山はますます不機嫌なようで小さく舌打ちした。座ったままで自らは送りもしないのだ。ただでも厄介なのに、こんなに横柄な被害者など来たら俺でもストレスになるだろう。ドアを半分ほど開いたところでもう一度畠山の方を見た。
「俺は月曜、当然の様に大学へ行きます。もし遊んでいる警官がいるのなら、臨時警備員として派遣してくださいよ」
畠山はギロリと睨み上げ、怒りを抑えた静かな声で「言われるまでもない」と答えた。
ドアを閉めると浦中の部下だった男が案内係として警察署の裏口を通した。次の瞬間には男は大いに困惑してオロオロ周囲を見回していた。俺と崎谷を見失ったからだ。崎谷は砂となり、俺の周囲を舞っている。光を精密に跳ね返し、光学迷彩のようになっているのだ。メディアの連中は当然気付きもしない。物乞いのように、阿保みたいに佇み、既に去っていく俺たちを待ち続けるのだ。
◆ ◆ ◆
「事の仔細はこういう感じだよ」
ナッツ・ナイトの報告を聞いたオゼ・クラウスはカップの緑茶を舌に運び、うんうんと頷いた。ホテルのVIPルーム20階の夜景が窓ガラスの向こうに広がっている。クラウスは緑茶を飲み干すとケホッと一つ咳をし、口元を拭いながら立ち上がって夜景を眺めた。
「咳をしても一人、などというポエムがこの国にはあるそうだよ。あの灯の中にいる有象無象のビジネスマンは数字に心奪われ、咳をしても本質的に一人きりだろう。でも僕には君たちがいるわけだ。重畳重畳。君の情報を聞いて思いついたことがある。もっともっと面白いことをしよう。僕は出かけるよ」
「そうかい。遅くなるなよ」
「長く見積もっても十時までには戻ってくるよ。それよりキャンディについていてやったらどうだい? 体調不良は辛いもんだよ」
そう言い残し、クラウスはホテルの部屋を後にした。